2011年2月26日土曜日

スキー場で日本の衰退を憂う


今週はFK誌の取材で長野県菅平高原へ出張した。昨秋に続き2度目の訪問だが今回は一面の銀世界。
スキーシーズンド真ん中ではあるが仕事は春から夏にかけての少年サッカーの大会誘致に関連した話で、別に滑りに行ったわけではない。しかし、スキー場にいること自体もう何年振りだろう?それこそ10年くらい前に夕張映画祭を取材したついでに滑って以来じゃなかろうか。学生時代やサラリーマンになりたての頃は週末車でスキー板を積んでユーミンかけながらしょっちゅう苗場や湯沢、白馬あたりに出掛けたものだが、もうトンと足が遠のいてしまった。
しばらくゲレンデとは縁がなかったが、ただ明らかに昔と変わっているのはスノボの若者グループが散見するのとスキー教室できている高校生たち以外に、かつてはあふれかえっていた大学生や若い社会人といったようなスキー客を全然見かけないことだ。リフトだって延々空のまんま動いてからからと音を反響させている。変わっていないのはレーモン・ルフェーブルみたいなお約束のイージーなBGMくらいだ。それがいっそう物悲しさを誘ってしまう。平日だとはいえ昔を知る人間にとってはその寂びれ具合に正直驚いた。あの週末の池袋や新宿に並んでいたスキーバスはどこに行ったのだろう?関越の入口がスキーキャリアを乗せた車で渋滞したのはもう消滅したのだろうか?
まあ、上越新幹線の走っている地域や、それこそ北海道のスキーリゾートあたりはさすがにこれほどのことはないのだろうが、日本社会の元気のなさが反映されているようでなんだか脱力してしまった。
これじゃ、車は売れないわ地方に金は落ちないだろうな。人も物も動かないんじゃ経済が回転するわけがない。それも景気後退のためだけなのだろうか。
最近の若者は、なんて言い始めると、自分が歳を取ってしまったと後で反省するのだが、そもそも若い世代の連中に本当にはつらつとした「午前10時の太陽(by毛沢東)」という生気を感じない。こんな空気を反映させてか結局、同行した同年輩の関係者たちとの飲み会の席でも若い社員たちのひきこもり的な職場態度の愚痴を聞かされる羽目になってしまう。
部屋に戻ってニュースを観ていても国会は相変わらずため息が出るような空転ぶりだ。
はあ~、日本の前途はいったいどうなるんだろう。

2011年2月13日日曜日

週間呑みアルキスト1.24~2.13


●1月25日
アジアカップはいよいよ韓国との準決勝。夜10時キックオフのためU誌NK氏との打ち合わせ終了後大急ぎで帰宅。ところが帰りの地下鉄・有楽町線が人身事故でストップするアクシデント。あわてて途中からタクシーに乗り換えなんとかキックオフぎりぎりに帰宅テレビの前に滑り込む。そして手に汗握るPK戦を制し日本勝利!小躍りしながら深夜スーパーでワインを買い求め一人祝杯をあげる。なんだかんだ興奮冷めやらぬで結局朝まで家呑み。

●1月26日
仕事帰りに『明治屋2nd』に立ち寄ると、お客さんたちはやはり昨夜のサッカーの話で持ちきり。昨年のワールドカップでの健闘もあるのだろうが、アジアの大会でこれだけ世の中が盛り上がるとは驚きだ。古いサッカーファンとしては戦後長きに渡って野球の国だった日本も変わったものだと感無量である。しかしながら昨夜の激戦の勝利には代償も払わなければならなくなった。香川の骨折による離脱。29日の決勝に向けてザックジャパンの試練は続く。

●1月29日
アジアカップ決勝。深夜0時キックオフ。相手国オーストラリア産のワインを呑みながらの観戦。キューウェル、ケーヒルの強力FWの対応に追われ日本はなかなかいい形を作れない。相手の高さに対してショートパスで攻撃を仕掛けるが、香川の不在もあって相手の堅い守備をなかなかこじ開けることが出来ない。試合は韓国戦と同様に延長へ。そして延長後半、長友の左サイド突破から中央でフリーになっていた李忠成の見事なボレーが炸裂。日本はついにアジアの頂点に立つ。試合ごとに成長した素晴らしい勝利である。7月のコパ・アメリカ、そしてワールドカップ予選とコンフェデレーションカップ。ザックジャパンの今後は本当に楽しみになってきた。

●1月31日
3年前に惜しまれつつ廃刊になったEX誌のスタッフたちによる年1回の飲み会が新宿の居酒屋『木村屋本店』で開催される。この日は最近仕事をもらっているUJ誌の入稿日のため参加が危ぶまれたが前日の日曜出勤でかなり準備していたこともありなんとか時間を見ながら参加することが出来た。当時20代だった編集部で一番若かったTU嬢の結婚が決まったとの発表もあって会は一気に盛り上がり参加者一同次の店に繰り出すが、残念ながら入稿途中の身としては皆のブーイングを背に編集部に引き返す。

●2月2日
いつものようにKJ氏来社で中華料理の『源来軒』で食事後、『明治屋2nd』へ流れる。『源来軒』ですでにビール、紹興酒をしこたま呑んでいたことも合ってKJ氏は久々にヘロヘロになるが、こうなると尻が長くなり帰りたくない病が始まる。何度も同じ話を繰り返すKJ氏に付き合いきれず、こっちは電車があるうちにさっさと切り上げる。

●2月3日
高校のマスコミ会の後輩で編集プロダクションのOS社に勤めている女性編集者KMさんが夕方に来社。食事をかねて『明治屋2nd』で一杯やることに。彼女は昨年出版された高校の同窓会の「70年史」をボランティアで手伝っていたとかで見せてもらった冊子には歴代の文化祭のパンフの表紙が並べてあった。その中で自分が昭和48年に編集をした懐かしい表紙も掲載されており、当時の思い出話に花が咲く。あの頃は自分が出版の仕事に携わるなんて考えてもいなかったが、今思えばあの頃からその後の人生の下地が出来ていたということか。

●2月7日
KM社の後輩編集者であるWS氏が、KM社のフラッグシップである週刊誌の編集長に就任したということで、KGカメラマン、KJ元編集長と一緒にお祝いと激励の会を催す。場所は四番町のドイツ料理『パウケ』。この店自慢のアイスバインにかじりつきながらドイツビールにラインワインを満喫する。WS氏とはHV誌で昨年ワールドカップの増刊号を一緒に制作したが、うるさがたの先輩たちはお祝いはそっちのけでここぞとばかりWS氏に再度の仕事の発注を強要する。まあWS氏としても安請け合いは出来ないだろうが、最近のザックジャパン人気で再び7月のコパアメリカ直前に増刊号が出せれば面白いと思うのだが。遅れて合流したWS氏の同僚のTK氏ともども四谷に移動、Bar『3Circle』で深夜まで話し込む。

●2月9日
K社の後輩で現在は新潟の蔵元へ転職したHR氏が上京。彼が出てくるといつもは自分の部下でHR氏と仲が良かったAS氏と3人で呑むことが多いのだが、今回はやはり昔編集部で部下だった女性AOさんが特別ゲストで登場。日本橋のCOREDO室町の中にある『米祥』というお米にこだわった割烹で即席同窓会と相成った。AOさんとはほぼ15年ぶりくらいの再会。社内結婚で退社したのだがもうお子さんも高校生と聞いてビックリ。時のたつのは本当に早いものである。男性陣はそれぞれに容貌も経年劣化しているがAOさんはちっとも変わっていない。というか話し方とかも当時のままなので一気に時間がさかのぼったような錯覚に陥る。最近、けっこう昔の知人に会う機会がなぜか増えだしたが、こういう再会もまた楽しいものである。

●2月10日
かつてのK社人脈のKJ氏とSM嬢で新規の仕事の打ち合わせ。季刊の広報誌の仕事を請け負うための相談だが上手くいけばなかなか面白そうな展開になりそうである。打ち合わせの後、先だって行った神保町の新しいシンガポール料理レストラン『マカン』へ。久々の軽いタイガービールがピリ辛のぺラナカン料理に良く合う。シンガポール駐在からもう8年ほど経ってしまったが、聞くところによると好景気にわくシンガポールの街も相等に変わったらしい。住んでいるときは退屈な町だったが海南鶏飯とか食べると妙に懐かしくなる。近々に何とか時間を作って再訪したいものだ。

●2月12日
前日から雪交じりのみぞれが降る寒い週末であるが、以前旅行代理店に勤めていた友人のHT氏と久々に新宿で落ち合い、食事をかねてつまみ類が充実している居酒屋『かり屋』へ。夕方5時過ぎの開店と同時に呑み始め、結構酔っ払ったと思ったがまだ10時前、連休中日で次の日も休みだがほどほどにして早めに切り上げることに。

2011年2月4日金曜日

マリアの宝物


3日、闘病中のパリの病院でひっそりと女優マリア・シュナイダーが亡くなった。58歳だった。

マリアとは2006年の6月4日、ある雑誌の仕事で来日中の彼女のインタビューの編集立ち合いでお会いした。場所は赤坂の料亭「弁慶橋清水」。インタビュアーは彼女が個人的に親しかったエッセイストの伊藤緋沙子さん、カメラはリウ・ミセキさんという豪華な取り合わせだった。

マリアは20歳の時にベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でマーロン・ブランドと共演し大胆な性描写で鮮烈なデビューを飾った。この時のスキャンダラスなデビューが彼女を世界的なスターにしたのだが、この印象があまりにも強く逆に女優としての役どころが制限されてしまうきらいがあった。また若いころは気難しいことでたびたびトラブルで降板事件を起こしたりした。薬の中毒になったり情緒不安になることもあるような時期もあったという。使いずらいというイメージがあったのだろうか30年のキャリアの割にはそれほど多くの作品を残していないが、84年に黒井和男監督、武田鉄矢主演の日本映画『ヨーロッパ特急』に出演したことがあったからか大の日本びいきで、自宅には畳をひいているほどだと笑っていた。この時は3度目の来日だった。

元『PREMIERE日本版』の編集長という経歴を彼女に紹介していただくと、映画の話で意気投合してとても盛り上がった。ベルトルッチの話、マーロン・ブランドの話、ジャック・ニコルソンの話、彼女の父であるダニエル・ジェランの話、そして自分が関わっている引退女優の老後の生活の支援をする活動など、本当に楽しい時間を共有でき、あっという間に時がたったような気がする。気難しさなどみじんも感じさせない飾り気のないチャーミングな中年女性という感じであった。なんだか国籍の違う友人のような親しみを感じていたくらいだ。

記念にしようと持参した個人的にも大好きな映画、ミケランジェロ・アントニオーニ監督『さすらいの二人』(1974)のDVDのパッケージにサインをせがむと、逆にそのDVD自体を所望されてしまった。聞けば、フランスの版権はジャック・ニコルソンが持っていて、なぜかフランスでは権利問題があって未発売のままなのだそうである。リージョンコードがあるので欧州の家庭用のDVDデッキでは観れないかも、と教えたところ「それでもかまわない。作品として手元に持っていたい。私の宝物だわ」と大事そうに仕舞い込んでいた。
そのお礼にと伊藤緋沙子さんの著書でマリアがパリの案内役となっているガイド本「パリおしゃべり散歩」にサインをしていただいた。Vive le cinema!(映画万歳!)と一言添えてあった。
それは逆に私の宝物となった。

あのDVDは彼女の遺品の中に今も残っているのだろうか?
彼女の訃報に接し、嬉しそうにはしゃいでいたあの時の笑顔がすぐに浮かんできた。

どうか安らかに。