2017年8月10日木曜日

磯野恭子さんのこと

8月6日を前にして、元山口放送のドキュメンタリスト・磯野恭子さんが亡くなられた。


広島県江田島出身の磯野さんは、放送史上に残る多くのすぐれたドキュメンタリーを制作、現場を離れても山口放送の役員まで務められた。彼女の作品のテーマは原爆をはじめ、戦争の惨劇と、その記憶を背負いながら戦後を生きてきた人々にフォーカスをあてたものが多かった。


1979年、『週刊TVガイド』の駆け出し記者だった私が、自分の担当する局の番組『ドキュメント’79』で放送された『聞こえるよ母さんの声が 原爆の子百合子』と出会った時の衝撃は今も忘れられない。原爆小頭症患者の娘と彼女を見守る家族の姿を克明に追った作品だったが、がんに侵されて娘の行く末を案じ、痩せ衰えていく身体で「死んでも死にきれない」と慟哭する母親。その死に際にまでカメラを回し続けたことの報道する側の「凄さ」に驚愕させられるとともに、そしてその結果として母親の死後、墓石に耳を当て母親の声が聞こえるという小頭症の娘の心を揺さぶられる感動的な一瞬を記録することができたことで、この番組が後世に残るものとなったのであった。その制作プロデューサーが磯野さんだった。


縁あってテレビにかかわることになったが、いつかこの作品を作ったスタッフの話を聞きたいと思い続けていたが、翌年すぐにその願いがかなった。山口放送が制作した『山口のヒロシマ』という番組が再び『ドキュメント’80』で放送されることになり、上司に猛烈に訴えて4Pの特集を組んでもらえることになった。勇んで山口放送にアポを入れると、磯野さんの東京出張のタイミングでインタビューの時間をとっていただけることになった。確か銀座の東京支社でコンビを組んでいる柴田剛カメラマンも同席していただけ、『山口のヒロシマ』で採り上げられた被爆者支援センター・ゆだ苑のことから『~百合子』のこと、そしてご自身の原爆体験に至るまで、まだ学校を出たての若造の質問に実に丁寧に優しく応対いただけ、さらに電話での追加取材まで快諾していただいた。いまでも汗顔の思い出である。
これが商業誌で初めて自分が書いた特集記事となったこと以上に、その後20数年にわたる編集者人生の原点ともいえるインタビューであった。


その後84年放送の『死者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡』(ギャラクシー賞受賞)で和田稔少尉の存在を知ったのも、自分のその後の精神史に大きな影響を与えられたと思う。和田が弾いた”タイスの瞑想”は、最も好きな曲となり今に至っている。


被爆者の念願であった国連の核兵器禁止条約が成立し、核の傘の前で肝心の被爆国が参加することなくその立場を厳しく問われている中、その無念を胸に抱かれたまま逝かれたのだろうか?
磯野さんの遺してこられた「仕事」が、いまこそライブラリーの収蔵作品というだけでなく多くの人々へ再び公開されていくことを願ってやまない。


磯野恭子さん。享年80歳。 合掌。







2017年8月4日金曜日

週間呑みアルキスト7.1~7.31





●7月2日
風邪で体調が思わしくなかったが、午前中都議選の投票に行き、昼からパッキャオのタイトル戦をテレビ観戦。相手はWBOウェルター級の1位、ジェフ・ホーン。有効打か攻勢かの判定になったがホーンが前半の貯金(後半はメロメロだった)で判定勝ち。パッキャオはもう無理かも。都議選の即日開票は自民党の記録的大敗。安倍政権の滅茶苦茶な暴政に当たり前の結果だろうが、小池都民ファーストが勝っても同じことだ。民進党も大敗(これも当然)自民批判の受け皿がないというのも明白になった。


●7月4日
まったく声が出ない状態で朝から仕事の打ち合わせ。午後から大雨。かねて約束していたデザイナーNM嬢、ライターTM嬢の食事会もいまさらリスケも出来ず神田小川町のシンガポール料理『松記鶏飯』へ。


●7月6日
のどの状態は最悪。さすがに医者に診てもらうべく地元のクリニックへ。のどの腫れは結構奥深くまで広がっているとのことで、炎症を抑えるうがい薬、鎮咳薬を処方してもらう。夜は年に1度の高校マスコミ会の会合で日比谷『松本楼』へ。2次会に誘われたが辞去。無理はできない。この日福岡・大分に集中豪雨、大きな災害に。ちょうど菊竹淳の生涯を描いた『記者ありき』を読んでいたところで、菊竹の生家の近辺が甚大な被害を得ているようで驚く。


●7月11日
この日から共謀罪が施行。嫌な時代になった。安倍内閣の支持率が急落しているが遅きに失した。


●7月16日
WBCスーパーフェザーの三浦隆司が、王者ミゲル・ベルチェルトに挑戦するも大差の判定負け。


●7月17日
母の命日。すでに35年の歳月が流れ自分自身も母の歳を超えてしまう。祝日だったが出社して編集OK氏と打ち合わせ。終了後軽く呑むことになり休日の夕方に開いている店を物色、すずらん通りの居酒屋『紅とん』へ。


●7月19日
編集OK氏、SZ嬢、AR嬢とカメラマンのTN嬢で暑気払いの呑み会。神保町の『路地裏バルO’s』へ。SZ嬢の分かれた元亭主が再婚したとかでOK氏ともども愚痴の聞き手に専念。のどの調子も悪いのでまあちょうどよいか。


●7月20日
帰宅時に『明治屋2nd』に顔を出すと、常連客のKD氏が寄ってご機嫌になっていて、顔を見るなり新宿2丁目の『t’s bar』へ誘われる。もうすぐ移転することになっているので見納めということでこちらに異論があるはずもない。久々にノッチェロを試す。


●7月23日
深夜、全英オープンゴルフの中継にくぎ付け。ジョーダン・スピースの怒涛の猛チャージによる逆転劇に興奮。


●7月24日
新宿2丁目『t's bar』のクローズ前日なので最後の訪問。名残惜しいが新しい店での再開も楽しみ。


●7月26日
映像制作会社グロービジョンのAK氏が来社。AK氏は映画配給会社出身でK映画では同僚だった。今回は声優の朗読によるオーディオブックについてのブリーフリング。久々の再会だったので会社の近所の居酒屋『とりどり』で一杯。


●7月27日
かつての同僚で、その後BS局の役員を経て、またK社に戻っていたKN氏が、ついに退社するということでOBたちと送別会をすることになり、神楽坂の中華料理『結華楼』に集合。連日懐かしい人々との再会が続く。


●7月29日
本所吾妻橋に住んでいる『明治屋2nd』のマスター夫婦のご招待で、彼らのご自宅の屋上から隅田川花火大会を鑑賞する会へ参加する。しかしながら生憎の雨。しばらくは部屋飲みでテレビで中継を見ていたが、意外と雨でもきれいなので屋上に出て、傘を差しながらの鑑賞。まあこれもなかなかおつなものである。早いもので週が明ければもう8月である。