2011年8月29日月曜日

指導者の資質


外国人からは短命に見え不思議といわれる日本の政権だが、我々にしてみれば悪夢のようだった菅直人政権が“やっと”ピリオドを打った。
とはいえ後継首相を民主党の5人の候補から選ばざるを得ない(まあ政権党に民主党を選んだ国民の問題ではあるが)のもハナから期待の持ちようもない。といっても他党であってもさして変わらないが。
個人的には馬渕澄夫元国交相がまだまともに見えたが、結局は民主党内派閥の力学で野田佳彦財務相と海江田万里経産相の決選投票の結果、野田に決まった。
少なくとも海江田や前野じゃなくてまだ良かった気もするが大連立や増税主義の野田でもってこの国難をリーダーシップをとりながら乗り切れるのかははなはだ疑問である。

今ちょうど読んでいたのが豊田穣の『平和交響楽』という戦後日本を舞台にした私小説だが、復員して新聞記者になったご本人の作家を目指す苦闘の物語と共に昭和20年代、30年代の政治社会の世相も解説しながらのドキュメンタリーともなっている。ちょうど保守合同から岸政権、池田政権、佐藤政権へと続く保守政治暗闘史も詳細に描かれていてそれがめちゃ面白い。登場する名前を見ても吉田茂を始め、鳩山一郎、石橋湛山、三木武吉、大野伴睦、河野一郎、藤山愛一郎、前尾繁三郎、愛知揆一、保利茂といったお歴々で池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘、福田赳夫といった連中が若手で登場するといった具合。こういった戦後政治の黒幕だった大物たちに比べて、今回の民主党の候補者たちの顔ぶれを見れば、本当に小粒感はいかんともしがたい。
もっともこの時代の政治が良かったかどうかは別として、リーダーとしての器量、国士たる気概という意味では比べるまでもないだろう。それとも単に自分が年をとったからそう思うだけなのか?

野田佳彦は54歳。自分より若い首相は初めてだが、60年代末から70年代初頭の激動の時代すら知らない松下政経塾あたりの出身者にいったい何を期待できるというのだろうか。「ノ―サイドにしましょう」はいいが次のチーム作りはどうなるのか、明確なビジョンも感じられないまま、国民が直接選べない指導者を仕方なしにまた頭に戴くことになったというだけのような気がしてならない。

週間呑みアルキスト8.8~8.28


●8月11日
フジテレビ発行のA誌の入稿作業、校正作業がダブルで続く毎日。深夜事務所で作業をしていたKJ氏とSM嬢と一段落したのを見計らって食事へ。界隈で遅くまで飲み食いできるということで白山通りの『ヴェジタリアン』へ。小学館はじめ同業者が夜食で集まってくる店だが、この日も深夜にもかかわらずそれらしき人たちで結構繁盛している。
そろそろ巷ではお盆休みということらしいが当方は土日含めて全く関係なしのフル稼働。

●8月12日
そろそろ夏季休業の店も出始めた神保町で唯一我々と変わらず商売を続けるのは中華系のお店。少しでも客が見込めれば営業するというのが一貫した彼らの態度であるようだ。事務所の近所での打ち合わせに出たついでに今までは行った事が無かった『華龍飯店』に入って見る。地下の店でよく判らなかったが意外や結構宴会もできるくらいの広さ。そこに客は一人きりでちょっと居づらい感じだったが、フロア担当の二人の小姐がいかにも留学生のバイトという感じで可愛らしい。下手な中国語で話しかけると嬉しそうに相手をしてくれちょっといい感じ。料理はまあまあだが、俄然またこようという気分になる。

●8月15日
PR誌のインタビュー撮影が週末にあるためあらかじめロケハンのため編集を助けてもらうAR嬢と谷中に向う。下町はとんと土地勘もなく、撮影場所の候補となっているカヤバ珈琲なる歴史建造物を利用したカフェの下見や、周辺の撮影ポイントなど見て回る。蒸し暑い日でちょっと歩くと汗が噴き出すが上野池之端方面に出ると、これまた古色蒼然とした日本家屋のうなぎの名店『伊豆栄梅川亭』の前を通りかかる。店を覗いていると女将と目があってしまい、ええいままよとビールの水分補給とうな重の栄養補給を決め込む。夕暮れ時の高台から見下ろす上野の景観もなかなか乙なもの。すっかり下町の旦那衆の気分。

●8月16日
お台場合衆国で混雑するフジテレビでA誌の会議。ちょっとした会議でも一日仕事になってしまうのでいささかうんざり。しかも会議は進捗状況を巡り紛糾。すっかり疲労困憊したKJ氏、SM嬢、TM嬢とともに混雑を避けてゆりかもめを豊洲方面に向かい、駅前の居酒屋『福田家』で軽く一杯。エンジンがかかってしまって例によって腰を据えてしまったKJ氏を何とか説き伏せて早々に退散。社に戻ってやることは山積なのでだらだら飲んでる暇はないちゅーの。

●8月19日
A誌の校了で大わらわな中、PR誌の別仕事でコラムニストの泉麻人氏のインタビュー&撮影。先だってロケハンしたこともあって雨が降ったりやんだりの悪コンディションだったが比較的スムースに進行する。泉氏とは久しぶりだったので取材終了後呑みに誘われ、A誌の校了作業を放りだし(一時中断し)湯島方面に向かう。泉氏が手回し良く予約を入れていた居酒屋の名店『シンスケ』で再会を祝して乾杯。A誌の進行でやいのやいの確認の電話が入り落ち着いて話もできなかったが、思い出話を肴に楽しい時間を過ごすことができた。湯島の『ミュージックバー 道』に席を移し軽く〆た後、仕方なく大わらわの校了作業の待つ事務所に戻る。

●8月20日
朝までかかって校了し始発で帰宅。しばし泥のように眠った後午後から再び事務所に追加修正の処理作業に向かうが、おおむね大きな混乱もなくなんとか印刷所へ最終データを送るスタンバイを整える。帰り際久しぶりに新宿で途中下車、『T’s Bar』、『bura』と軽く回って疲弊した心身を弛緩させる。

●8月21日
最終確認作業で日曜出社。フジテレビからの緊急訂正に備えるが、この日は韓国押し抗議の大デモの日でそれどころじゃないのか、連絡は皆無。Ustreamでくだんのデモの様子を見ていたが、我々の時代のデモとすっかり様変わりしていて平和そのもの。まあこれでは自己満足というか抗議される側はへでもないな。荻窪に回り先輩がやっている『寄港地』で食事をとって帰還。

●8月22日
A誌を下版。あとは印刷を待つのみ。仕事に関わったSM嬢、TM嬢が念校をフジに届けた後打ち上げに来社。『東京アチコーコー』で仕事を気にせずに心おきなく呑む。『明治屋2nd』にハシゴして終電に乗るが乗り過ごし笹塚からタクシー帰還のハメに。

●8月26日
A誌無事刷り上がり、発送作業。わずか60頁弱の雑誌だがこの1カ月さんざん振り回された。TM嬢と白山通りの『台南坦仔麺』で食事。一仕事終えまた台湾に遊びに行きたいところだが貧乏暇なし、次に控えるPR誌の入稿作業がそろそろ佳境に入りだした。いつになったら楽になるのかため息つきながら水っぽい台湾啤酒の壜を空けていく。

2011年8月11日木曜日

3-0!気分はサイコー


米株安でリーマンショック以来、回復の兆しが見えていた投資信託の基準価格がまたぞろ大幅ダウン。
仕事は仕事で身動きできず、
思い入れある人たちの訃報相次ぐ中、昨日も西鉄野武士軍団の生き残りだった河野昭修氏の逝去の報。
辞めない首相、情けない政権、収拾のメドすら付かない福島原発。
鬱陵島の入国拒否問題。
しかも毎日続くクソ暑さ!

やってられないことばかりで最悪の気分の中

わがザックジャパンに快哉を叫んだ、昨夜の韓国戦。
3対0!
3対0!
3対0!
まさにちんちんにしてやったぜ。一気に憂さが晴れた完璧な勝利。あ~気分良し!

香川、本田、内田、長谷部、清武、忠成!
うらやましいか!うらやましいだろう!テーハンミングクよ

さあ、こんなところで優越感に浸ってる場合じゃないな、次はW杯3次予選。なでしこ戴冠に続け、今度は男女で国民栄誉賞だ!

2011年8月8日月曜日

週間呑みアルキスト7.18~8.7


●7月18日
なでしこ優勝の余韻さめやらぬ中、日本代表のメキシコ五輪戦士だった森孝慈さんの訃報。長沼監督はじめ渡辺正、湯口、宮本輝、宮本征、八重樫氏とすでに多くのメンバーが鬼籍に入ってしまった。日本サッカー史に燦然と輝く偉業達成の日を見届けたかのような森さんの死に寂しさが募る。休日だったが打ち合わせのため出社。BD誌のNMさんが来社し入稿の日程等を調整した後食事へ。休日の神保町で閉まっている店が多かったが三省堂はさすがに営業しているだろうと踏んで地下のビアホール『放心亭』へ。

●7月19日
雑誌で名画座の取材をして者に戻ると原田芳雄の訃報。ニュースで観た遺作『大鹿村騒動記』舞台あいさつでの姿が痛々しい。『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』『赤い鳥逃げた?』『竜馬暗殺』『祭りの準備』…、青春という気恥かしい季節に観たスクリーンのむこうでいつもカッコ良かった。仕事終了後『明治屋2nd』に立ち寄るが、なでしこ優勝で嬉しそうに話しかけてくるマスターに相槌合わせながら、原田を偲び酔えない酒を呑む。

●7月22日
ドーハの悲劇以来のサッカー仲間のみなさんがなでしこジャパンの祝勝会を開催。歴史の舞台となったドイツに敬意を表して赤坂のドイツレストラン『アイヒェンプラッツ』を会場に選ぶのもサッカー観戦の楽しさを知る歴戦の勇士たちらしい。バイツェンビールはじめドイツの各種のビールが楽しめ、大いに呑み食べ盛り上がる。山積する仕事を放り出しての参戦だったが久々楽しい一夜をすごす。

●7月23日
練馬区の成人病保健指導でメタボ対策の面接。食生活と酒量を朝からこってり絞られる。出社後、その解放感からつい精のつくものをと駿河台下の『寿々喜』にてうな丼を所望。下の根も乾かぬうちからこってりランチ、これでは内臓脂肪が落ちるわけもない。


●7月24日
アナログ停波というテレビ史的には歴史的な日。秋葉原に取材したが特に何事も起こるわけでもなく平穏のうちに地デジ化完了。事務所に戻りついでに買った『肉の万世』のカツサンドをつまみにビールを呑む。中国温州にて高速鉄道事故発生。誇らしげだった中国の独自技術の結末に不謹慎ながら嗤わせてもらう。台湾の新幹線導入時に日本とオランダの発注合戦で、一度は価格でオランダに落ちたが運行システムのノウハウを考え、日本に切り替えた台湾の英断を思い出す。

●7月25日
1日に開かれた高校マスコミ会の幹事反省会を池袋西口の『ライオン』にて開催。事務所に戻って仕事をするつもりで出たが、呑んでしまった後では帰宅途中の池袋からは戻る気も失せ、ままよと家路につく。

●7月27日
またまた悲報、今度は伊良部秀輝だと。ヒーローの輝かしき日々と舞台から降りた後の孤独。打ち合わせにやってきたKJ氏とTM嬢、SM嬢と神保町『エスぺリア』で食事。仕事も残っているしあまりはしゃぐ気分にもなれず一人事務所に戻る。

●8月1日
KJ氏、TM嬢と後輩のデザイン事務所を経営するIG氏と打ち合わせ。神保町『ピアンタ』にて会食後、『明治屋2nd』へ。IG氏の事務所は新宿山吹町、めしや呑みの場に苦労しているらしく飲食店の多い神保町はうらやましいという。7年もこの地にいる当方にすれば少し飽きてきたのだが、確かに他の地にといわれてもここより便利なところもそうそうないのは確かかもしれない。

●8月5日
訃報相次ぐ。2日に練習中に倒れて心肺停止のまま信州大病院集中治療室に運ばれていた元日本代表の松田直樹選手がすべてのサッカーファンの祈りも届かず34歳の若さで4日に逝去。打ち合わせで事務所に来ていたKJ氏、TM嬢と九段下の中華料理『東方園』で食事をしていたが、店のテレビでも盛んに追悼のニュース特集が放送されていて気分がすぐれぬまま、2次会の誘いを断り事務所に一人戻る。 死者を偲んで呑みたい気もするが呑んでもいられない、晴れぬ気分は当分続きそうだ。

2011年8月7日日曜日

松田直樹の死



ここ2~3日、仕事がクソ忙しいのにもかかわらず、何んとなく身が入らない。
やらなきゃならない締め切り抱えて、土日も事務所に出てきてはいるがなかなか集中して机に向かえない。



7月は原田芳雄、森孝慈、伊良部秀輝、と思い入れのある人の訃報が続いたがやはり松田直樹の急死が心に引っかかる。気分がもやっている。10年あまり前に脳出血で倒れ急逝した会社の後輩(彼もサッカー仲間だった)の事を思い出してしまう。倒れた後、再びの回復を願いつつもその祈りは無情にも通じなかったのも同じだった。

松田がまだあどけなかったU-17ワールドカップ東京大会、仕事を抜け出して国立に日参した。その亡くなった後輩とスタジアムで席を並べて観戦したのも昨日のように覚えている。
財前 宮本 中田 船越、当時輝かしいメンバーの中でもひときわ目立っていたように思う。
アトランタ五輪のブラジル戦、シドニー五輪、日韓ワールドカップ。その後も日本サッカーの右肩上がりの季節に、松田は速く、強く、ピッチで躍動していた。

あのドイツW杯での苦い豪州戦。松田がいれば…少なくともあんな結果ではなかったと今でも信じる。

サッカーのような激しい競技では心臓の疾患はかなりのリスクを負う、最近でもマルク・ヴィヴィアン・フォエ(2003年6月26日)ミクロシュ・フェヘール(2004年1月25日)アントニオ・プエルタ(2007年8月28日)フィル・オドネル(2007年12月29日)ダニエル・ハルケ(2009年8月8日)らが同じように斃れた。
なぜこの教訓が生かせなかったのか。そもそもなぜ松田なのか?

どんなに身体能力が高くても、どんなに鋼のように身体を鍛えても、心臓そのものを不滅にはできない。
人間の無力と生命のはかなさを改めて感じさせる。

せめて、この悲劇が、選手たちの健康管理という意味で警鐘を鳴らし、万が一の救急救命の体制を万全とさせるためのきっかけとなればと願わざるを得ない。