2013年10月10日木曜日

東京オリンピックの選手たち。その後の人生を辿る

10月10日はかつては体育の日だった。
もちろん1964年の第18回オリンピック東京大会の開催日を記念してのことであった。

2020年の東京招致が決まって以来、半世紀前の東京オリンピックのことが再び語られ始めている。CS放送では9月に市川崑監督の記録映画のオリジナルノーカット版が繰り返し放送され、個人的にもあらためてあの日本中が熱狂した日々のことを思い返すことが多くなったし、同世代の人間と飲み屋に行ったりしたときは“あの時、何処にいたのか”という話題で盛り上がったりする機会も増えた。

2020年の東京再開催については世の中が浮かれるほど自分の中では期待はない。震災復興いまだしの中、経済的側面だけでオリンピックを強引に開催することは必ずしも是としないと思っているし、どんなに新しい時代の日本で世界最大のイベントが開催されようが、1964年の10月10日に経験した感激とホストカントリーの誇らしさ、その輝かしい日々に比ぶるべきもないからである。

1964年のことをあらためて振り返る機会が多い昨今、先日の東洋の魔女と謳われた女子バレーチームの主将だった中村(旧姓河西)昌枝さんの訃報は本当に残念な思いがしたとともに、彼女の享年が80歳という時の流れに改めて感慨を深くした。彼女の死をきっかけに、子どもごころに憧れたあの時世界から極東アジアの年に集まり生命の火花を散らした青年たち(あえてアスリートであるとかヒーローという言葉で表現するのではなく、あくまでその時代を生きた選手たちである)、の消息が気になって、当時には考えられなかったネットで時間を見つけてはその50年の足取りをたどったりするのが最近趣味になってきた。

そこで当時のメダリストたちがその後にたどった人生で、知ることもなかった事実に驚いたり、消息を追い求めた選手がすでに物故者になってしまったケースなど、いくつかの発見もあった。出来れば何かの機会に彼らのインサイドストーリーが記事にしたりできる機会があればいいなと思ったりもしているのである。

その中で特に印象に残った人たちの消息である。


①アン・エリザベス・パッカー(女子800m走)。
 
本職の400mで本命視されていたもののオーストラリアのベティ・カスバートに敗れ、過去数回しか経験のない800m走に出場、驚異的なラストスパートで見事優勝、ゴールとともに婚約者であったロ ビー・ブライトウェル選手の胸に飛び込んで行ったシーンは、強烈に覚えているし大会を代表する美しいエピソードであった。記録映画の映像でも好きなシーンである。800mは大会直前に不参加となった北朝鮮の辛金丹が大本命で、もし彼女が出ていたら金メダルは間違いなかったと言われるが、このときのパッカーは辛金丹の世界記録を上回る世界新記録での圧倒的な勝利だったことも特記すべきであろう。大会後競技生活から引退した彼女は、その年の暮れにブライトウェルと結婚。そして家庭に入り3人の男児の母となった。後年、そのうちの2人、両親のアスリートの血を受け継いだイアンとデビッドはマンチェスター・シティの選手として90年代から2000年にかけて活躍することになる。彼女自身は現在マンチェスター近郊のコングルトンで静かな老後を送っている。
東京大会の名花の一人、美しい人だった





















②アン・ローズマリー・スミス(女子800m走)
アン・パッカーの劇的な勝利のレースの陰で、8位と最後尾でゴールインした同僚選手である。華々しいパッカーに比べ、彼女の記憶は単なる風景の中の一人でしかなく、その人物に関して語られることはない。英国人としては小柄だったこの人もなかなかの美人選手だった。彼女のことが気になったのはネットのQ&Aサイトで、女子マラソンで一世を風靡した(ジョイス・)スミスがこのアン・スミスと同じ人物であるかという質問が目にとまったからである。もちろん別人物であることは言うまでもないが、回答者も同人物かどうかわからないということだったので、よっぽど彼女の人となりは知られていなかったということなのだろう。彼女はマイルレースと1500mのスペシャリストで、当時のオリンピックでは女子の長距離種目は無く800mが最長、1500m以上は72年のミュンヘン大会まで待たなければならなかった。17歳で競技生活を始めたスミスは、マイルレースの国内記録を次々に更新したものの1964年の東京大会では800mしかエントリーするチャンスがなかったのである。おなじように短距離ランナーだったパッカーも急造であったが、結果は明暗を分けてしまった。東京では決勝には残ったものの最下位に終わったため誰の記憶にも残らなかったが、1967年にはロンドンの競技会で4分17秒3の1500mの世界新記録を樹立した。ロンドンで体育学校の教師をつとめていたが、1993年脳出血で逝去。享年52歳。 
                                                                                 

悲運のランナーだった


                                                                                          




















③ ロバート・カーモディ(ボクシングフライ級)
ローマでのカシアス・クレイに続き、東京でのボクシングの米代表としてジョー・フレイジャーがヘビー級金メダリストになったことはよく知られている。米国が東京大会でボクシング競技にエントリーさせたもう一人の選手がフライ級のロバート・カーモディであった。彼は準決勝で優勝したイタリアのフェルナンド・アゾーリに惜しくも判定負けして銅メダリストとなったが、同僚のフレイジャーのように後年プロで活躍することはなかった。少年時代ブルックリンの貧しい白人家庭に生まれたカーモディはストリートファイトに明け暮れる荒んだ生活をしていたが1957年で陸軍に入隊しアマチュアボクサーのキャリアが始まる。小兵ながら“バターボール”とあだ名された俊敏さで頭角を現し、オール陸軍大会で優勝、汎アメリカ大会で銅メダルを獲得するまでになった。1964年の五輪予選で見事に優勝し晴れて米国代表として東京のリングに上がることになったのである。東京での銅獲得のあと、恋人のメアリー・サイクスと結婚。彼の幸福はしかし長く続くことはなかった。彼には軍務があった。当時徐々に泥沼化するベトナム戦争への従軍はオリンピアンといえども免れることはなかったのである。1967年10月27日。サイゴン近郊でパトロール中のカーモディ軍曹は解放戦線ゲリラの待ち伏せ攻撃に遭い戦死、29歳の若さだった。東京で一緒にトレーニングに励んだジョー・フレイジャーは“ボブはいい友達だったよ”と彼の死を惜しんだ。そのフレイジャーもいまは亡き人となった。ロバート・カーモディは東京オリンピックに参加した選手中、唯一のベトナム戦争の戦死者として記録されることになる。
代々木選手村でフレイジャーと。一番輝いていた時間













④キャシー・ファーガソン(水泳女子100m背泳ぎ)
東京五輪の水泳では、男子の19歳のエール大学生ジョン・ショランダーのメダルラッシュに熱狂したが、小生大会前からご執心だったのが女子100m背泳ぎの美人選手クリスティーヌ・キャロン(フランス)であった。“キキ”の愛称で知られる19歳の美貌のスイマーは大会前から世界を魅了していた。当時愛読していた少年向けの雑誌「ボーイズライフ」でも彼女のグラビアが特集され、ませがきだった小生の心をとらえて離さなかった。日本の女子高校生スイマー、ミミこと木原美智子(故人)も脚光を浴びたが、子供心にキキのあふれんばかりの笑顔の前にはすっかり霞んでしまっていた。本番の決勝戦でもキャロンの勝利は揺るがないと思っていたが、水泳王国アメリカもそうはさせじとティーンエイジャーの若きスイマーたちで対抗した。結果、16歳の少女キャシー・ファーガソンがキャロンに2ストローク差以上つけて勝利、王国アメリカ水泳陣の層の厚さを見せつける結果に終わった。キャロンに比べ子供のようなあどけなさを残すファーガソンは表彰台の上で泣き崩れそうになり、その腕を優しくキャロンは支えてあげたのが印象に残っている。グッドルーザーであったキャロンはその後美貌を生かし女優に転身。60年代後期までに何本かのフランス映画のスクリーンを飾ったが、五輪熱が冷めた後の日本であまり話題になることはなかった。
一躍ヒロインとして凱旋したキャシー・ファーガソンは故郷カリフォルニア州のフレズノで地域の名士としてその後の人生を生きたようだ。現在はガールスカウト協会の会長職を務める。YouTubeに地元テレビ局によるインタビューが上がっていた。表彰台で感極まった少女は気品のある婦人としていまなお健在なようである。
http://youtu.be/HMwYzjPE3xY

ファーガソンとキャロン。アイドルたちの競演


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