2009年9月26日土曜日

嗚呼憧れのローマ航路


日本航空の経営悪化に伴う再建策が大きく取りざたされている。
政府の公的支援要請に対する経営努力の提示のなかで2011年までに6800人の人員削減、赤字路線国内29路線、7空港の廃止に加えて国際便もどうやら成田―ローマ、成田―サンパウロの2路線の廃止を検討しているらしい。

成田―ローマ便は1983年だったか、始めてのヨーロッパ旅行で南回りの帰国便として使ったので個人的には実に思い出深い。当時の仕事でテレビの海外ロケの同行取材に行った際、入稿の関係で一人先に帰国することになりスペインからローマまでイベリア航空で飛び、このローマ便に乗り換えた。
ローマ→バーレーン→ニューデリー→バンコク→香港と継地して22時間のフライトだった。もちろんエコノミーの狭い座席だったうえ、ローマの乗り換えで8時間以上ディレイしたので日本に帰ってきたときにはさすがに疲労困憊だったが、ローマからニューデリーまで隣り合わせたイタリア人のご婦人と下手な英語で会話したり、ニューデリーからのインド人の団体のスパイシーな体臭に閉口したり、その後乗り合わせたイラン人がとてもインテリジェンスがあって会話が弾んだり、日本人CAからは日本人と思われずに英語で対応されたり(面白いから成田に着く直前まで日本語話さなかった、最後に日本語で話したときはびっくりして恐縮しまくっていたなあ)、なかなかにロードムービー的な趣もあった。
その後、湾岸戦争やニューデリーでの墜落事故もあって南回り便はとっくに廃止になっていて、今回検討課題となっているローマ便はシベリア上空を飛ぶ直行便なのであまり関係ないかもしれないが、成田とローマをつなぐ航路はヨーロッパへの憧れとともにこれまで幾千、幾万の人がさまざまな旅の思い出を乗せながら飛び続けてきたのだと思う。

ローマ便を利用する人はほとんどが観光目的だろうから(ビジネスはミラノ便だろう)、景気によって乗客数は大きく左右されるので赤字になってしまうのも仕方がないのかもしれない。実際、その後何度となく海外へ旅行した自分にしてみても、この1回きりしか乗っていないので偉そうなことは言えないが、ローマ便の廃止はなんとなく淋しい気分がしてならない。
日本の航空時代幕開けとともにナショナルフラッグとして歴史を刻んできた日航も、世界的な経済危機の中ではいかんともしがたいということなのだろう。親方日の丸的な経営感覚を批判する声も大きいが、「日本の翼」である以上はたとえ採算が取れない便があったとしても、“飛ばす意義”の路線拡充も国策として行われたこともあったはずである。放漫経営のツケという一方的な批判もあろうが同情する部分もなきにしもあらずという面もあろう。

聞けば、にわかに経営支援を打診したデルタ=スカイチーム、アメリカン=ワンワールドという航空連合の袖の引き合いも始まったという情報もある。今後どんな展開を見せていくのかその行く末が気になるが、今回の日航再建案のニュースに接して、20年以上も前の憧れだったローマ航路を利用した初めての欧州への旅の記憶がまざまざと蘇ってきた。

2009年9月21日月曜日

週間呑みアルキスト9.7~9.21


●9月10日
仕事場の移転で大変だったJAKEさんが、ようやく一段落したということで、SB社の編集者ON氏とともに企画会議をかねて新宿三丁目の『かり屋』に集合。このメンバーで“何か面白いこと仕掛けましょうよ”という合言葉でブレーンストーミングをやるのは2回目なのだが、やはり今回も呑んで馬鹿話をして終わってしまう。あっと気がつけばもう終電タイム。まあそれだけ話は弾むわけなのでいつかは仕事の話にもなるのではと、次の“企画会議”を約して解散。

●9月13日
お隣の『明治屋2nd』の常連さんたちで、シーズンも終了間近の『神宮外苑森のビヤガーデン』でバーベキュー会。参加は老若男女役18名。前日までは強い雨だったが一夜明けてすっかり快晴の一日となり、秋の気配を感じさせる緑の中でのバーベキューはなかなか気持ちが良かった。2時間食べ放題呑み放題なので、つい元を取ろうと結構な速さでつぎつぎと肉や野菜のプレートが空になっていく。終了タイムにはすっかり満腹、時間も宵の口だったが一同動けないほど詰め込んでいたのでこの日はおとなしく散会することに。

●9月14日
帰り際に向かいの事務所のAkiさんにちょっくら届け物で立ち寄ると、ライターのYN氏とともにこれからSB社のON氏と新宿で食事をするので合流しないかとのお誘いを受ける。昨夜のバーベキューのコレステロールが落ちる間もなく、新宿三丁目の『情熱ホルモン』で再び肉を焼く煙立ち込める中、またまた生ビールが進んでしまう。今年のメタボ健診もすっかりスルーしてしまったのを思い出し、いずれ天罰があたるかもと少し反省モード。

●9月16日
スポーツカメラマンのKT氏、元K社のKJ氏とともに代々木上原の蕎麦屋『山せみ』で呑み会。昨今の出版不況はカメラマンも直撃しKT氏も経費節減から事務所を四谷から千歳烏山に移転したそうである。悪いことにKT氏は先日のベルリン世界陸上の現地取材で、ホテルのチェックイン時に置き引きにあって仕事道具のカメラからパソコン、パスポートやカードまで盗難にあってしまったということで元気がない。自ら蕎麦を打つほど蕎麦好きのKT氏、われわれ一押しの『山せみ』の美味い蕎麦を賞味してもらいやっと場も盛り上がる。2軒目は上原に呑みに来る定番コースとなった『ファイヤーキングカフェ』へ。密かに熱を上げていたお気に入りのメガネ美人スタッフの女性が辞めてしまっていて(もう1年来ていないので仕方ないが)、こんどはこっちが意気消沈の巻。

●9月17日
ST企画のMT社長が同伴者にドタキャンされたとかで、急遽、恵比寿『アートカフェフレンズ』で催される美人ヴァイオリニスト松本蘭のサロンコンサートのお誘いを受ける。一見クラシックとは似つかわしくないMT社長だが、ご本人とは幼いころからの知己だとか。現地でMT社長と家族ぐるみのお付き合いをしているMG医師ご一家と合流。MG医師の奥様とヴァイオリンを習っているお嬢さんもみなわが母校の出身と紹介されてすっかり打ち解ける。コンサートを楽しんだ後、MG医師をお誘いして男性だけで天現寺の『Le Bar』へ。アンビエントな大人の空間で中年男性3人で来る店ではないが、この手の店も久しぶりなのでつい遅くまでグラスを傾ける。気がつけば終電はすでにない時間、事業好調のMT社長とMG医師のお二人は問題なかろうが、こちとら練馬の田舎までタクシーで帰還するには万札飛ぶのが必定。仕方がないので神保町の事務所まで戻って朝まで時間をつぶすことに。クラシックの調べ、バブリーなBarというひとときから急に現実に引き戻されてしまいすっかり酔いも覚めてしまう。現実は厳しい。

●9月18日
シルバーウイーク前、『明治屋2nd』に立ち寄ると以外に空いている。行楽の前夜だからというより給料日前だし、5日も連休で仕事を休んでは界隈の自営業者にとってみれば飯の食い上げだし、外に出れば金もかかるし、ということではないだろうか。政権交代した鳩山内閣もようやく組閣も終わり動き出した。なんとか景気が上向くように頑張ってほしいが…。

2009年9月18日金曜日

美貌のヴァイオリニスト


美貌のヴァイオリニスト松本蘭のコンサートを観にいってきた。
すでに高嶋ちさ子のプロデュース“12人のヴァイオリニスト”の一人として活動していたが、今回が彼女のプロとしてピン立ちした初めてのデビューコンサートである。
なんといってもこの人、2009年度ミス日本グランプリコンテストで、ミス日本「ミス着物」に選ばれたというビジュアル!昨今、美形のクラシック奏者がとりざたされるが、ミスに輝いたのはこの人ぐらいだろう。

会場は恵比寿のアートカフェ・フレンズ。キャパ80くらいの飲み食いありのいわばサロンコンサートだったが、くつろいだ雰囲気でしかもその美貌振りを間近にできるとあって、開演のころには予備の椅子も出されほぼ満席。

そのビジュアルもさることながら、桐朋学園大学在学時から数々のコンクールで入賞し、ソリストとして東京交響楽団やロイヤルチェンバー楽団と共演を果たしたり演奏の実力のほうも折り紙付である。
比較的耳に親しんだ曲が多いデビューアルバム「蘭ing」を中心とした選曲だったが、マスネの「タイスの瞑想曲」の情感あふれる演奏にしばし忘我の境地。

きさくなMCも好感度大。
チェリストの長谷川陽子さんと並んでお気に入りの一人になりそうだ。

2009年9月17日木曜日

10th Anniversary


早いものでもう10年。
今日はかつてスタッフの一員として台湾で立ち上げた『Taipei Walker』誌の創刊10周年に当たる。
当時はウォーカーシリーズが絶好調の時期、日本の出版社の初の海外進出ということで、今では考えられないくらいの勢いで手間も金もかかったプロジェクトだったし、いわば無謀なまでのチャレンジとも言えたが、正直仕事のダイナミズムに夢中になれたし、生涯でも忘れえぬ面白い日々だった。

なんといっても思い出深いのは創刊前後の1週間だ。
当初は、日本のウォーカー同様に火曜日発売を予定し本来だったら9月21日が創刊日であった。しかしながら台湾での週末の人の出や、創刊イベントや宣伝等のタイミングを考えて直前に前週末の17日を創刊日に繰り上げたのが幸いし(本社は突然の変更に激怒、担当役員からずいぶん怒られたが)、迎えた創刊日には台湾出版史上空前の部数を売上げすっかり面目躍如。そして本来の創刊日だった21日になんと台湾大地震が発生したのである。今思い返しても冷汗が出るし本当に天の啓示だったと思わざるを得ない。

その後2年にわたる台北暮らし、シンガポール駐在と続いていくのだが、その間にも20世紀最後の日を台北の中山競技場のカウントダウンイベント会場で迎えたり、明けて3月の総統選挙で1911年以来君臨していた国民党政権が瓦解した現場で興奮したり、いろいろなことを体験したがみんなみんなつい昨日のことのようだ(その時の主役・陳水扁総統もいまや獄につながれているのが月日の経過を感じさせるが)。

『Taipei Walker』はその後、隔週刊行が月刊となったがデジタル化もうまく行って、“台湾の雑誌”としてすっかり定着したようだ。自分自身はもはや単なる部外者となってしまったが、当時の同僚だったST氏はいまだに香港と台湾を行き来し現地で頑張っているし、ジョブホッピングが当たり前の台湾人スタッフも何人か辞めずに頑張っている。本当に彼らにはこの10年の成果に対して心からおめでとうと言いたい。また当時仕事でお世話になった日系企業の現地駐在の人たちや多くの現地の協力者にも改めて感謝の意を表したいと思う。

聞けば来月には創刊10周年ということで久々の雑誌主宰のフリーマーケットのイベントが行われるらしいので(第1回目の発案者なのだ!)、ぜひ参加したいと思っている。いまから当時苦楽を共にした仲間の顔を見るのが楽しみである。

2009年9月10日木曜日

手放しでは


欧州での評価試合の2戦目は、3日前W杯本大会出場を決めたばかりのガーナが相手。
2点のビハインドを何とか跳ね返し4-3で競り勝った。

2-0となった時点でズルズルと崩れずに、最終的にひっくり返した結果は確かに評価されるべきであろう。
後半から入った玉田、稲本はよく機能したし、ゲームの流れを読んだベンチワークもまあこの試合に限ってはよかったのではないだろうか。

しかし、だからと言って手放しでは褒められない。
ガーナは3日前の最終予選スーダン戦で全力を投入したばかり、翌日飛行機に乗せられオランダまで移動、少なくともチームとしての練習は前日軽く流した程度だろう。こんな状況でガチで戦えと言っても不可能。チーム力としては8掛け以下と見るべきだ。実際、その身体能力もあるのだろう1対1の強さは言わずもがな(2点目中澤がぶっちぎられたのは凄かった!)、前半は引きながらの素早いカウンターで強豪の片鱗を見せつけたが、後半日本に追い上げられてからは足が全く止まってしまった。

このコンディションの悪い相手に前半からチャンスを何度も作りながら全くシュートが不発。お定まりの決定力不足で試合の主導権を逆に握られてしまった。前半に少なくとも得点で来ていたならもっと楽に勝てた相手だと言わざるを得ない。

収穫は稲本。7年間海外でもまれているだけあってフィジカルも見違えるほどだったしゲームを作るためにどう動けばよいのかもよく理解できていた。3点目のアシストも自身で決めた4点目も素晴らしいの一言。オシム、岡田体制では代表に呼ばれても控えにされることが多かったが潜在能力の高さを改めて示してくれた。

オランダ戦で力量不足の不安を露呈した代表ではあるが、ガーナ戦ではその不安を完全に払拭するにはいたらないまでも、根性だけは見せることができたとは言えるだろう。来年までにどこまで積み上げられ、どこまで新しい「ピース」をはめ込んでいけるのか。
岡田は“時間はまだある”と強気だったが、本番までの残された時間で今後どれだけチーム力をビルドアップできるのか、課題はまだまだ山積している。

2009年9月7日月曜日

週間呑みアルキスト8.24~9.6


●8月27日
M企画のMT社長よりお誘いがあって、彼の友人である米国人J氏と一緒に四谷の高級焼き鳥屋の『ただ野』へ。ここはMT社長の奥様の同級生だった人が経営しているのでMT社長は公私でよく使う店だ、以前一度連れてきてもらった事があるが、焼き鳥のコースの〆に出された鶏スープが絶品なのである。この日のゲストJ氏はアジアへの欧米企業の進出をサポートするコンサル業務をメインにしているが、日本人の奥さんの実家の近所のつくば市を拠点にセミプロのバンドをやっている。リチャード・ブランソン似の風貌だが日本語はほぼネイティブ。かつて台湾にもいたことがあるとかで“中国語は?”とたずねると“一點,可以説中文”と返ってきて、すっかり意気投合。

●8月28日
大手代理店D社出身で現在は富裕層に向けたマーケティングの会社を経営するMB氏と会食。場所は銀座・松坂屋近くの和風ダイニングの『黒磯』。以前は『黒吉』という名だったが経営者が変わったのだろうか。内装もメニューもそれほど変わってはいないし、値段の割りに料理もそこそこ手が込んでいる。MB氏も昨今の景気の現状を憂えていたが、いままでの紙媒体を中心にした事業からITに主軸を移すとのこと。色々とアイデアはあるらしいのだが軌道に乗せるまでには苦労しそうだと言うものの、可能性と勝算はあると意気軒昂。協力を要請されるが、こちらも紙の限界は感じるもののITをどれだけ理解できているかと問われると自信がない。そんなことも言っていられないのだが。

●8月29日
土曜日、まるまる休日にし一日家でだらだらすることに決め込む。夕方、ひさびさに地元の石神井で外食しに出かけ、地元の古い定食屋『ほかり』に20年ぶりくらいに入ってみた。この店はごく普通の街中の定食屋なのだが実は大変な歴史を持っている。かつて昭和28年ころ、無頼派作家・坂口安吾が伊東競輪事件(不正の言いがかりでスキャンダルになった)で壇一雄宅に身を寄せていた際、睡眠薬で狂気に駆られ三千代夫人にライスカレー100杯の出前を言いつけ、その注文を受けた店がここなのである。
“私が百人まえ注文に行ったらおやじさんがビックリしていたがうれしそうにひき受けた。としをとったおかみさんをトクレイしながら、いそいそとあとからあとから御飯を炊いて、ライスカレーを作っては運んでくる姿が思い浮かぶようだ。それをまた、私達はニコリともせずに一生懸命食べた。十人足らずの人で、ムロン、百人まえは食べ切れなかった”(坂口三千代著「クラクラ日記」より)
実際はこの店だけでは間に合わず、隣接する食堂『辰巳軒』にも応援を頼んだそうで、この店も現存している。ということで昔の物書きたちの面影を偲ぼうとビールを飲みながら数ある品書きの中からカレーをチョイス。もちろん代替わりしているので同じ味ではないと思うが、安吾や壇さんも食した伝説の一品を味わう。まあフツーの味としか言いようはないのだが…。

●9月1日
勤めていた会社を辞めてしばらく音沙汰がなかったKJ氏がひょっこり現れる。バンデージで右肩を固定していたので驚いて聞くと、何週間か前に、実家で荷物を運ぶ際に転倒して肩のつけねを骨折したそうな。どうりで連絡が来なかったはずだ。久々に蕎麦が食べたいと所望するので九段の名店『一茶庵』へ。左手で箸を使い器用に蕎麦をすすっているのに感心する。その後、『明治屋2nd』に立ち寄るがいつも酒が入ると必ずとぐろを巻いてしまうKJ氏もいつになく早めに切り上げる。怪我の功名と言うべきか。

●9月2日
友人のHT氏と銀座で呑む約束。ネットで検索して気になっていた7丁目にある台湾屋台料理の『來來』という店に行ってみることに。こじんまりした店だが台南の担仔麺のチェーン店『渡小月』の系列らしい。ということでメニューはすべて台湾オリジナルの小吃ばかりで、本場の味が楽しめる。客もひっきりなしで予約なしでたまたまカウンターに座れたわれわれの後はすべて満席で入れない盛況ぶりだ。紹興酒を1本あけた後は、4丁目のすずらん通りにあるアイリッシュパブ『Daffys』でキルケニーを引っ掛け、さらにもう一軒、数寄屋橋の隠れ家的ジャズBar『季立』へハシゴ。マスターにお願いして先日逝去されたクリス・コナーをかけてもらい在りし日の姿を偲ぶ。

2009年9月6日日曜日

やっぱり惨敗だった


日本サッカー史上初めてオランダのフル代表と対戦した日本代表だったが、後半半ばまで相手に主導権を握らせず健闘したものの、終わってみれば0-3の惨敗。
すっかり冷水を浴びせられたような感じだ。
これが、世界トップ5との差といえばそれまでだが、選手のスキル以上にチームとして試合をマネジメントする能力がまったく感じられないことにため息が出てくる。

試合後の岡田のインタビューで“ひとつのピースが崩されるとやられてしまう”と当たり前の分析しか出来ず、今やってることを信じて続けるしかないというようなことを言っていたが、こんなにも歯が立たない試合に直面し、なお意固地になってしまっていては来年の本大会の結果も知れているというものだ。

前途は多難としか言いようない。

2009年9月4日金曜日

祖父の著書発見


古本のネットを検索していて、偶然にも祖父・秋山光清の著書『山鹿兵藤次秀遠』を発見し早速購入してみた。
福岡県飯塚市の古書店の出品で昭和7年7月10日に発行されたもの。当然にしてシミだらけでボロボロ、綴じの針は錆びて開くと粉になってこぼれて落ちてしまった。
発行は山鹿秀遠顕彰會という団体の名になっていて、爺さんの地元の福岡県遠賀郡芦屋町の住所が記してあるので本人の自費出版に近いのではないだろうか。しかしよく残っていたものだ。定価金参拾銭というのが歴史を感じさせる。

爺さんは歌人にして郷土史家だったそうで、地元の城山公園には歌碑があるので昔は地元ではちょっと知られた文化人だったのだろう。城山公園はかつての山鹿城の跡にできた城祉公園であり、平安末期その山鹿城を築城した主がこの本のタイトルとなった山鹿兵藤次秀遠という武将である。

この山鹿秀遠は百足退治の逸話で知られ平将門を討った俵藤太の弟・藤次の末裔で、源平合戦の際、九州まで逃げてきた安徳天皇と平氏一門を山鹿城に匿い、さらには壇ノ浦で松浦党とともに自ら水軍を率い平家軍の主力として奮戦したものの、武運恵まれず源義経に敗れる。熊野のほうに落ち延びたが所領は奪われ一族は四散した。

本の内容はこの地元の英雄・山鹿秀遠の出自から源平の合戦での猛戦ぶりを研究したもので、さらにその17代後の元和年間に生まれ、会津出身の天才軍学者として知られた山鹿素行との縁戚関係、その弟子たる大石内蔵助との関係(山鹿流陣太鼓を叩いて討ち入りしたのでおなじみ)、さらには思想的に影響を与えた吉田松陰との関係、その吉田を師と仰いだ乃木希典との関係まで書き連ねている。

爺さんがこれほどまでに山鹿秀遠、及び山鹿素行に入れ込んだのは、実は自分の女房(私の祖母)を秀遠の後孫にあたり代々神官であった波多野氏から娶ったからだと思われる。ということは私も山鹿秀遠の血を引いているということなのか?
秀遠滅亡の後に頼朝の命により城主に取って代わったのが麻生家なので、どおりで麻生太郎は本能的にいけすかない奴だと思っていたのに合点がいった。そうかわが血脈の仇敵だったわけだな奴は。ザマミロ。

ちなみに婆ちゃんの実家・波多野氏には婆ちゃんの従兄にあたる右翼の実業家・波多野春房氏という人物がいて、その女房で女性編集者だった波多野秋子さんが文豪・有島武郎と情死してしまい、歴史上の有名人となってしまった。この事件を扱った映画『華の乱』で故・成田三樹夫が春房氏を演じて、すげー悪者にされていたっけ。一族の名誉をかけて言えば、実際の春房氏は有島を強請ったりするような人物ではなくすごく教養のある紳士だったとのこと(伯父の一人が婆ちゃんから聴いたことがあるそうだ)。

爺さんの山鹿マニアぶりには念が入り、自分の次男・光世(私の伯父ですな)を長崎県平戸市(素行は会津から赤穂を経て松浦藩にヘッドハンティングされた)で女系家族で血統が絶えかかっていた山鹿家に婿入りさせ、かろうじて血脈をつないだほどである。山鹿姓となった光世伯父はその後、県会議員になったり平戸市長を何期か務める平戸のボスになった。この伯父にも『山鹿素行』(錦正社刊)という著作がある。そういやこの伯父が源平時の鎧かぶとを着装し悦に入っている写真を見たことがあるが、こういう血脈を偲んでのことだったのかw

誰がどうなっているのかややこしくてよくわからなくなってきたが、爺さんの本を読んでいると(旧仮名使いで難解だが)、きめ細かい家系図を多用し(本当かどうかわからないが)、歴史上の伝説の人を掘り起こす読み物としてはなかなか面白く、興味深い。
祖父の面影はごく幼いころの記憶の片隅にしかなくあまり覚えてはいない。郷土史家にして歌人という仕事だか趣味だかよくわからない生業で人生を全うしたわけで、こういう気性の方が自分に似ていてなんだか血筋を意識してしまうが、少なくとも自分の名前でこういう研究書を世に残したわけだから、私には比ぶべきもない立派な業績を残しているといえよう。ボロボロの本を見ながら、負けずに頑張らなきゃとなんとなく厳粛な気分になって襟を正してしまった。

歳をとると自分のルーツに興味がわくという定説があるが、本当に最近、自分のルーツがどこから来たのか気になるようになってきた。父親方はこのようになんとなく面白い話があるが、一貫して庶民だった母親方はどういうルーツを持つのだろうか。話は派手な方が面白いのだろうが、戦時下植民地朝鮮で一旗揚げ、何もかも失って帰国した波乱の生涯を送った母方・吉浦家の祖父の人生も興味深い。どちらの血筋も親戚はどんどん減ってしまっていて昔のことを語れる人は本当に少なくなってしまった。核家族化であまり親せき付き合いしてこなかったが、いまなお生存している数少ない伯父、伯母たちに無性に話を聞いてみたい今日この頃である。

2009年9月2日水曜日

クリスを聴きながら


薄曇りの午後、奇しくもつい2~3週間前に購入したばかりの『Chris Connor sings the George Gershwin almanac of song』をはじめ、朝からクリス・コナーを聴いている一日。
ハスキーで低音の太いヴォーカルが、彼女の生きた50年代、60年代の時代そのものをフラッシュバックさせる気分だ。

さる8月29日、81歳で死去。ミズーリ州カンザスシティ出身、スタン・ケントン楽団を経て白人女性ヴォーカルの第一人者としてクールジャズの一時代を築く。
個人的にも2年前に亡くなったアニタ・オディとともに思い出深い人だ。

<Lullaby Of Birdland>
<Try A Little Tenderness>
<All About Ronnie>
<The Thrill Is Gone>
<Lush Life>
<Moonlight In Vermont>
<I Miss You So>


ああ、今夜は酒なしにはいられない。