5月28日に拡張型心筋症で今井義典さんが81歳の生涯を終えられた。今井さんはNHKの解説委員、副会長を勤められた人で放送業界では高名な方だ。今から37、8年前のことになるが、衛星放送の専門雑誌の編集をしていた頃、米国特派員でBSのキャスターを担当されていた今井さんに、同じく国際派キャスターの平野次郎さんと連載対談をお願いしていたことがある。木村太郎さんや平野さんに比べるとちょっと地味な感じもあったのだが、世界情勢を分かり易く紐解いていただくのにうってつけの方であった。その後、総合放送の看板番組『おはよう日本』のメインキャスターで全国的に知名度が上がって、その後の活躍は知る通りだが、私が頻繁にお会いしていた頃はまだ40代の働き盛りで、お人柄も親しみやすくユーモアたっぷりにいろいろな世界のお話をしていただいた。BSを降りられて再びニューヨークに赴任された後も、キャスターズボイスというコラムをアメリカから寄稿していただいていた。私が衛星放送雑誌と同時にアメリカの映画雑誌の日本版を立ち上げた時、ニューヨーク出張の機会に現地でお忙しい中快く時間を取っていただき、今井さんの行きつけのリトルイタリーのレストランでごちそうになった時のことはことは今も忘れがたい思い出である。あのとき颯爽とマンハッタンの街角を歩かれる姿が何とも格好良かった。その後お会いする機会も無くなっていたのだが、副会長になられた際は出世されたなあと感慨もひとしおであった。なにかと批判もされる経営側の要職ではあるが、ジャーナリストとしていつも公平な視点は貫かれていたように思う。89年のニューヨーク、本当に楽しい時間でした。いろいろとお世話になりました。心からのご冥福をお祈りいたします。
2026年6月8日月曜日
今井義典さんとの時間
5月28日に拡張型心筋症で今井義典さんが81歳の生涯を終えられた。今井さんはNHKの解説委員、副会長を勤められた人で放送業界では高名な方だ。今から37、8年前のことになるが、衛星放送の専門雑誌の編集をしていた頃、米国特派員でBSのキャスターを担当されていた今井さんに、同じく国際派キャスターの平野次郎さんと連載対談をお願いしていたことがある。木村太郎さんや平野さんに比べるとちょっと地味な感じもあったのだが、世界情勢を分かり易く紐解いていただくのにうってつけの方であった。その後、総合放送の看板番組『おはよう日本』のメインキャスターで全国的に知名度が上がって、その後の活躍は知る通りだが、私が頻繁にお会いしていた頃はまだ40代の働き盛りで、お人柄も親しみやすくユーモアたっぷりにいろいろな世界のお話をしていただいた。BSを降りられて再びニューヨークに赴任された後も、キャスターズボイスというコラムをアメリカから寄稿していただいていた。私が衛星放送雑誌と同時にアメリカの映画雑誌の日本版を立ち上げた時、ニューヨーク出張の機会に現地でお忙しい中快く時間を取っていただき、今井さんの行きつけのリトルイタリーのレストランでごちそうになった時のことはことは今も忘れがたい思い出である。あのとき颯爽とマンハッタンの街角を歩かれる姿が何とも格好良かった。その後お会いする機会も無くなっていたのだが、副会長になられた際は出世されたなあと感慨もひとしおであった。なにかと批判もされる経営側の要職ではあるが、ジャーナリストとしていつも公平な視点は貫かれていたように思う。89年のニューヨーク、本当に楽しい時間でした。いろいろとお世話になりました。心からのご冥福をお祈りいたします。
2019年9月2日月曜日
You've got a friend
去る8月26日。志村武紀君が亡くなった。享年62歳。
自宅マンションの出火事故で煙による一酸化中毒だったという。
志村君は、電通勤務の広告マンとして、もう30年以上の付き合いだった。最初の出会いは、82年くらいだったか、当時、勤務していた『進学ガイド』誌の特集記事で「名門校の光と影」という特集企画で開成高校のOBとしてインタビューを受けてもらったのがきっかけである。同僚だった朝井泉君から、彼の幼馴染でうってつけなのがいるということで紹介された。
電話でのこちらの依頼を快諾するや、早速、彼のクラスメイトを4~5人ブッキングし、しかも企画に沿ったように東大出身者、その他の大学の出身者と取り分けて人選してくれ会場設定までやってくれ、さすがに電通マンと感心したものである。
その後、私自身が角川書店に移った際、志村君に請われ彼の担当であったリクルート社の求人誌に、バイト募集の告知を打ってあげたことで、編集者と広告代理店マンという仕事上の関係が始まり、気が付けば今に至るまで何かあると必ずお互いを利用し合うような関係になった。
私が担当する雑誌に、リクルート社、伊藤ハム、武田薬品工業、第一ホテル東京ベイ、ローソンチケット、オラシオン、日立、などなど、幾多の広告出稿をしてもらい、こちらからも台湾角川やシンガポール・ウォーカーアジア社の事業立ち上げでの広告キャンペーンをクライアントとしてプロジェクトの委託したこともある。また個人としても愛・地球博やJICAのキャンペーンを手伝わせてもらったこともあった。
特に彼自身が、学生時代から音楽活動にのめり込んでいたこともあって、仕事でも個人的でも音楽の話は仕事抜きで付き合わされたものだ。ビージーズ、モンキーズ、ウォーカーブラザース、GS、ブレッド&バター、とこちらの好みを無視して、自分が好きな音楽のCDを何枚も送りつけられ閉口したのも今となってはいい思い出となってしまった。
最近のテーマは、定年後、いかに楽しい仕事を見つけ出していくかということで、精力的に動いていたように思う。しばらく音信がなかったが、つい先月、電話がかかってきて、そもそも知り合うきっかけとなった朝井泉と3人で何年振りかで呑む機会を作ってくれた。
今考えると、まるで、この30有余年の付き合いの、総まとめをするかのように、である。
通夜だった昨夜、会場からの帰り道で志村君との仕事で知り合った伊原氏につきあってもらい渋谷で、彼を偲んでロックをレコードでかける古い店で献杯した。
リクエストした”You've got a friend” どこかで聴いてくれただろうか?
合掌
自宅マンションの出火事故で煙による一酸化中毒だったという。
志村君は、電通勤務の広告マンとして、もう30年以上の付き合いだった。最初の出会いは、82年くらいだったか、当時、勤務していた『進学ガイド』誌の特集記事で「名門校の光と影」という特集企画で開成高校のOBとしてインタビューを受けてもらったのがきっかけである。同僚だった朝井泉君から、彼の幼馴染でうってつけなのがいるということで紹介された。
電話でのこちらの依頼を快諾するや、早速、彼のクラスメイトを4~5人ブッキングし、しかも企画に沿ったように東大出身者、その他の大学の出身者と取り分けて人選してくれ会場設定までやってくれ、さすがに電通マンと感心したものである。
その後、私自身が角川書店に移った際、志村君に請われ彼の担当であったリクルート社の求人誌に、バイト募集の告知を打ってあげたことで、編集者と広告代理店マンという仕事上の関係が始まり、気が付けば今に至るまで何かあると必ずお互いを利用し合うような関係になった。
私が担当する雑誌に、リクルート社、伊藤ハム、武田薬品工業、第一ホテル東京ベイ、ローソンチケット、オラシオン、日立、などなど、幾多の広告出稿をしてもらい、こちらからも台湾角川やシンガポール・ウォーカーアジア社の事業立ち上げでの広告キャンペーンをクライアントとしてプロジェクトの委託したこともある。また個人としても愛・地球博やJICAのキャンペーンを手伝わせてもらったこともあった。
特に彼自身が、学生時代から音楽活動にのめり込んでいたこともあって、仕事でも個人的でも音楽の話は仕事抜きで付き合わされたものだ。ビージーズ、モンキーズ、ウォーカーブラザース、GS、ブレッド&バター、とこちらの好みを無視して、自分が好きな音楽のCDを何枚も送りつけられ閉口したのも今となってはいい思い出となってしまった。
最近のテーマは、定年後、いかに楽しい仕事を見つけ出していくかということで、精力的に動いていたように思う。しばらく音信がなかったが、つい先月、電話がかかってきて、そもそも知り合うきっかけとなった朝井泉と3人で何年振りかで呑む機会を作ってくれた。
今考えると、まるで、この30有余年の付き合いの、総まとめをするかのように、である。
通夜だった昨夜、会場からの帰り道で志村君との仕事で知り合った伊原氏につきあってもらい渋谷で、彼を偲んでロックをレコードでかける古い店で献杯した。
リクエストした”You've got a friend” どこかで聴いてくれただろうか?
合掌
2018年12月5日水曜日
三上真一郎さんのこと
晩年期の松竹小津組の様子が生き生きと描かれていて、最後の弟子として息子のようにかわいがられた三上氏ならではの日本映画界の巨匠の知られざる素顔、粋を絵にかいたような楽しいエピソード、周りを取り巻く映画の黄金時代を支えたキラ星のような男優、女優たちとの交遊が綴られている。そこに登場する映画人たちの大半がもう既に鬼籍に入り、チンピラ役者を自称していた最年少に近かった著者もついに亡くなられたわけなので、よく言われる「昭和は遠くになりにけり」が改めて実感させられてしまう。
三上真一郎と言えば『秋日和』『秋刀魚の味』という端役ながらも、ご本人にとっても宝物のような作品への出演が当然この本の骨格ともなっているのだが、個人的にはその後フリーになられた後の『仁義なき戦い』の新開宇吉役。『仁義なき戦い頂上作戦』の川田英光役の存在感のある演技が記憶に残る。「こんなもここらで男にならんと、舞台はもう回ってこんで」と若い小倉一郎を焚きつける狡猾な川田組組長のセリフは忘れがたい。晩年も貴重なバイプレーヤーとして活躍されていただけに、先日のあまりにもひっそりと報じられた訃報がちょっと寂しい。そう言えば『仁義なき戦い』の深作組ももう何人も生きている人たちが残っていない。
三上氏は日本酒は苦手だったそうだが、巨匠に進められるがままよく飲まされたという小津監督の愛した諏訪の銘酒「ダイヤ菊」も、昔はよく見かけたものだが、最近でも手に入るのだろうか?この年末は巨匠の愛した「ダイヤ菊」の熱燗をちびりちびり飲りながら、所蔵するこれらの作品のビデオを引っ張り出して、三上真一郎氏の若き日の姿を偲びつつ改めて見直してみようかなどと思っている。
2017年8月10日木曜日
磯野恭子さんのこと
8月6日を前にして、元山口放送のドキュメンタリスト・磯野恭子さんが亡くなられた。
広島県江田島出身の磯野さんは、放送史上に残る多くのすぐれたドキュメンタリーを制作、現場を離れても山口放送の役員まで務められた。彼女の作品のテーマは原爆をはじめ、戦争の惨劇と、その記憶を背負いながら戦後を生きてきた人々にフォーカスをあてたものが多かった。
1979年、『週刊TVガイド』の駆け出し記者だった私が、自分の担当する局の番組『ドキュメント’79』で放送された『聞こえるよ母さんの声が 原爆の子百合子』と出会った時の衝撃は今も忘れられない。原爆小頭症患者の娘と彼女を見守る家族の姿を克明に追った作品だったが、がんに侵されて娘の行く末を案じ、痩せ衰えていく身体で「死んでも死にきれない」と慟哭する母親。その死に際にまでカメラを回し続けたことの報道する側の「凄さ」に驚愕させられるとともに、そしてその結果として母親の死後、墓石に耳を当て母親の声が聞こえるという小頭症の娘の心を揺さぶられる感動的な一瞬を記録することができたことで、この番組が後世に残るものとなったのであった。その制作プロデューサーが磯野さんだった。
縁あってテレビにかかわることになったが、いつかこの作品を作ったスタッフの話を聞きたいと思い続けていたが、翌年すぐにその願いがかなった。山口放送が制作した『山口のヒロシマ』という番組が再び『ドキュメント’80』で放送されることになり、上司に猛烈に訴えて4Pの特集を組んでもらえることになった。勇んで山口放送にアポを入れると、磯野さんの東京出張のタイミングでインタビューの時間をとっていただけることになった。確か銀座の東京支社でコンビを組んでいる柴田剛カメラマンも同席していただけ、『山口のヒロシマ』で採り上げられた被爆者支援センター・ゆだ苑のことから『~百合子』のこと、そしてご自身の原爆体験に至るまで、まだ学校を出たての若造の質問に実に丁寧に優しく応対いただけ、さらに電話での追加取材まで快諾していただいた。いまでも汗顔の思い出である。
これが商業誌で初めて自分が書いた特集記事となったこと以上に、その後20数年にわたる編集者人生の原点ともいえるインタビューであった。
その後84年放送の『死者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡』(ギャラクシー賞受賞)で和田稔少尉の存在を知ったのも、自分のその後の精神史に大きな影響を与えられたと思う。和田が弾いた”タイスの瞑想”は、最も好きな曲となり今に至っている。
被爆者の念願であった国連の核兵器禁止条約が成立し、核の傘の前で肝心の被爆国が参加することなくその立場を厳しく問われている中、その無念を胸に抱かれたまま逝かれたのだろうか?
磯野さんの遺してこられた「仕事」が、いまこそライブラリーの収蔵作品というだけでなく多くの人々へ再び公開されていくことを願ってやまない。
磯野恭子さん。享年80歳。 合掌。
広島県江田島出身の磯野さんは、放送史上に残る多くのすぐれたドキュメンタリーを制作、現場を離れても山口放送の役員まで務められた。彼女の作品のテーマは原爆をはじめ、戦争の惨劇と、その記憶を背負いながら戦後を生きてきた人々にフォーカスをあてたものが多かった。
1979年、『週刊TVガイド』の駆け出し記者だった私が、自分の担当する局の番組『ドキュメント’79』で放送された『聞こえるよ母さんの声が 原爆の子百合子』と出会った時の衝撃は今も忘れられない。原爆小頭症患者の娘と彼女を見守る家族の姿を克明に追った作品だったが、がんに侵されて娘の行く末を案じ、痩せ衰えていく身体で「死んでも死にきれない」と慟哭する母親。その死に際にまでカメラを回し続けたことの報道する側の「凄さ」に驚愕させられるとともに、そしてその結果として母親の死後、墓石に耳を当て母親の声が聞こえるという小頭症の娘の心を揺さぶられる感動的な一瞬を記録することができたことで、この番組が後世に残るものとなったのであった。その制作プロデューサーが磯野さんだった。
縁あってテレビにかかわることになったが、いつかこの作品を作ったスタッフの話を聞きたいと思い続けていたが、翌年すぐにその願いがかなった。山口放送が制作した『山口のヒロシマ』という番組が再び『ドキュメント’80』で放送されることになり、上司に猛烈に訴えて4Pの特集を組んでもらえることになった。勇んで山口放送にアポを入れると、磯野さんの東京出張のタイミングでインタビューの時間をとっていただけることになった。確か銀座の東京支社でコンビを組んでいる柴田剛カメラマンも同席していただけ、『山口のヒロシマ』で採り上げられた被爆者支援センター・ゆだ苑のことから『~百合子』のこと、そしてご自身の原爆体験に至るまで、まだ学校を出たての若造の質問に実に丁寧に優しく応対いただけ、さらに電話での追加取材まで快諾していただいた。いまでも汗顔の思い出である。
これが商業誌で初めて自分が書いた特集記事となったこと以上に、その後20数年にわたる編集者人生の原点ともいえるインタビューであった。
その後84年放送の『死者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡』(ギャラクシー賞受賞)で和田稔少尉の存在を知ったのも、自分のその後の精神史に大きな影響を与えられたと思う。和田が弾いた”タイスの瞑想”は、最も好きな曲となり今に至っている。
被爆者の念願であった国連の核兵器禁止条約が成立し、核の傘の前で肝心の被爆国が参加することなくその立場を厳しく問われている中、その無念を胸に抱かれたまま逝かれたのだろうか?
磯野さんの遺してこられた「仕事」が、いまこそライブラリーの収蔵作品というだけでなく多くの人々へ再び公開されていくことを願ってやまない。
磯野恭子さん。享年80歳。 合掌。
2016年8月15日月曜日
2016年6月5日日曜日
時代がつまらなくなっていく
ある種、少年期から青年期にかけてのヒーローだった、モハメド・アリが亡くなった。
1967年のア―ニ―・テレルとの統一戦を初めてリアルタイムで観た中学時代は夢中で『ゴング』や『プロボク』を読み漁った。ベトナムへの徴兵拒否(これも反体制のシンボリックな行為でなんともカッコ良かった)のブランクの後、ジョー・フレイジャー、ケン・ノートンに負けてもう駄目なのかと思った後の、ジョージ・フォアマンとのキンシャサの奇跡は鮮烈だった。その後の、フレイジャーとの3度にわたることになった死闘やチャック・ウェッブナ―、レオン・スピンクスとの戦い…本当にどの戦いもいまだに心に残っている。
1988年に、モデルエージェンシー「エリート」の世界大会のゲストで来日し、非公式に 私が勤めていた会社の出版パーティー(東プリだった)に顔を出してくれた時は、本物を目の当たりにして感動したなあ。
時代がどんどんつまらなくなっていく気がする。
R.I.P
1967年のア―ニ―・テレルとの統一戦を初めてリアルタイムで観た中学時代は夢中で『ゴング』や『プロボク』を読み漁った。ベトナムへの徴兵拒否(これも反体制のシンボリックな行為でなんともカッコ良かった)のブランクの後、ジョー・フレイジャー、ケン・ノートンに負けてもう駄目なのかと思った後の、ジョージ・フォアマンとのキンシャサの奇跡は鮮烈だった。その後の、フレイジャーとの3度にわたることになった死闘やチャック・ウェッブナ―、レオン・スピンクスとの戦い…本当にどの戦いもいまだに心に残っている。
1988年に、モデルエージェンシー「エリート」の世界大会のゲストで来日し、非公式に 私が勤めていた会社の出版パーティー(東プリだった)に顔を出してくれた時は、本物を目の当たりにして感動したなあ。
時代がどんどんつまらなくなっていく気がする。
R.I.P
2015年12月28日月曜日
クリスマスに召された心優しき先輩を偲ぶ
12月24日。クリスマスイブになんともやりきれない訃報が入る。
以前勤めてた会社の先輩のSMさんがどうも亡くなられたらしいが聞いていないかという問い合わせがあり、あまりに突然のことだったので声にもならなかった。
22日には4月に亡くなったかつての仲間の偲ぶ会があり、SMさんは欠席していたので「元気なんでしょうか?」と何人かに聞かれたばかりのことだった。
昨日、追加の情報が入り肺がんで亡くなられた、と確かな筋からの連絡が入り、本当のことだったのかとようやく現実のことなんだと認識させられた。
SMさんと最後に話したのはさる9月末のこと。全国の米の生産地を特集する企画で助言を仰げればと思い連絡したのだが、声に元気がなく「身体の調子がおもわしくないんだよ」と言っていたので気にはなっていたのだが、まさか死に至る病であったとはつゆにも思わなかった。
SMさんは1982年TV誌の創刊時に、広告代理店を辞め雑誌広告マンとして我々の仲間に加わった。以来苦楽を共にしてきた。個人的には編集時代にもお世話になったのだが、自分が広告部に異動になった際に、いろいろとアドバイスをいただいたのが忘れられない。後輩や部下からは慕われ、彼らをかばうあまり上からの覚えがいまひとつだったが、業界的にも多くの人たちからその優しい人柄と仕事への真摯な態度から愛され、信頼された人だった。
先に会社を辞め起業した小生を追いかけるように、やりたかった産直品を扱う食の通販会社を立ち上げられ、ここ何年か企画をご一緒させていただいていた。苦労も多かったと思うが、まだまだこれから面白くなるのに、早すぎますよ。
でも、やっと色々な気苦労から解放されるね、どうかゆっくり休んでください。
いまはまだ心の整理もつかず、そんな月並みなことことしか頭に言葉が浮かんでこない。 SMさんと過ごしてきた時間を考えれば、語られなければいけないことはたくさんあるのに。
以前勤めてた会社の先輩のSMさんがどうも亡くなられたらしいが聞いていないかという問い合わせがあり、あまりに突然のことだったので声にもならなかった。
22日には4月に亡くなったかつての仲間の偲ぶ会があり、SMさんは欠席していたので「元気なんでしょうか?」と何人かに聞かれたばかりのことだった。
昨日、追加の情報が入り肺がんで亡くなられた、と確かな筋からの連絡が入り、本当のことだったのかとようやく現実のことなんだと認識させられた。
SMさんと最後に話したのはさる9月末のこと。全国の米の生産地を特集する企画で助言を仰げればと思い連絡したのだが、声に元気がなく「身体の調子がおもわしくないんだよ」と言っていたので気にはなっていたのだが、まさか死に至る病であったとはつゆにも思わなかった。
SMさんは1982年TV誌の創刊時に、広告代理店を辞め雑誌広告マンとして我々の仲間に加わった。以来苦楽を共にしてきた。個人的には編集時代にもお世話になったのだが、自分が広告部に異動になった際に、いろいろとアドバイスをいただいたのが忘れられない。後輩や部下からは慕われ、彼らをかばうあまり上からの覚えがいまひとつだったが、業界的にも多くの人たちからその優しい人柄と仕事への真摯な態度から愛され、信頼された人だった。
先に会社を辞め起業した小生を追いかけるように、やりたかった産直品を扱う食の通販会社を立ち上げられ、ここ何年か企画をご一緒させていただいていた。苦労も多かったと思うが、まだまだこれから面白くなるのに、早すぎますよ。
でも、やっと色々な気苦労から解放されるね、どうかゆっくり休んでください。
いまはまだ心の整理もつかず、そんな月並みなことことしか頭に言葉が浮かんでこない。 SMさんと過ごしてきた時間を考えれば、語られなければいけないことはたくさんあるのに。
2015年9月27日日曜日
川島なお美さんの思い出
川島なお美さんの訃報で、激やせ写真ばっかり報道されるのがかわいそうに思っていた。確かに女優としてはそれほど評価される作品もなく、歌手だったことも忘れられている感もあるが、1980年代の初頭、彼女はある種われわれ世代のディ―バだった。あのころは(その後整形したのかどうかは知らないが)顔もいまほど面長ではなく水着のグラビアが似合う健康的なアイドルだったように思う。歌の方も杉真理や伊藤銀次など多くのミュージシャンが楽曲提供していて、「泣きながらDancin'」などは、ディスコ世代としては胸がキュンキュンするくらい好きな曲だ。写真は1982年9月21日、今はもうない新宿厚生年金会館のティールームでのザテレビジョン創刊2号のインタビュー取材で。当時21歳。本当に可愛らしい人でした。 謹んでご冥福をお祈りいたします。
2015年6月24日水曜日
野獣暁に死す
文化人類学者の西江雅之さんの訃報を知った。
自分がこれまで長く編集の仕事してきた中でも、印象に残った仕事に西江雅之さんとJAZZピアニスト山下洋輔氏との対談がある。
1984年のザテレビジョンのムック本『言相樂』を編集した際、「音楽とことば、人類とことば」というテーマでお二人のお話を伺った。確か西新宿の高層ビル街の近くの石鍋料理の店の個室でやったような気がする。
アフリカのフィールドワークでお忙しい中、これも確か山下さんのリクエストで実現したと思った。西江さんによるとアフリカ現地部族のコミュニケーションが“音楽”によって構成されているというようなお話でそのぶっ飛んだ内容の面白さに、山下氏も立ちあっていた我々も大笑いしながらも西江ワールドにすっかり惹きこまれたものだ。
また、西江さんの個性と言うか、その野人ぶりにも度肝を抜かれた。料理は獣や、魚の原形をとどめていない加工されたものは食さない、と言って最後まで練り物の肉団子などには手をつけなかったのも驚いたが、体質的に肌の老廃物が出ないので何カ月も入浴をしなくても臭くならないしつやつやしたままだというのには、ほんまかいなと、飄々とした口ぶりにどこまでが本当なのかなかなか信じ難かったことを記憶している。
訃報を知った時、あの自然のまんまのワイルドな人でもすい臓がんで倒れるのかと、不思議に思ったが、やはり、人は人である限り亡くなってしまうんだなあと妙な気分にさせられた。
それにしても、もう30年ほど前のあの初夏の夕暮れのひととき。
なんとも不思議で、忘れ難い楽しい時間だったのを思い返している。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
2015年1月27日火曜日
悲しい知らせ
イスラム国の日本人人質事件の報道があふれる中なんだか嫌な気分でいたところ、個人レベルでも悲しいニュースが舞い込んできた。
またまた親しかった先輩の訃報である。詳細はよくわからないのだが年末の27日に亡くなられた旨、ご家族(といっても母上だけだったと思う)から、彼が原稿を寄稿していた版元にはがきで連絡があったようだ。
享年63歳。
故人のMYさんは、今をさかのぼる30年ほど前に一緒に雑誌を立ち上げたスタッフの一人で、前身は代理店マンとしてテレビ番組の制作などにタッチされていた。音楽に造詣が深く学生時代からラジオのDJをつとめ、音楽情報など雑誌に寄稿したりしていたので、縁あってスタッフに加わってもらった。以後20年にわたって同じ会社でともに机を並べてきた仲間である。
自分より2年ばかり早く体調を崩され社を辞められた。何年か前にお会いした時は「その後は模型グライダーの飛距離を競う趣味の世界にのめりこんでいるんだ」とお元気そうだったし、彼がフリーのライターとして寄稿している雑誌の連載を読むのが楽しかった。
MYさん、早すぎますよ。またみんなで30年前の寝れなかった日々を懐かしんで語り合おうと思っていたのに。
先に逝った他の仲間たち同様、笑顔のイメージのまま忘れません。
さようなら。
またまた親しかった先輩の訃報である。詳細はよくわからないのだが年末の27日に亡くなられた旨、ご家族(といっても母上だけだったと思う)から、彼が原稿を寄稿していた版元にはがきで連絡があったようだ。
享年63歳。
故人のMYさんは、今をさかのぼる30年ほど前に一緒に雑誌を立ち上げたスタッフの一人で、前身は代理店マンとしてテレビ番組の制作などにタッチされていた。音楽に造詣が深く学生時代からラジオのDJをつとめ、音楽情報など雑誌に寄稿したりしていたので、縁あってスタッフに加わってもらった。以後20年にわたって同じ会社でともに机を並べてきた仲間である。
自分より2年ばかり早く体調を崩され社を辞められた。何年か前にお会いした時は「その後は模型グライダーの飛距離を競う趣味の世界にのめりこんでいるんだ」とお元気そうだったし、彼がフリーのライターとして寄稿している雑誌の連載を読むのが楽しかった。
MYさん、早すぎますよ。またみんなで30年前の寝れなかった日々を懐かしんで語り合おうと思っていたのに。
先に逝った他の仲間たち同様、笑顔のイメージのまま忘れません。
さようなら。
2014年12月2日火曜日
時代の終焉
昭和という時代が終わっていく。
何年から前から、戦後に活躍してきた人たちの訃報を聞くたびに言われてきた言葉であるが、無理もない。もうすぐ平成も27年目だ。それにしても高倉健、菅原文太という東映の大スターの相次ぐ訃報は、昭和の終焉という以上に自分自身のこれまでの人生の大事なものが朽ち果てていくような悲しみを感じさせる。
しかも、戦後という時代が、それ以前の時代の文化が戦火とともに灰燼と帰したところから、貧しくても先の曙光を信じられる時代だったが、いま終わろうとしている時代の先には、明るさは見えてこない。菅原文太の晩年の社会的な発言の裏には、そんな危機感もあってのことだろう。
『仁義なき戦い・頂上作戦』で広能昌三は、敵味方に分かれてしまったかつての仲間・服部武にこんなことを言う。
「もう、わしらの時代は終いで...18年も経って口が肥えてきたけんのう。わしら、もう野良突くほどの性根はありゃせんのよ」
自分もこれからそんなに遠くなく老境を迎える。野良突くほどのことをやってきてはいないかもしれないが、身にしみる台詞だった。
この脚本を書いた笠原和夫もいまはもう亡き人である。
高倉健、菅原文太両人の不在。何ともやりきれない。
合掌。
何年から前から、戦後に活躍してきた人たちの訃報を聞くたびに言われてきた言葉であるが、無理もない。もうすぐ平成も27年目だ。それにしても高倉健、菅原文太という東映の大スターの相次ぐ訃報は、昭和の終焉という以上に自分自身のこれまでの人生の大事なものが朽ち果てていくような悲しみを感じさせる。
しかも、戦後という時代が、それ以前の時代の文化が戦火とともに灰燼と帰したところから、貧しくても先の曙光を信じられる時代だったが、いま終わろうとしている時代の先には、明るさは見えてこない。菅原文太の晩年の社会的な発言の裏には、そんな危機感もあってのことだろう。
『仁義なき戦い・頂上作戦』で広能昌三は、敵味方に分かれてしまったかつての仲間・服部武にこんなことを言う。
「もう、わしらの時代は終いで...18年も経って口が肥えてきたけんのう。わしら、もう野良突くほどの性根はありゃせんのよ」
自分もこれからそんなに遠くなく老境を迎える。野良突くほどのことをやってきてはいないかもしれないが、身にしみる台詞だった。
この脚本を書いた笠原和夫もいまはもう亡き人である。
高倉健、菅原文太両人の不在。何ともやりきれない。
合掌。
2014年9月10日水曜日
平和の申し子だった聖火ランナーの死
昭和20年8月6日、広島生まれ。
平和の申し子として、1964年10月10日、秋晴れの国立競技場の聖火台への長い階段を一気に駆け上った青年。
東京五輪聖火最終ランナーだった坂井義則氏が亡くなられた。享年69歳。
ある年代以上の人ならば、だれしもが知る名前だが、以前氏の勤務先だったテレビ局の企画会議で、定年退職された本人に五輪放送に関してのインタビューを提案したら、若い局員が誰もその名を知らなかったのに愕然とし、時の流れの速さを痛感したものだ。
2020年には観客席で成果を仰ぎたいという氏の望みもかなうことはなかった。
まったく趣を異にする新スタジアムを知らないままに、あの栄光の記憶が最後のイメージであったであろうことは、幸せなのかもしれない。
謹んでご冥福をお祈りしたい。
2014年8月13日水曜日
口笛を吹いてももう届かない
ローレン・バコール(8/12 age89)
ジェームズ・ガーナー(7/22 Age86)
相次ぐハリウッドレジェンドの訃報。
詮無いこととはいえ、輝かしい時代が終焉していくようで寂しい。
R.I.P.
2014年2月13日木曜日
美少女も歳をとりやがて朽ちるという当たり前の話
シャーリー・テンプルが亡くなった。85歳だったそうだ。女優引退後は米国のガーナ大使、チェコ大使をはじめ外交官としても活躍していたのはニュースで聞いていたが、最近名前を見なくなったと思っていたらいつのまにかこんなにお年を召されていたとは。心からご冥福をお祈りいたしたい。
さすがに彼女の子役時代の作品はニュース映像等でしか観たことはないが、1949年のジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ主演の『アパッチ砦』で、若い騎兵隊員と恋に落ちる可憐な将軍(フォンダ)の娘役を演じていたのはよく覚えている。しかしその後若くして映画界を去ってしまったので彼女をちゃんと観たのはこの作品だけである。子役のころのシャーリーに対しての思い出は映画というより不二家のフランスキャラメルのキャラで会った少女が、シャーリーの写真をもとに図象化されたと聞いて、その印象の方が大きかったくらいだ。
ロリコン癖があったグレアム・グリーンが彼女の映画で欲情を感じる男が多いと評論し、まだ保守的だった米国社会からドン引きされ、批判にさらされたのは時代を感じる。後年共和党員として米国内でチャイルドポルノを厳しく規制する法案成立にを彼女が立ちあがったのは、こういう論評にさらされた経験からだったからだろうか。いまの日本のアニメ見たらグレアム・グリーンもぶっとぶかもしれない。
昨年、当時のもう一人の美人少女女優だった『オーケストラの少女』のディアナ・ダービンも亡くなったばかり。それにしても、あんなに可愛らしい少女が、時間とともにやはり歳をとって、老女となりやがて鬼籍に入る。こんな当たり前のことが最近自分も歳をとったせいか妙に感じ入ってしまうのである。ハーマイオーニーのエマ・ワトソンもヒットガールのクロエ・グレース・モレッツもやがては同じ道を辿るんだろうなあ、と変な想像をしてしまった。
そういえば『シベールの日曜日』のパトリシア・ゴッジはいまどうしているんだろう。
さすがに彼女の子役時代の作品はニュース映像等でしか観たことはないが、1949年のジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ主演の『アパッチ砦』で、若い騎兵隊員と恋に落ちる可憐な将軍(フォンダ)の娘役を演じていたのはよく覚えている。しかしその後若くして映画界を去ってしまったので彼女をちゃんと観たのはこの作品だけである。子役のころのシャーリーに対しての思い出は映画というより不二家のフランスキャラメルのキャラで会った少女が、シャーリーの写真をもとに図象化されたと聞いて、その印象の方が大きかったくらいだ。
ロリコン癖があったグレアム・グリーンが彼女の映画で欲情を感じる男が多いと評論し、まだ保守的だった米国社会からドン引きされ、批判にさらされたのは時代を感じる。後年共和党員として米国内でチャイルドポルノを厳しく規制する法案成立にを彼女が立ちあがったのは、こういう論評にさらされた経験からだったからだろうか。いまの日本のアニメ見たらグレアム・グリーンもぶっとぶかもしれない。
昨年、当時のもう一人の美人少女女優だった『オーケストラの少女』のディアナ・ダービンも亡くなったばかり。それにしても、あんなに可愛らしい少女が、時間とともにやはり歳をとって、老女となりやがて鬼籍に入る。こんな当たり前のことが最近自分も歳をとったせいか妙に感じ入ってしまうのである。ハーマイオーニーのエマ・ワトソンもヒットガールのクロエ・グレース・モレッツもやがては同じ道を辿るんだろうなあ、と変な想像をしてしまった。
そういえば『シベールの日曜日』のパトリシア・ゴッジはいまどうしているんだろう。
2013年6月15日土曜日
怪童逝く
東映フライヤーズの往年のエース・尾崎行雄さんが亡くなった。
今の計測器があれば160kmは出ていたといわれる60年代の球界を代表する速球王だ。
数年前に機会があって会食の機会があった。憧れの選手だった人を前にしてコチコチに緊張していたが、当時の西園寺、毒島、青野、佐野、岩下といった東映の選手たちの思い出を話題にすると「よほどのファンだったんだね」と嬉しそうに握手をしてくれた。
実は自分が西鉄ファンで、憎っくき相手として記憶していたことは最後まで言い出せなかったが、サインボールを書いていただき、それは大事な宝物となった。
怪童とよばれた不世出の選手の早すぎる訃報に、そのときのことを思い出しながら今夜は献杯することにしたが、なかなか酔えないでいる。
心からのご冥福をお祈りいたします。
2013年1月16日水曜日
大島渚
年末に故小川徹の映画評論集『橋の思想を爆破せよ』を読んでいたばかりだった。戦闘的かつ孤高の映画評論家が、昭和42年に記したこの評論集の中で「われらの作家たち」という項に新藤兼人、大島渚、吉田喜重、武智鉄二、羽仁進、黒澤明をとりあげそれぞれ論評されていたのだが、特に大島については『白昼の通り魔』『日本春歌考』の2作品にスポットを当て、「戦後世代の政治世界への裏切りと、性の思想の関連において、かつてないほど自己を作品の表面に登場させてきた、といいうるのである」と熱く分析している。当時公開直後だっただけに小川の受けた衝撃も大きかったのだろう。
小川の独断に満ちた裏目を読んだ論評にはいささか鼻白む面もあるが、彼の本がきっかけで病床で闘病しているという戦後安保世代の映画監督の作品をもう一度観てみたいと思っていた。昨日の大島渚の訃報はその矢先のタイミングで少なからず驚かされたが、特にテレビのニュース等でことさら紹介される『戦場のメリークリスマス』『愛のコリーダ』といった大監督になってからの作品ではなく、革命運動を志し挫折し映像表現に自身とその世代の葛藤を投影させた松竹時代からATGに至る若き頃の作品の再評価をこそが、3.11以降に生きる我々に必要な気になってくる。
追悼ということもあるが、手元にVTRで残してある『青春残酷物語』『日本の夜と霧』のあたりからもう一度見直して見たいと思う。
2013年1月8日火曜日
和製ウィドマーク逝く
ずいぶんと時間が流れてからの哀しいニュースである。
『独立愚連隊』はじめ東宝中心に多くの映画で渋いバイプレーヤーとして活躍された佐藤允氏が12月6日に亡くなられていたそうである。享年78歳。
昭和のスクリーンを飾って来た人たちが相次いで去っていく。
時の流れを思うとともに、故人の業績を偲び哀悼の意を表したいと思う。
2012年12月5日水曜日
140越え
年に1回の健診で血圧測定で初めて140を記録してしまった。
いままでは比較的血圧は安定していて医師からはかつておほめの言葉をもらっていたこともあったのだが、昨年初めて「高めですね」と言われ驚いた。気にしつつはいたのだが今年はついに高血圧の分岐点ともなる140を記録してしまったのである。
もちろん加齢もあろうが生活習慣に根差すところは明らかで、飲酒、外食、運動不足の3要素が確実に数値を押し上げているわけだが、こればっかりはすぐに改めよと言ってもなかなか出来ることではない。まあ友人たちに言わせれば、「140なんてまだまだ」「俺なんて医者から降圧剤飲まなきゃ死ぬよって脅された」とか大した部類には入らないらしいが、高血圧自慢をしていてもはじまらない。
中村勘三郎が逝去した。何とか言う肺の疾患だが、元は食道がんだ。
昨夜よく行く飲み屋の大将が食道がんになったことを聞き、そういえば仕事で付き合っている高校の1級後輩も肺がんの闘病中だったことを思い出し、われわれも気をつけなければねなどと会話していた矢先のことで驚いた。
勘三郎は1級下の同じ歳。学生の頃、在学していた八十助(現板東美津五郎)を訪ねて来ていたのを見かけたことがある。歳が近い人の訃報は本当に身にしみるものがある。心から哀悼の意を表したい。
晴れて140を超え、立派な生活習慣病予備軍に加わってしまった今、明日はわが身を自戒しつつ、せいぜいガンジーの言う「明日死ぬことを考えて、今を生きよ」を肝に銘じて生きてかねばなるまい。
まずは少し身体を動かそう。仕事もそこそこにしなければ。
2012年11月12日月曜日
2012年6月28日木曜日
RIP
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