2010年3月29日月曜日

週間呑みアルキスト3.15~3.28


●3月15日
デザイン会社MM社にて電子出版対策定例会議。夕方終了後MM社のOG社長とご子息でWEBチームを担当するOGジュニア、EB社のON氏と曙橋『こう坂』にて軽く蕎麦をいただきながらアフターミーティング。蕎麦以外の酒の肴も充実しているお店だったが厨房をご主人一人で回しているので、なまじ手が込んでいる料理を出すためかちょっと注文してから時間がかかるのが惜しい。もっとも先に5~6人の団体の飲み客が派手に注文していたこともある。まあ、その分差し引いても蕎麦自体は質量とも満足できるので、まあ黙って待っているのもヨシとするか。

●3月16日
台湾駐在時代の現地スタッフD君が来日しているということでお呼びがかかり、台湾関係のライターさんやら編集者、デザイナー、はたまた台湾観光協会のスタッフ、さらには台湾から仕事でやってきている占いの先生など多彩なメンバーが集結してのパーティーとあいなった。場所は元K社の編集者で現在台湾観光のムック制作に携わっているAR嬢が手配してくれた渋谷・道玄坂の『海岸食堂さいもん』という無国籍ダイニング。こういう友達の友達が大勢きて目的がどこかへ行ってしまう会というのはいかにも台湾的で、それはそれで共通の話題で知人が広がっていくので楽しい。ライターSZ嬢からさっそく、次の“台湾・香港会”なる異業種呑み会のお誘いがかかる。

●3月20日
3連休を利用して香港出張。朝一番のキャセイ便のため前日は会社に宿泊し成田へ向かう。9時発のフライトで香港の到着が午後1時30分。飛行機の中でうとうとしたものの尖沙咀の九龍ホテルにチェックインしシャワーを浴びるとバタンキュー。気がつけば夜の帳が下りビクトリア港の夜景がきらめいている。さっそくホテルの近所にある『広東焼味餐廰』で焼鵝飯をかきこむ。前日までの睡眠不足と旅の疲れからこの日はおとなしくしていることにして帰りにセブンイレブンでビールと香港カルビーのカレー味チップスを買い込んで部屋呑みを決め込んだ。

●3月21日
朝から香港島に渡り銅鑼湾の粥のチェーン店『海皇粥店』で鮑と鶏の粥に油条を食す。日本で言えば吉野家の朝定食のようなものだが、とろとろの粥は文句なしに美味い。食後熱い豆乳を飲んだらすっかり満腹。午前中いっぱいビクトリア公園で開催中の「香港フラワーフェスティバル」を見物した後、北角の市場街に足を延ばす。北角に行くのは初めてだが香港の築地の場外市場の雰囲気。名前を知らないような魚やあめ色に焼いているローストダック、生鮮野菜や乾物など香港の胃袋をまかなう豊富な食材はなかなか壮観。午後は上環のキャットストリートやエリザベスロードの骨董品を漁り、ひとまずは九龍サイドに戻る。夕食はカントンロードの『中国厨房台湾牛肉麺』で坦坦麺に何品かの小菜を注文、気温25度と初夏の気候に青島ビールが美味いこと。夜も更けてたまたま台湾に出張していた香港K社のTM氏が空港からホテルに直行してくれて久々の再会を果たす。九龍ホテルのバーで海南鶏飯をつまみに遅くまでお互いの近況を語り合う。

●3月22日
前日深夜まで呑んでいたこともあって午前中は爆睡、正午を回り朝昼兼用のランチを取りにチャタムロードの茶餐『覇王山荘』へ。上海料理ベースの茶餐ということで小龍包と雲呑麺を試すが、こと小龍包に関しては台湾の鼎泰豊のほうが10倍旨い気がする。午後は葵方にある香港K社で編集の責任者TO氏と打ち合わせ。聞けばTO氏4月からの帰国が決まって新設のインバウンドビジネスの責任者となるらしい。今後、色々と協力し合うことを確認する。最後の晩餐は香港サイドの銅鑼湾にある客家料理の『客家機好』というレストランへ。客家菜名物の「梅菜掴肉」をメインディッシュに大陸の燕京ビールを呑む。食後は蘭桂坊のバーに立ち寄り、男人街のナイトマーケットを冷やかす。香港はこれで何回目になるのだろう?もうあまり熱心に観光もショッピングもしなくなったが、ここのエネルギッシュな喧騒に触れるたびに日々変貌を遂げるアジアの国際都市の源流に触れるようで妙に安心してしまう。

●3月24日
帰国後すぐにたまっていた仕事に追われる。忙しい合間を縫って高校のOBで構成されるマスコミ会の事務局会合に顔を出す。先輩の一人KS氏がいつも手配してくれるのが新宿南口の『美禄亭』という居酒屋。聞けばオーナーがKS氏の縁戚に当たるらしい。場所柄会社帰りのサラリーマンで店は大盛況。1次会で早々に辞去して会社にとんぼ返り。

●3月28日
すでに初夏モードの香港から帰ってからの2~3日、列島を包む寒気団に震え上がる。公園のソメイヨシノもまだつぼみのまま。この日は花見を予定していたのだが風邪を引くのがオチ、ということで1週間の延期を余儀なくされる。4月も間近だというのにまだまだ寒い日が続く。

2010年3月25日木曜日

開店のお知らせ


仕事でお手伝いしていた産地直送品通信販売サイトの『お取り寄せしてみ~る』が本日オープン。主宰のSM氏も雑誌出版社の出身だけあって、創刊日という感覚で日時を決めてスタートを切ったのだが、時間になってクリックしてみるとそれはそれで気分はいいものである。SMさん、あらためて開店おめでとうございます。

店はオープンしたものの、まだ品ぞろえはこれからということだが、開店時にアップされている北海道の松家農園の雑穀も、北海道フーディストのウニやアスパラも、さすが産地直送というだけに美味しそうである。実は事前に松家農園の発芽雑穀茶は味見をさせてもらい、その香りと言い味わいといい素晴らしかったので早速注文させていただいた。
ウニやアスパラも採れ次第送られてくるということなので、注文させていただき楽しみに待つのもいいかもしれない。しかも小分けにされたパックなので料金も安いし送料が不要なのもありがたい。

松家農園の雑穀もお茶も、本当にお勧めです。
是非、お試しください。

http://www.otoriyose47.net/

2010年3月24日水曜日

黄砂に霞む香港


週末、連休に仕事を兼ねて香港に行ってきた。
台湾駐在時代の同僚は現在、香港ベースで活動しているため台湾を含めた仕事の話で香港まで出かけることが多くなった。
ほぼ1年に一回くらいのペースで行っているので、仕事以外では別に観光もすることもなく、街をぶらついているかホテルでのんびりすることが多い。お楽しみの香港グルメも今回は一人旅だったので、本格的な中華料理の晩餐は量的に考えてできないので、いきおい茶餐と呼ばれる食堂系で麺だの粥だのが多くなるのだが、極めてローカルな場所なので生憎広東語の素養は全くないため注文一つするのに四苦八苦してしまうのが常だ。
ところが最近は、こちらの苦し紛れでしゃべる台湾仕込みの北京語がなんとなく通じるところが多くなった気がする。客も大陸の人間が増えたということなのだろうか?

今回もとある店で相席させられた相手がいかにも典型的な大陸おのぼりさん風で、なにせ食事の行儀がよくない。こちらがまだ食べているのに、先に食べ終わった丼に茶で口をすすいで吐き出すし、平気で食べかすを床に捨てるし閉口してしまった。香港人の店員ももお金を落としてくれるお客さんゆえ見て見ないふりをしていたが、顔をしかめていた。

そんな中国大陸の観光客はそこらじゅうに跋扈しているし、地下鉄の自販機の前で団体で使い方を巡って大騒ぎしているのも日常の光景となった。人民元の兌換の看板も街中にあふれる。

折から、香港を一大黄砂がおしよせ、テレビのニュースではぼんやり霞がかかったような高層ビル群の映像を流し注意を喚起していた。
Googleも中国の撤退を決め、香港経由でサービスをするというニュースも盛んに報じられていたが、やはり天安門やダライ・ラマは、当局の手によって情報が遮断され検索不能ということになってしまう。

中国の影といっても香港はすでに一国二制度下の中華人民共和国の特別行政府なので当たり前といったら当たり前なのだろうが、何一つ変わっていないようないつもの自由で活発な香港市民の喧噪に確実に中国の姿が見え隠れするとあまり気分のいいものではない。

香港に行ってきたと友人に言ったところ“香港はいつ完全に中国になるの?”と素朴に聞かれ、そうだよな一国二制度なんていつでも取りやめることができるんだよなとあらためて再認識させられてしまった。

人の往来も、経済も、大気汚染も、ジワジワと大陸に飲み込まれていく。
最近の香港土産の定番も奇華餅店のパンダクッキーが一番人気とのこと。確かに愛らしいパンダをかたどったクッキーではあるが、こんなところにも中国の覇道を感じてしまうのは考えすぎだろうか?

2010年3月16日火曜日

週間呑みアルキスト3.1~3.14


●3月1日
あっというまに3月に突入。保険会社のパンフ制作の仕事でドつぼにはまって(きつい、細かい、安い!)呑みアルキもままならぬ日々が続く。この日もなんだかんだ1日中デスクに縛り付けられていたが、知人の編集者ON氏が経営を引き継いだ新宿御苑にある新生EB社の創設祝いの宴会に時間を縫って駆けつける。新生といっても業務は引き継いでいるので社員が働く片隅の会議スペースを利用しての小宴である。少し遅れて馳せ参じるとすでに仕事仲間でシャンパンは空くは、日本酒の一升ビンは空くはで大盛り上がり。働く社員連中にはさぞ迷惑なことだったことだろう。仕事も残していたので早々に退散、ONさん、今度ぜひじっくり。

●3月3日
デザイン会社MM社に夜打ち合わせ。こちらも会社をなかなか出られず結構遅い時間になってしまう。ひととおり仕事の話が終わった後、OG社長と社員デザイナーの女性2名で遅い夕食へ行くことに。四谷荒木町のスペインバル『カリーニョ』でタパスをつまみワインを開ける。小さな店だが雰囲気も良いし料理もおいしい。油断して和んでいるとあっというまに終電がせまる。皆さんを残して大あわてで途中で退席し帰路に就く。

●3月4日
保険会社のパンフの仕事、校了間際に初校のような修正が入りブチ切れる。何とか手配を完了させた時はすでに終電はない時刻。翌朝一番で大事な打ち合わせがあるので高いタクシー代払って家に帰るよりはと会社にこのまま居残ることに。飯も食えずにいたので空腹を満たしに深夜の街に出る。閉店して清掃中の『明治屋2nd』を覗きビールを一杯だけ出してもらう。神保町の深夜営業の店はバー以外では意外と少なく立ち食いそばか牛丼しか無い。『富士そば』で腹を満たした後タクシーで新宿三丁目まで行って朝までやっている『T's Bar』に行くことにしたが、最近は3時半ころに閉めてしまうとのこと。ぎりぎりまで粘って喫茶店に入り始発までの1時間うとうとした後、神保町に戻る。なんだかんだ散財し結局タクシーで帰るのと同じくらいの出費になって後悔しきり。

●3月12日
嵐のような1週間が続いていたが、この日は先の仕事の打ち合わせにやっと入る。大変な仕事を引き受けかかりっきりになってしまうと次の仕事が入れられないし、なんだかんだ持ち出しもあって、働けば働くほど貧乏になっていく。いったい何をやっているんだと思いつつ、今度は雑誌の話なので少しほっとする。KJ氏、KTカメラマンと打ち合わせをした後、会社の隣の焼き鳥屋『炭火焼Diningぼんちゃん』へ。ここの2500円のコースは値段の割には料理も多くコストパフォーマンスがいい。店もできたばかりで綺麗なので自分的にはなかなか評価は高い。『明治屋2nd』へ寄って軽く1杯飲んで帰宅。

●3月13日
土曜出勤で仕事にとりかかるが、なかなかやる気になれず。気分転換に昼から「レンピッカ展」を鑑賞しに渋谷へ。社に戻って仕事を終えると『明治屋2nd』が久々に土曜営業をしていたので昨夜に引き続き顔を出す。土曜は近所に住む常連さんたちが主な顔ぶれだが、本来は立ち飲みだがこの日に限って椅子を出してくれみな止まり木に止まって和み呑み。

2010年3月14日日曜日

タマラに会ってきた午後


Bunkamuraザ・ミュージアムで公開中の「レンピッカ展」を観にいく。

ポーランド出身の女性画家タマラ・ド・レンピッカ(1898~1980)は、思春期を過ごしたロシアから革命で追われ1920年代のパリで活動を初めた。そのキャンバス一杯に大胆に描かれた官能的な人物像、金属的な光沢の色彩は一世を風靡しアールデコの代表的な画家といわれている。第二次大戦下アメリカへ亡命し、いつしか忘れられた存在になっていたのだが、近年アールデコ時代の再評価の中、当時の雑誌の表紙の復刻から若い編集者によって発掘され、マドンナはじめ再び彼女の作品、生き様から強い影響を受けるアーチストも数多く出てきている。

“美しき挑発”と題された今回の展覧会だが、『緑の服を着た女』(1930)に代表される個性的で力強い美しき女性像を描いた彼女の作品の数々が展示されているだけではなく、実際に当時美貌のアーチストとして自ら車を運転し、シャネル、スキャバレリ、グレといった最先端のデザイナーたちのドレスで着飾った本人の写真や貴重なムービーフィルムまで公開され、まさにレンピッカその人にスポットを当てた構成となっていて、当時の時代そのものの一端が切り取られているようで興味深い。

特に当時タマラによってその表紙を彩ったドイツのファッション誌『ダーメ』の実物も展示されており、職業的な興味もあったのだが、その重厚なつくり素晴らしいアートワークに感嘆させられた。

春を感じさせる暖かい午後のひと時、狂乱と爛熟、そして退廃の1920年代のヨーロッパの息吹にしばし浸っていた。会期は5月9日まで、もう一度タマラに会いに行きたいと思っている。

●美しき挑発 本能に生きた伝説の画家 レンピッカ展
Bunkamuraザ・ミュージアム 3/6(土)~5/9(日)

2010年3月13日土曜日

父親が飛んだ空へ


日航の経営危機にともない、国内線赤字路線の撤退が相次ぐなか開港を迎えた茨城空港のニュースが、このままアシアナ便、スカイマーク神戸便だけで経営は大丈夫か?という心配や、従来の航空行政の批判と相まって大きく取り上げられていた。
確かに、東京在住者からしてみたらアクセスは悪いは、使い勝手は悪いはでいいところは何もない。おそらくよっぽどのことがない限りこの空港を利用することはなさそうな気がする。

ただ、個人的には実はこの空港は一度“行ってみるべき”“行かなければならない”空港なのだと思っている。

茨城空港=百里空港はその地名のとおり、航空自衛隊百里基地との共用空港で、もとをただせば旧海軍百里原航空隊がそのルーツである。
百里原空は九九艦爆や九七陸攻の基地(写真)ということで、昭和19年には人間爆弾として悪名の高い桜花の七ニ一空(神雷部隊)が創設されていることでも知られている。戦争末期には菊水作戦の特攻隊正気隊が編成され85名の予備学生や予科練の若い命が散っていった。戦後は航空自衛隊が引き継ぎファントム基地として名をはせたし、基地の滑走路増設阻止のため百里訴訟の舞台としても物議をかもしてきた歴史を持つ。

私の父親はこの百里原艦爆隊の予備学生(飛行専修一期生徒)として、この地で昭和20年の終戦の日を迎えた。悪化する戦局で飛ばす飛行機にも事欠き、なんとか生き延びたのではあるが、特攻出撃・本土決戦を待つ焦燥の日々を過ごしていたそうである。

最近、実家の父親の遺品や蔵書を整理していくうちに、いままであまり父親も語らなかったし自分も興味がなかったので知らないままだった父親の戦争体験が徐々に判ってきた。自分が歳をとってきたこともあってなんとなく父親がたどった半生をなぞってみてみたくなったこともある。百里原空に転ずる前に所属していた台湾の虎尾空の跡地にもいつか行きたいとかねてから思っていたが、茨城空港開港のニュースでこの空港に行ってみるのも供養になるのかななんて少し想い出した。
この飛行場から離陸した後見る光景は若き父親が空の上から観たのと同じ光景なのかもしれない。そう思うと俄然観てみたくなってくるというものだ。
とはいうものの、どういう利用の仕方があるのだろう。韓国に旅行するか、はたまたうまくチャーター便とかで台湾とか行ける機会があるのだろうか?

ニュースの論調としては“こんなところに空港作っても”という無用論や利権行政の悪しき実例と、否定的な取り上げられ方が圧倒的である。
ただ、悲しい過去を持つ空港が、軍民共用とはいえ平和の翼として利用できることには時代の変遷を感じるとともに素晴らしい意味のあることなのではないかとも思っている。聞けば、空港側はアジアの格安航空会社のエアーアジアX(マレーシア)などの誘致を目指して今後も営業努力を続けていくそうである。とすれば韓国旅行以外にも選択肢が広がり、父親の飛んだ空を追体験するという試みも、あながち遠い先のことではないような気もしてくる。
関係者の努力が実ることを祈りたい。


この65年前の百里の光景はいまどう見えるのだろう?

2010年3月8日月曜日

J2ワールドへようこそ


昨日、関東地方は1日中氷雨に見舞われた。

こんな悪コンディションに心が折れそうになる自分を鞭打ち、今年からJ2に昇格したギラヴァンツ北九州の初陣を見たくて、わざわざ三ツ沢競技場での横浜FCとの開幕戦に出掛けてきた。
実は、つい最近にわか北九州サポになったことを告白し、それを知った旧知のサッカー仲間から、前日に連絡をいただいてチケットが余っているゆえ譲っていただけるということもあったのだが、それにしてもJリーグとはいえ2部、有名選手もほとんど皆無の究極のプロヴィンツァチームの応援に、しのつく心凍らせる氷雨(by高山厳)に90分もさらされながら一人スタジアムに行くなんて、本当に我ながらモノ好きとしか言いようがない。

会場でお会いした対戦相手横浜FCサポーターのサッカー仲間のお二人からは“ようこそJ2ワールドへ”と歓迎されたが、正直屋根の全くないスタジアムに入った時、思わず後悔していた。雨は一向に止む気配もなく、気温はキックオフが迫る夕暮れ時になりますます冷え込んでいくようだ。

この日を待ちかねていた北九州から遠来のサポーターは数えると40人くらい。100倍のサポーターを集める横浜FCのサポーター席に負けじと声をからしている。け、けなげだ。サポータソングは岡林信康の“友よ”というのも泣かせる。
今年の横浜FCはJ1復帰を至上命題に大幅補強を果たし、前シーズンのスタメンはわずか3,4人と顔ぶれがガラリと変わっている。トップはもちろん元代表の大黒。言わずもがなセリエAのトリノでもプレーしていたスター選手である。控えに回ったカズとともにチームにセリエA戦士を二人も抱える戦力はJ2有数だろう。
対するわが北九州はJ2昇格というのにほとんど強化はされず(財政的な問題だろうけど)、わずかにJ1でかつてその才能を嘱望されたものの怪我に泣いて各球団を流れ歩いてきた佐野裕哉が10番を背負っているのが目立つくらいだ。
完全アウェイで圧倒的な戦力差という状況でわれらが北九州は史上初のJリーグの歴史的試合のホイッスルを迎えた。

試合自体は寒さがいや増す展開。互角に勝負できたのは前半25分まで。何度も裏を狙われ飛び出す大黒にラインを上げて対抗していたが、滑るピッチに足を取られたDFがあっさりかわされてゴールを決められると10分後には同じ選手が再びクリアミスで相手の大黒にパス?してしまいバーに直撃したボールを拾ったFWの高地にこの日2点目を決められてしまった。
後半もなんども押し込まれたのを耐え抜いて、何度か見せ場も作ったものの零封であっさり完敗してしまった。

試合後、横浜サポのお二人に合流し、野毛の居酒屋で交流会と相成ったのだが、点差ほどの技術の差はなかったとのこちらの負けおしみに、この差のなかにしのぎを削るのがJ2サッカーといわれ妙に納得。
欧州のサッカーや日本代表の試合に(だいぶ落ちるが)比べると、レベルは比べようもないが、それはそれで負ければ確かに悔しいし、初勝利の日にはきっと快哉を叫びたくなるだろう。これまでいまひとつ気持の入らなかったJリーグだったが、逆にプロビンツァとはいえ出身地を同じくする“おれたちのチーム”という感覚は身にしみてわかった気がする。この日は雨に降られ、寒さに震え、試合は完敗という最悪のスタートだったが、早くも今後のスケジュールが気になりもう近場の地方には遠征で行くつもりでいる自分に気がついた。
地方の競技場に遠征し帰りは地場の飲み屋で反省会というのもなかなか悪くない。

そう、“それこそがJ2ワールドの魅力ですよ”と横浜サポのお二人に、うながされ空腹にしみるホルモン焼きと体を温めるホッピーも外、中、合わせてすでに3杯目、気づいたらサッカー談議はさらに盛り上がり至福の時間に浸っている。
こりゃ、ハマりそうだ。

2010年3月1日月曜日

週間呑みアルキスト2.15~2.28


●2月15日
かつて在籍した出版社K社でに関わっていた何社かの製作会社でゆるやかな連合体を作って、共同で企画を考えたり仕事のアイデアを出し合ったりという試みがいよいよ動き出し、第2回目の月例会を神保町の『イタリア居酒屋ピアンタ』で開催。呑みが入ると饒舌にはなるが忘れてしまう、という欠点も確かにあるのだがこの日はとりあえずこれまでの報告とこれからの方向、そして会の名前決めということで終了。今後は親睦中心ではなく会議中心ということに意思統一。会がハネそれぞれ皆さん仕事に戻ったが長老格のMM社OG社長に誘われて『クラインブルー』で軽く延長戦。

●2月17日
元KS社のKJ氏が来社、ワールドカップに向けた企画本の打ち合わせ。適当な場所ということで一昨日行ったばかりの『イタリア居酒屋ピアンタ』へ再びの食事兼軽呑み。この日は仕事もあって深酒ができないためカウンターで量り売りワインをちびりちびり。この店は料理の値段がとてもリーズナブルなのでつい足を運んでしまうのだが、カウンター客にはピザが一人前のサイズで出してくれる特典があって小分けで種類が頼めるのはうれしい。店の若い女性スタッフからにこやかにあいさつされるのもさらにうれしい。

●2月24日
デザインの発注打ち合わせで曙橋のMM社へ。肝心のOG社長が外出先からの戻りが少し遅れるということなのでMM社の隣のビルにあるスナック『ココロア』でビールを呑みながら待つことに。店には新進の写真家らしい人の作品集が飾ってあって、若いマスターにどんな人か聞くとなんのことはないマスター自身の作品だそうだ。写真は1眼レフでもなく単なるデジカメで撮った風景写真が主だったが、それにしてはなかなかのセンス。店の装飾としてもアートっぽくてなかなか栄えていた。作品の撮影時の話など聞いているうちに待ち人帰社でまた時間つぶしで利用させてもらうと約す。
打ち合わせ後、隣駅の新宿三丁目の乗り換えで『T's Bar』に久々立ち寄ってみる。近所の『Pit inn』でよくライブをやっていた故浅川マキさんの思い出話でしんみり。

●2月26日
KM社のWS氏とH誌の別冊号の制作の話で打ち合わせ。待ち合わせ場所の飯田橋駅西口で待っていると、以前在籍していたK社のベテラン女性編集者DTさんから声をかけられる。聞けば人事異動でちょっと暇なセクションに変わったそうで、彼女のような昔ながらの作家担当的なポジションも過去のものになりつつあることを実感する。WS氏と落ち合った後、駅ビルのラムラにある回らないチェーン店『八千代寿司』でゴチになる。

●2月27日
元KS社のKJ氏と打ち合わせ。仕事後そばでも食いましょうと町へ出たが土曜日だったので意外としまっている。すずらん通りにある老舗の居酒屋『浅野屋』で軽くやりながら打ち合わせの続き。社の方向に戻ると珍しく『明治屋2nd』が土曜営業だったので立ち寄るが、KJ氏勢いが付いてしまいさらに深夜営業の『シャルルボイル』にハシゴ。土曜日なので終電まで粘ってしまう。