2009年1月10日土曜日

白鳥は舞い降りた


昨日からニュースになっていたが石神井公園にオオハクチョウが舞い降りたということで、さっそく朝から散歩がてら見物に行く。
石神井公園は最近ではワニの目撃情報があって(結局ガセっぽかった)勇名を馳せたが、やはり“ハクチョウがやって来る”というほうが聞こえがいいし、地元としてはちょっと誇らしくも思ってしまう。

かなりメディアで取り上げられていたので、さすがに人も集まっているだろうなとは思っていたが、いるいる!遠目からでも人垣ができていてアマチュアカメラマンのカメラの砲列が出来ていたので池に浮かんでいるハクチョウもすぐに目に飛び込んできた。
でかい!
普段見慣れているのはアヒルや鴨、かいつぶりといった類だからその大きさにまず目を見張る。
白い番が2羽、灰色がかった幼鳥が2羽、親子なのだろうか都合4羽が水上で優雅に羽を休めている。自然あふれる三宝寺池のほうならそれなりに風景に溶け込むのだろうが、降り立ったボート池は対岸が一般道路と住宅が並んでいるロケーションなので、なにかハクチョウたちも落ち着かないように見えてしまう。昨日一日は雪が舞ったりして公園もひと気がなかったがハクチョウたちも一夜明けてさぞかしビックリしたことだろう。
ハクチョウは秋にはるばるシベリアから北海道に渡ってきて、さらに寒さが厳しくなると本州に渡ってくるのだが東京に飛来してくるのは珍しいそうだ。

だいたい石神井は特別天然記念物のミツガシワの群生地でもあり(わが母校の中学校の校章だ)水生野鳥の生息地でもある。ハクチョウも見飽きたので三宝時池のほうに足を進めるとオナガガモやゴイサギ、カワセミなどさまざまな種類の野鳥が群れていた。ハクチョウたちもそれこそ三連休で見物客が増えるだけではなくボートを浮かべる客も出るだろうし、餌の水草だって比べ物にならない。早くこちらに移れば良いのにと思うのだが捕まえて移すわけにもいかないのでこればっかりは本人(鳥?)たちに気づいてもらうしかない。
それでも、朝から多くの人たちが笑顔で話しながら、ハクチョウ観察に急ぎ足で向かっている姿もなかなかほほえましい。地球環境の変化というわけでもなさそうなので、こいつは春から縁起がいいぜと何かの吉兆だと考えたいものだ。




2009年1月1日木曜日

初詣


正月には近所の氷川神社に初詣に出かけるようになった。
元々は幼児期にキリスト教教育を受けていたり、若い頃は弁証法的唯物論者を自認していたので神頼みなんぞ偶像崇拝じゃと思い込んで神社的なものには縁遠かったのだが、大人になって(精神的にも)からは自然と足がむき出した。
以前は天皇杯や大学ラグビー観戦の後ついでに東郷神社に立ち寄ったり、仕事が始まった後に勤務先の近くの神社に行ったりしていたのだが、現在のマンションに越してきてからは元旦に石神井公園や三宝寺池の散策も兼ねて歩いて20分ほどの地元氷川神社参拝が恒例となっている。

規模としては小さな神社だが歴史はなかなか古く、建立は室町期の応永年間(1394~1498)。この地に城を構える豊島氏が斉奉したものだが、太田道灌によって石神井城が攻め落とされ豊島氏が滅んだた後も地元民が奉り続けてきたという由来を持つ。よって小さくとも近在の総鎮守という権威ある古社ということで例年の初詣には延べにして約10万人が訪れるそうだ。確かに例年結構大勢の人が並んでいて神社前の住宅地の道路には警察官が何人か交通整理に借り出されれている。この日も500mほどの列ができていた。

約40分ほど行列に並んで参拝を待つあいだにも、参拝客たちが連れてくる犬の品評をしたり、閑静な住宅地ゆえ軒を連ねるよそ様の家の造作を眺めいったり(失礼!)、屋台のたこ焼きや焼蕎麦の美味しそうな匂いをご馳走になったり、境内のなかなか立派な狛犬を観賞したり(狛犬捕獲隊でも紹介します)。意外と待ち時間も楽しかったりもする。
さて、ようやくやってきた自分の番。二拝二拍手一拝。
今年も世界平和(w)と、無病息災をお祈りいたしました。
さて、昨年の世界経済崩壊で年頭から暗いニュースが多いなか、今年はどんな年になることやら。

2008年12月31日水曜日

週間呑みアルキスト12.15~12.31


●12月15日
新潟佐渡の酒蔵の入り婿社長H氏が上京、彼と仲の良い印刷会社A氏とともに神保町の中華料理『鐘楼』で食事会。H氏もA氏もかつては雑誌編集者だったが、現在は違った道を歩んでいるもののやはり会えば昔話から始まり雑誌の世界の話題になってしまう。2次会は『明治屋2nd』、新潟出身の常連さんがたまたま来ていてH氏の地元の“酒”の話で盛り上がる。

●12月17日
編集者かつ詩人のO氏が来社。以前O氏が主宰するオヤジロックの雑誌「40/60」の出版にちょっと協力したことのお礼ということで、お言葉に甘えて神保町の比内鶏の料理がおいしい『蘭奢待』でご馳走になる。創刊号の特集はニール・ヤング。なかなか渋い大人のロック雑誌だが2号目の発刊は創刊号の売れ行きしだいなのだとか。雑誌が元気のない時代だけに何とかがんばって次の雑誌を出して欲しいものである。

●12月18日
クラブワールドカップ準決勝の「マンU×ガンバ」戦を観戦しに横浜日産スタジアムへ。同行のaskさんと試合終了後に混雑を避けるべく早足で新横浜まで戻り、焼き鳥屋『もへじ』に陣取って試合評。ここの店はすっかり日産スタジアムに来たときの定番となってしまった。

●12月19日
K書店のハウスエージェンシーであるKM社のKB社長と編集プロダクションF社のY社長と神保町で忘年会。界隈はすでに忘年会シーズンでどこも混んでいたがすずらん通りの蕎麦屋『静邨』になんとか空席を見つける。KB社長とY氏とはかつての衛星ラジオ放送立ち上げ時の同志。厳しい時代だがかつてのような「熱」でもう一度面白い仕事を一緒やろうと盛り上がる。超満員の『明治屋2nd』で場所を空けてもらいハシゴ。

●12月21日
クラブワールドカップ決勝を、熱狂的CロナウドファンのS嬢とともに再び横浜日産スタジアムへ。気温はそれほどでもなかったが風が強く結構身体は冷えてきってしまったので、試合終了後やはり表彰式をパスして大急ぎでお約束の新横浜『もへじ』へ直行し暖を取る。毎年恒例だったこの大会だが来年から2年間はUAEへ開催が移管するのでこの試合後のパターンもしばし中断かもしれない。

●12月22日
スポーツカメラマンK氏と四谷の中華料理『こうや』で会食。スポーツの世界も不況の影響をもろにくらって仕事が激減したそうだ。そうはいうもののスポーツが金まみれのビジネス優先イベント化していたわけだから本来の姿に立ち戻るチャンスかもしれない。真剣勝負のスポーツ報道は廃れはしないと思うのだが。四谷でK氏のいきつけのBar『スリーサークル』にハシゴ。

●12月23日
わがサッカーチームの草創期のメンバーで早逝してしまったH君の没後10年ということでかつての仲間たちと西多磨霊園に墓参。帰りに昔試合のあとによくやったように車を連ねて立川駅近くの『ロイヤルホスト』に立ち寄って法事の会食。電車組の4名はさらに立川駅南口の『ジョン万次郎』へ移動して故人へ献杯することに。

●12月24日
某旅行会社のパンフレットデザインのプレゼンがあって、終了後デザイン会社M社のOG社長とデザイナーのN嬢とお疲れ様会を日比谷国際ビル地下のスペインバル『BAR ESPANOL LA BODEGA』へ。さすがにクリスマスイブということで店内はカップルや女性客でいっぱい。タパスをつまみながら仕事の成功を祈念してサルー!

●12月25日
お世話になっている漫画家のOKさんの紹介で仕事の相談をしているIT制作会社のSC社と忘年会。先方の会社に近い自由が丘の居酒屋『和旬』へ。若いスタッフの会社なので皆さんの食いっぷりが気持ちよい。この日は急な忘年会がダブルブッキングとなってしまいSC社の方々に途中抜けをあやまりつつ神保町へとんぼ返り。かつての同僚で退社後農業をやっていたSS氏が特別ゲストということでT出版O社長、デザイナーAkiさんのと合流しBar『クラインブルー』へ。

●12月26日
いつも立ち寄る『明治屋2nd』の常連さんによる忘年会が27日に行われるということだったが、27日は仕事がらみのライブ観賞の予定が入ったので個人的に1日早く忘年会ということにしてもらう。この日もけっこう常連の人たちが来ていたので結構店の忘年会っぽい気分であった。新宿の『T's Bar』にも年末の挨拶かたがた覗いてみるとaskさん、DONJUANさんが合流。終電ぎりぎりで帰宅。

●12月27日
広告会社D社のSM氏と恵比寿の『アート・カフェ・フレンズ』にフュージョンユニット和泉宏隆+鳥山雄司のライブに行く。お店はアートを名乗るだけに洋画のエッチングとかが多数掲げられたレストランだが、音響やライティングも装備されていて毎日のようにJAZZのライブが行われているとか。ライブ終了後帰り道が同方向なのでSM氏の地元の落合南長崎のBar『Eurasian』で遅い夕食をかねて飲むことに。

●12月28日
雑誌「40/60」を制作するO氏のZ社の忘年会に参加。場所は原宿キャットストリートのこじんまりしたBar『LoiteR』。大学生の頃はよく来ていたがとんとご無沙汰の原宿で飲むのはいったい何年ぶりだろうか。初めて会う人ばかりだったがそこは業界人の集まりだけに知り合いの知り合いみたいな人も多く、思わぬ人の名前が出てきたりで驚く。ゲストで関係者の友人の台湾青年がいたりしたので最後は英語、中国語が乱れ飛んでわけがわからない状態に。

●12月29日
今年レギュラーで仕事していたものの突然休刊になってしまったK誌のKN編集長と飲み会。世の中はもうすっかり休みモードなのでKN編集長の地元・東久留米の居酒屋『おちゃのこ菜々』でおでんをつつきながら来年の再出発のプランやアイデアを話し合う。お互いお先真っ暗な状況だが来年がいい年であるように頑張りましょう。

●12月30日
S新聞社のH嬢、デザイナーのF嬢と今年最後の仕事の打ち合わせをやった後食事へ。神保町界隈の店もすっかり休みに入っていて閑散としていたがたまたま開いていた中華料理屋の『酔仙飯店』へ。F嬢はこの日が初対面だったが、よく知っている出版社の仕事をしているので共通の知人も多いので驚く。暮れの暮れまで仕事の打ち合わせだったのでなんだか年末という感覚がしないが、この日でやっと仕事納めとなった。

●12月31日
妹と両親の墓参りをした後、石神井公園の蕎麦屋『稲田屋』で年越しそばを賞味。一年の呑みアルキの締めくくりは地元だったが振り返れば今年もよく呑んだ。100年に一度の不況で仕事的には暗くなる話ばかりだったが、こんな時期だからこそかえって憂さ晴らしも必要と割り切ることにしている。新しい年も懐はさびしくとも挫けず元気に笑って杯を重ねるべし。今年一年お付き合いいただいた皆様来年もよろしくお願いいたします。

2008年12月28日日曜日

今年最後のライブ

昨夜は仕事納めのあとお誘いがあって、恵比寿の「アート・カフェ・フレンズ」に和泉宏隆と鳥山雄司のジョイントライブを観に行ってきた。
会場は90人ほどのキャパのギャラリー・レストランなのだが天井が高く音がいいので、最近ではJAZZやシャンソン系のライブスポットとして人気のなかなか良い雰囲気のお店。年の瀬も押し迫った土曜の夜にもかかわらずほぼ満員の盛況で開演まじかに到着したわれわれだったが、なんとか補助の椅子で席を作ってもらう。

和泉宏隆(p)と鳥山雄司(g)は、高校・大学時代(慶応)の仲間元カシオペアの神保彰(dr)とともに「ピラミッド」というユニットを組んでいたのだが、神保は同じ時間に「スウィートベイジル」でやはりライブをやっているとかでこの日は和泉と鳥山にサポートベースが加わったメンバー構成。
フュージョンプレイヤーの第一人者であるお二人ゆえに曲も多彩で、もちろん和泉のオリジナルやピラミッド時代の曲もやるのだが、ミルトン・ナッシュメント、パット・メセニー、チック・コリヤあたりのカヴァーにはじまりエンニオ・モリコーネ、ミッシェル・ルグランといった大御所系から、はたまたドビュッシー、アース・ウインド&ファイアやスティービー・ワンダーまで、幅広い演奏を披露してくれた。
気がつけば休憩を挟んで2時間半を超えるロングライブだったがあっというまの楽しいひと時だった。

ライブを誘ってくれた広告会社のS氏が慶応の1級先輩にあたるので、終了後お二人に紹介していただいたが白髪の和泉氏が自分より二つ三つ若いので妙に自分が年食ったみたいな感覚になった。まあ、逆に歳の近い彼らがエネルギッシュな演奏を続けているわけだから、まだまだ大丈夫と無理やり自分を納得させたのだが。

2008年12月24日水曜日

東京タワーのお土産


東京タワーが出来て50周年なんだそうである。昨夜は様々なイベントが行われた由報道されていたが、確かに多くの人々がタワーに寄せる感慨、思い出があることだろう。
わが身に置き換えてみてもタワーが出来た当初(おそらく昭和35年頃だった)に一家で出かけた覚えがあり、展望台にのぼりその高さに身がすくむ思いをしたのを覚えている。一昨年亡くなった叔母がまだ20代で、ハイヒールをはいて幼児だった妹を抱きかかえ何百段も階段を下りたとその日のことを生前よく述懐していた。

20年ほど前に九州の田舎から中学生になった従兄弟が初めて一人で上京した際、東京見物に連れて行きお約束の東京タワーにも上ったことがある。彼が買った初めての東京のお土産は売店での東京タワーの置物だった。陳列されたケースを食い入るように見つめて両手いっぱいに大人から見ればガラクタにしか思えないお土産を抱えた坊主頭の田舎まるだしの中学生を見て、売店の売り子のオバさんが思わず売り物の紙袋を“これに入れなさい”と渡してくれて、つきそいとしてはすっかり恐縮してしまった。
その帰り路、東京タワーからつけ待ちのタクシーに乗って新宿まで都心を横断した。銀座や皇居、官庁街を窓の中からあれこれ教えてあげていると、今度は年配の運転手さんが“東京見物ですか。いやあ、自分が集団就職で上京したときのこと思い出しますなあ”とメーターをとめて、色々と遠回りをしてくれて思いつく名所に寄ってくれて更に恐縮した。
本当に口が重たい純朴な少年だったので、彼を見ているうちに売店のオバさんもタクシーの運転手さんも自身の「昭和」を投影させてしまったのかもしれない。
おそらく、幾千、幾万のこんな小さな思い出話が東京タワー50年の歴史にはあるのだろう。そんなことをニュース映像を見ながら思い出していた。

その中学生もその後、地元の大学を出て半導体輸出の会社の駐在員として現在イタリアに赴任しているそうである。彼もそのときの東京タワーの思い出をまだ覚えているだろうか?