2011年12月31日土曜日

週間呑みアルキスト12.12~12.31


●12月13日
お台場某局の会議。年4回の季刊誌だがあっという間に次の号の企画検討が始まる。1年が早く経過するように感じるのもこういう仕事のサイクルにも由るのだろう。会議終了後SM嬢とゆりかもめで新橋に出て、カレッタビルの地下にある沖縄料理『清次郎』でお疲れ様の一杯。

●12月15日
お台場某局の季刊誌の仕事にかかわるチームで忘年会。トヨタカップのバルサ戦とかち合ってしまったが、相手がアジア代表のアルサードということで試合の勝敗の興味は薄かったので、忘年会とはいえ仕事関係優先。水道橋の中華料理『鐘楼』でデザイナー、オペレーター、編集計5名に参集してもらい1年の労をねぎらう。翌日はバリウムを飲む検査が控えていたが時間制限があったもののよく食べ、よく呑み2次会で神保町のbar『シャルルボイル』に流れた後、終電にて帰還。

●12月18日
トヨタ世界クラブ選手権の決勝戦は当然ながらバルセロナとサントスの欧州対南米の対決に。スペイン産のワインを買い込みテレビ観戦しながら家呑み、世界最高水準のサッカーを満喫した。バルサのレベルは、ブラジルの若き才能ネイマールを擁するサントスをしてほぼ何もできないほどの差をみせつけた。メッシはもちろんW杯優勝の原動力となったイニエスタ、シャビ、セスクといったスーパーな選手たちの「技」に陶然とさせられる。

●12月23日
連休を利用しての台湾旅行。今回は趣向を変えて中西部の嘉義と虎尾へのローカルの旅がメイン。初日から桃園空港から台湾高鐡で直接嘉義へ向かう。宿舎の耐斯王子大飯店は日本のプリンスホテルのグループで嘉義で一番高級なホテル。クリスマスで賑わっていることもあって海外ホテルサイトのインターネット予約で唯一空いていた部屋を押さえたのだが、チェックインしてみると4つもベッドがあるセミスイート。米ドル換算なのでこれでも1万円弱しかも朝食付きでこの値段、円高の思わぬ恩恵を味わう。1泊だけなのがもったいないような豪華な宿泊となった。ナイトマーケットで賑わう市の中心街へ繰り出し、嘉義の有名店『噴水鶏肉飯』で名物の鶏肉飯と牡蠣のスープ蚵仔湯で食事。

●12月24日
嘉義のホテルをチェックアウトし、タクシーをチャーターし虎尾をめざす。雲林県に属する虎尾まで高速で40分くらいの道のりだが、嘉南平野ののどかな田園地帯が広がる。虎尾はかつて戦時中に亡き父親が虎尾海軍航空隊に出征していた場所でいつか行きたいと思っていた地である。基地は戦後台湾空軍に接収され兵舎も居ぬきで空軍軍人たちが生活していたのだが、80年代に軍は移転し廃棄され現在は古き眷村(軍人村)の痕跡を残すのみとなっているそうである。歴史的に街の発展を支えた旧大日本製糖の工場や鉄道駅、鉄橋や、日本統治時代の建造物を利用した雲林布袋戲館や雲林故事館などを見て回り、父親が居たと思われる基地の戦跡のあとを探す。かつての滑走路は一面の畑となり眷村となった兵舎は朽ち果てていたが掩蔽壕や高角砲塔跡なども見つけることが出来、なかなか感傷的な旅が出来た。途中立ち寄った『斗南鵝肉』という店でガチョウの鵝肉湯麺で軽く腹ごなししたあと、台湾高鐡嘉義駅に戻り台北へ移動。イブの夜は宿泊先の兄弟大飯店の飲茶レストラン『梅花廰』で食事。

●12月25日
遅い朝食を民生東路の『史記正宗牛肉麺』でとった後、東区に移動して一日過ごす。台湾は日本と比べて不景気感もなく東区の新光三越周辺はクリスマスの各種イベントで大賑わい。10年前の駐在時には比較的何もなかった東区だが、いまや台湾の原宿・西門町より若者が多いのではないだろうか。その街の変貌振りに目を瞠る思いだ。夕食は誠品書店ビル地下のフードコートで粥の定食ですませ、台湾でのかつての同僚TK氏と落ち合い南京東路のbar『異塵』で久々に語り合う。

●12月27日
夕方からSN嬢、TM嬢、KJ氏とA誌の編集打ち合わせ。終了後神保町の『ヴェジタリアンⅡ』で食事兼打ち上げ。ワイン3本あけて久々の深夜タクシーで帰宅。

●12月28日
カメラマンKG氏、KJ氏と忘年会。四谷の新道通り近くに移った『こうや』で会食後、四谷一丁目の『3Circle』でK社の後輩TK君が合流して2次会。終電で帰還。

●12月29日
いつもお世話になっている事務所の隣の立ち飲みや『明治屋2nd』の忘年会。大勢の常連さんたちがつめかけ相変わらずの大盛況。今年も1年間ごちそうさまでした。

●12月30日
恒例になったKN元K誌編集長とのひばりヶ丘焼肉忘年会だったが、KN氏が珍しく飲み疲れと風邪でダウン。この日は高校の仲間たちも地元で呑んでいると聞いていたのだがそちらへ合流するかと思ったが場所を聞き忘れたので断念、事務所で残務処理と片づけをした後、新宿に向かい『t's bar』へ。10年ほど前に今の場所に移る前の店舗の時代によく来ていたかつての常連さんのSK嬢、AS嬢らと久しぶりに再会する。『t's bar』もこの日が今年最後の営業日、こちらも1年間ごちそうさまでした。

2011年12月30日金曜日

台湾虎尾感傷時間旅行


12月23日からの3連休を利用して台湾で一人旅をしてきた。貯まったマイレージの残存期間が終わるため早いうちからこの時期の航空券に変えていたためでもある。
ということで、特に目的もなく訪台するのもめったにないことなので仕事関係の知人は最終日の夜に1件アポイントをとるのみにとどめた。聖誕節(クリスマス)で賑わう台北を離れて普段あまり行く機会がない田舎をのんびり回ってみるかなどと思い、東海岸や南部の温泉地も良かったのだがいつかは行きたかったのだがなかなか機会を持てなかった父親の戦時中の赴任地・虎尾を訪問を思い立った。桃園空港から台北を素通りしいきなり新幹線で嘉義に入れば、嘉義を起点に台湾中西部に位置する雲林県虎尾鎮まで足を延ばせる。ちょっとした感傷旅行もたまにはいいだろう。

虎尾というのは明治期に大日本製糖(戦後は台湾製糖)の工場が進出し開拓され発展した町で、戦時中は海軍の虎尾航空隊の基地があった場所である。虎尾空は九三式中間練習機(いわゆる赤トンボ)による訓練部隊で、予科練の甲飛十三期と学徒出陣組の三重空で教育課程を終えた一期飛行予備生徒(第14期飛行予備学生と同期で大学予科在学組)を中心に実戦教育がおこなわれていた。虎尾空自体は昭和20年の2月に解隊となったが、その後もシンガポールから転戦してきた航空隊が、残存していた布張り複葉の赤トンボに250Kg爆弾を装着して特攻出撃を敢行した悲劇の舞台でもあった。

予備生徒だったわが父は昭和19年に赴任、10月の台湾沖航空戦まで在隊しその後、本土決戦の特攻要員として百里原空へ転任し終戦を迎えた。在隊時は猛訓練に明け暮れていたものの兵舎内は完全に自治を任され同期の戦友たちと星を眺めながら青春の日々を語り合ったということのようだ。そのため特に思い出深い日々であったらしく、生前はよく再訪したいと言いつづけていたが、高度経済期の企業戦士とあってはなかなか行く機会がとれないままその希望は果たせなかった。同期生たちのなかにはやはり青春の記憶を辿り戦後戦跡を回っていた人もいて、父親の葬儀の際は当時台湾駐在だった小生に、「台湾にいるのに行かなければ親父が浮かばれんぞ」と叱責する方もいたので、今回67年を経てやっと50をとうに過ぎた愚息が変わって父親の思いを辿ることになったという次第である。

虎尾基地は戦後2.28事件の際に、武装蜂起した台湾青年たちが鎮圧部隊と激戦を展開し二度目の悲劇の舞台になるという運命を辿り、その後、中華民国空軍に接収されて当時の兵舎はそのまま彼らの宿舎として利用されていた。80年代に入って部隊移転で民間に払い下げられたが、その後住む人も少なく建物は朽ち果てたが地元として眷村(軍人村)文化の保護が訴えられているそうである。滑走路の跡は一面の畑になっているという話は聞いていたので、戦跡と言ってもそれを示す様な資料がないので、果たして言葉も大してしゃべれない自分が一人で辿りつけるか不安もあったのだが、旧海軍時代の部隊の見取り図をたまたま予科練の虎尾空会が自費出版した本の中から見つけ、現在の地図と照らし合わせながら行けば何とかなるだろうと、とりあえず宿泊先の嘉義からタクシーを1日チャーターしおっとり刀で虎尾へ向けて出発した。

ホテルで紹介されたタクシーのドライバーは坂上二郎似の典型的な台湾のおっさんだった。怪しげな北京語で虎尾行きを交渉すると1日回って全部で5000NT$だというので、往復の距離(東京―横浜くらい)を考えると日本円にして2万円しないのは安いと判断しあっさり妥結した。市内観光とあわせて行きたい眷村のあるあたりを指し示すと、妙な顔をしながら「おまえは何人か?」と問うので日本人だと答えると「え、日本人か?大体この辺に来る日本人は日月潭か阿里山に鉄道旅行するって限られているのに、何故眷村なんかに行くんだ」と不思議そうに言うので、「父親がかつて海軍の飛行基地にいたので、その足跡をたどるんだ」となんとか判らせると、林さんという名のこのおっさん、やにわに張り切り出し無線指令室やら友だちやらに色々電話で尋ねながら車を走らせる。大体、この手の台湾の田舎の人は総じて親切なのだが、台湾語交じりの北京語の理解が難しく言ってることの6割くらいしか判らないのが玉に瑕。でもまあおかげで錆びた北京語のブラッシュアップも兼ねて片言会話で道中退屈はしなかった。

旧大日本製糖の跡やら砂糖搬出鉄道の鉄橋跡やら旧郡守官舎などの日本時代の建物をひととおり観た後、いよいよ基地の跡があった虎尾の郊外へ向かう。街道筋は一面の畑でのどかな風景が広がる。虎尾空の見取り図であるイ地区(兵舎は滑走路を囲んでイ~ホまである)の周辺の小路を行くと、あるわあるわ朽ち果てた日本式の建物が軒を並べている。無人の家も多いがなかにはいまだに人が住んでいる家もある。この棟のどこかに親父も暮らしていたのだろうか?車を止めて畑を見まわすと、ところどころのうっそうとした竹林に掩蔽壕や防空壕の跡が姿を現す。やにわに視界に入って来た高角砲台跡と思われる筒状のコンクリートの塔が弾痕だらけの痛々しい姿をさらしていた(写真上)。滑走路があったと思われるあたりは畑と化しているが、やはりところどころに当時を偲ばせる遺構があるものだ。父親の戦友で訓練中に殉職した伊藤猛少尉(名古屋高商)の御霊に父に変わって合掌し、さらにこの基地から特攻出撃した隊員を思いしばし黙とうをささげた。ドライバーの林さんもこの時ばかりは神妙な顔で待っていてくれた。
しばらく周囲を散策し、眷村独特の大陸反攻のスローガンが書きなぐられた廃屋を巡っていると、やはり時の流れを感じさせる。感傷的な気分でなかなか立ち去りがたかったが日も傾いてきたので、虎尾の田園風景を後にして嘉義の新幹線駅に向って車を飛ばしてもらった。

台湾高鐡の新幹線で台北まで約1時間、確かにこの新幹線の開通は台湾の地方都市への移動時間を劇的に短縮した。面積にして九州くらいの台湾だがいまだに訪れたことがない場所はたくさんあり、今後はこういう楽しみ方もできるということを体感しただけでも大きな収穫があった。台北へ戻ると街は若いカップルが大勢くり出し日曜日のクリスマスを楽しんでいる。屈託がない幸せそうな“今風”の彼らを見ているとなんとなくタイムマシンで帰って来たような感覚になるが、台湾も日本統治時代を知る世代がそろそろ消えようとしている。それはそれで仕方がないことなのかもしれないが、過去の悲惨な歴史が将来にわたって再び繰り返されることがないように願うばかりである。

2012年がすべての人にとって良い年でありますように。




かつての兵舎

畑の中に残る掩蔽壕

防空壕跡

これも防空用の壕なのだろうか

戦後、台湾空軍が接収。大陸反攻や反共愛国スローガンが目立つ

滑走路があったと思しき場所、一面の畑

のどかな田舎。なんとなく懐かしさを感じる

2011年12月20日火曜日

二人の指導者の死


北朝鮮の金正日総書記死亡のニュース一色の日。奇しくもチェコのビロード革命の立役者だったヴァツラフ・ハベル前大統領も時を同じくして逝去。
かたや共産主義を私物化し、かたや共産主義を解体させた指導者であった。


私物化していた主を失った独裁国家の今後がどうなっていくのか?
まがりなりにも国民に権力を移譲した民主国家の指導者を追慕する人々の悲しみと、明日がまったく見えなくなった国民の悲しみが、こんなにも質的に異なっているのも皮肉なものである。


2012年は金正日体制の重石の取れた独裁国家が、中東を席巻したアラブの春に続き、22年前に東欧で人々が味わった自由を甘受できるようになるのか?
願わくば、次の国民の涙が喜びの涙とならんことを。

2011年12月16日金曜日

5000年前のことの嘘実が分かるはずもないが


ドキュメンタリー映画『ピラミッド 5000年の嘘』の試写へ。
会場でメディアに対して記事書くときネタバレに配慮してと、わざわざお断りが配られたぐらいだからきっとさぞかし驚愕の新説が出るのではと期待は膨らむ。
ネタばれしない程度に内容を記すと、エジプトのクフ王ピラミッドを37年に渡り、考古学の観点からだけでなく建築、数学、、天文学、気象学等様々な観点から分析、解明した結果たどりついた常識を覆す新事実を提示する、ということになろうか。

科学的に考えて5000年前のエジプト人が作ったにしては説明のつかないことが多すぎ、円周率が3.14どころではないくらい小数点が必要になるほど精密な円形の連鎖による設計や、ヒエログリフや紋章の不可思議さとか、さんざん定説の矛盾を例に挙げられた上で導かれる結論はちょっと恐ろしいが、いままで知らなかったピラミッドの答えの出せない不思議の数々と、他の古代遺跡との共通項に純粋に驚かされた。エジプト学の権威でおなじみの吉村作治先生も来場されていて、終了後お仲間に“いや面白かったね”と盛んにほめていらっしゃったので、それなりにトンでも説ではないのかもしれない。

ただし根っから文系のおいらにゃすんなり理解できない部分もあって、ついウトウト。またディスカバリーチャンネルを思わせる抑揚のないナレーションが妙に耳障りがよく途中30分は夢の中でTINTINのごとくエジプト探検していたorz

2011年12月13日火曜日

週刊呑みアルキスト11.21~12.11


●11月21日
A誌の校了作業で編集のSM嬢と打ち合わせかたがた神保町の老舗ビアレストラン『ランチョン』で食事。毎回ぎりぎりまで駆け込み入稿で印刷所からも怒られてばかりだが、今回は何とか締め切りには間に合った。ことさらうまいビールで一気に酔いがまわり、今日こそは早く帰ろうと思っていたのに事務所に戻ってうとうとしてしまい、結局終電で帰る羽目に。

●11月23日
祝日を休日として家でのんびりできるのも今年になって何回あっただろうか。昼はラグビーの早慶戦、夜はサッカー五輪予選の対バーレーン戦と、ひさしぶりにだらだら昼から飲みながらのテレビ観戦三昧。ちょっとした解放感に浸る。

●11月24日
友人のHT氏が来社。ひさしぶりに会社関係以外の人間と呑みに行く。事務所の隣の焼き鳥ダイニング『ぼんちゃん』で仕事を忘れてサッカーや映画の話を喋りまくる。『明治屋2nd』にハシゴ。

●11月26日
午前中は健康診断。メタボ指導の甲斐もなく連日の夜遅くまでの入稿作業ですっかり不節制し、数値の悪化は避けられまい。午後にA誌の見本誌が刷り上がり、クライアントに届けるべく編集のSM嬢が受け取りに来社。
神保町のオーガニックダイニング『東京アチコーコー』でプチ打ち上げ。

●12月2日
友人のHT誌と市ヶ谷の日本蕎麦屋『大川や』で食事。前回会った際に話題になり譲り受けることになった英国人作家フィリップ・カーの新作『変わらざるもの』を受け取る。10年ほど前に新潮文庫で3部作として戦中戦後のベルリンを舞台にした私立探偵ベルンハルト・グンターシリーズの久々の続編であるが、3部作も今や絶版。今回は訳者も変わりPHP文庫から発刊されたが、パラパラつまみ読みしてハードボイルドな世界は相変わらず健在。これからしばらくは通勤の読書が楽しみになりそうだ。HT氏との会食の流れで四谷に移動、今年いっぱいで店を閉めることになった四谷の『3Circle』に顔を出す。

●12月6日
旅行作家でもあり編集者でもあるKN氏に誘われ、ハルビン出身の中国語ネイティブSH嬢の語学レッスンに参加する。レッスンといっても食事をしながら簡単な会話で中国語を喋る機会を持つという気楽な授業である。待ち合わせ場所の高田馬場の中華レストラン『平大将』で、いい歳こいたオヤジ二人が怪しげな中国語で若い中国娘と談笑する姿ははたで見ていても絶対格好いいものではないが、錆びついた中国語をブラッシュアップするのには多少なりとも役立ちそうではある。次回が楽しみ。

●12月9日
寒い一日。会社帰りに無性にラーメンが食べたくなり新宿三丁目で下車し『博多天神』へ。その足で久しぶりの『t’s bar』で一杯ひっかけて終電にて帰宅。

●12月11日
ちょっとした経理処理で事務所に出ていたが、帰宅時に石神井公園駅にて古巣のK社の後輩YN氏とバッタリ。彼が同じ町内に住んでいるのは聞いていたが会うのは初めて。さっそく誘い合わせて駅前のスナック『SHAKUSHAKU』で一杯。

2011年12月11日日曜日

どっと疲れる映画


先日試写で観た園子温監督の『ヒミズ』に触発されて、現在公開中の『恋の罪』を観に行く。
1997年に渋谷で起きた東電OL殺人事件にインスパイアされたということだが、内容は場所が円山町というだけであまり実際の事件との関連性はない。大学教授の女性が夜は売春婦に変貌するというシチュエーションこそ類似しているが、主テーマは日常生活の中に押し隠されている様々な女性の抑圧からの解放の手法を不特定の男性とのSEXに求めていくという心象に置き、強烈な映像とともに性の地獄への途行きを描いて行く。
ただし、大学教授と貞淑な人妻がともに滅んでいく表現に力が入り過ぎて、肝心の猟奇殺人のサスペンス性やストーリー展開が平板になったり辻褄が合わなかったりというきらいがあり、その分、『ヒミズ』の方がより完成度は高い気はする。

一番印象に残ったのは神楽坂恵の壊れっぷり。グラドル出身で女優としての素養があるわけではないのだが、墜ちていく女の変貌ぶりを鬼気迫る体当たりの演技で表現し、凄い存在感を示している。まあこの撮影の後に監督と結婚したというのもわかるというか、彼女自身の存在をこれだけ意のままにされりゃ一緒にならざるを得ないわな。また大学教授の富樫真も2面性を表現するという意味ではこちらも負けじと熱演している。二人ともこんな役柄をやっちゃった以上、次にどういう役を演ずるのか難しいかもしれない。
主演ということになっている水野美紀も頑張っているんだが、役自体はあまり見せ場もなく、こちらも濡れ場シーンで熱演しているのだがちょっと可哀そう。

しかしなかなか映画を観終わってどっと疲れを感じさせる。
園子温の世界に付き合うのは見る側もなかなか根性がいるのは確かだ。

2011年12月3日土曜日

次の時代を生きる子供たちへ


『愛のむき出し』『冷たい熱帯魚』と話題作を発表し続け注目の園子温監督の新作『ヒミズ』を試写にて鑑賞。
古谷実の原作のダークで暴力的な世界に撮影準備中に発生した3.11東日本大震災の荒涼たる背景を加えることによって、次の日本の世代が背負わざるを得ない困難な状況が胸に迫ってくる。この映画に登場する大人たちはどいつもこいつもロクでもない奴ばかり。クソくだらない世の中の落とし前をつけられない大人たちに対するアンチテーゼのような生き方を模索する主人公の中学生・住田こそが、絶望の中にわずかに灯る希望のように映る。ラストの「ガンバレ、住田」の連呼は聞いているうちに実に心に響いてきた。

園子温は評判通りの力量の持ち主であることがこの作品でもよくわかる。いまだ未見の公開中の前作『恋の罪』も観に行かねばなるまい。

2011年11月29日火曜日

究極の音をつくる至福に触れる


西田敏行じゃないけど「ピアノが弾けたら」と思うことが良くある。
子供の頃、一時、ピアノを習わされていたことがあった。稽古が嫌で嫌で、まあ才能も見込みも全くないのであっさり見放され、当時の自分にとってはそれはラッキーだと思っていた。それでも下手は下手なりにその後も続けていたらずいぶんと楽しい趣味となって酒場の余芸くらいにはなったのにと今になって残念に思うのだ。
稽古は嫌だったが、唯一、聴音はよく褒められて嬉しかった覚えがある。そんな記憶も頭の片隅で覚えていたのか大人になってからよくピアノを聴くようになった。

そんな個人的にも主題に対する興味もあって昨日『ピアノマニア』というドキュメンタリー映画の試写を見させていただいた。
たまたま前日に締め切りがあって徹夜で原稿を書いていたりしていたものだから、ピアノの音を暗い映写室で聞いたらひとたまりもなく眠りについてしまうだろうなあ、と心配しながらも試写を回す日程もあって強行して出掛けてきた次第。

『ピアノマニア』が制作されたのは2年前だが、その間、欧州の映画祭で激賞された作品だそうだ。
ウィーンのコンチェルトハウスに努めるドイツ人のピアノ調律師シュテファン・クニュップファーが、ピエール=ロラン・エマールやアルフレート・ブランデル、ラン・ランといった名だたるピアニストを相手に、彼らが追求する音を作り出すために、スタンウェイ社の逸品“245番”を相手に、職人の腕と誇りをかけて究極の音作りに挑む話である。
エマールが収録するバッハの「フーガの技法」を完璧なものにするための1年間の彼の日常を追っていくのだが、その本人自らが“病的”と言うほどの音への執着と職人魂は、息つく間も与えないほど緊迫した映像で迫ってくるので、眠気どころかシュテファンと一緒に、ピアノが発する音の表現を聞き漏らすまいとして上映中ずっと精神を集中させて引き込まれてしまった。
2年前にウィーンに行ったこともあって、彼が車を運転する際の街並みの美しさも楽しめたし、調律師と言う職業に焦点を当てたという以上に、人間ドラマとして素晴らしい作品に仕上がっていると思う。

シュテファン自体もかつてはピアニストを志したが、その完ぺきを求める性格ゆえ自らの才能を見限って、調律という道に入ったということだが。裏方とはいえ最高峰のピアニストに絶大な信頼のもとにともに崇高なる芸術の頂点を目指す至福の時間を共有している。こういう生き方もあるのだ。

監督はドイツ人のリリアン・フランクとロベルト・シビスのコンビ。
“ピアノマニア”の熱情を、ときに迫真にときに緩やかに、まるでピアノを弾くごとく撮り進めている、彼らもまた立派な映像の“マニア”のようだ。

2011年11月24日木曜日

時代の語り部の不在


21日、噺家・立川談志が逝去。享年75歳。

1984年に言葉とコミュニケーションをテーマにした『言想樂』という本を編集した際、インタビューに応じてもらった。
直接自分で取材したわけではなかったが、思い出深い収録である。

いわく「現代の落語家ってェのは、自分なりのメディアを確立しなきゃならない」
時代を常に見つめながら生きて、その生きている証明を語る人だったように思う。

合掌

2011年11月23日水曜日

週間呑みアルキスト10.31~11.20


●11月6日
この1週間は連日入稿作業で呑みアルキどころではなかったが、日曜のこの日は大学時代の後輩でポーランド在住のNM氏が一時帰国しているため、学生時代の友人ED氏ら4名で渋谷駅にほど近い『黄金の蔵渋谷南口店』にてささやかな歓迎報告会。ポーランドでは来年、サッカーの欧州選手権が開催されるので、その際はお世話になろうかと勝手に思っているので、興味津々で現在の国情などを取材。

●11月11日
神保町でTN社のIB氏とバッタリ。ちょうど夕刻だったので食事に誘われ、シンガポール料理の『マカン』にて海南鶏飯をパクつきながら地元のタイガービールを一杯。まったく水っぽいビールだが自分にとっては懐かしい味。熱いシンガポールの気候とニョニャ料理と呼ばれるマレー系チャイニーズ料理にはこのビールが良く合うのだ。早々に切り上げて事務所に戻り日本代表のタジキスタン戦をテレビ観戦。ちょっと手こずるが4-0で一蹴。入稿はビールが入ってしまったので一向にはかどらない。

●11月14日
AM誌のインタビューで女子マラソンの有森裕子さんのインタビュー。頭の回転も速くなかなか舌鋒も鋭いが持ち時間が1時間だったのであっという間に終了。できればもっと競技生活中のエピソードなども聞きたかったのだが。終了後、帰社途中に撮影の仕切りをお願いしていたAR嬢と信濃町の『あいざわ』でとりあえずお疲れ様会。

●11月15日
夕方から日本代表の北朝鮮戦をテレビ観戦。さすが究極のアウェイでの戦い。金日成スタジアム5万の観衆に後押しされた北朝鮮はスピードと激しいあたりで、控え選手が多い日本代表を完全に凌駕。0-1でザックジャパン初の黒星とあいなった。まあこんな試合で主力を壊されてもと思えば腹も立たないが、ビビリ負けっていうのが気に食わない。隣の『明治屋2nd』で渇いたのどを潤す。

●11月17日
築地の広告代理店で打ち合わせのあと、MC社のNO氏に誘われ銀座で食事をすることに。銀座一丁目のNO氏の事務所の近くに在る『宮崎地鶏炭焼き 車』という居酒屋で解禁になったばかりのボジョレーヌーボーを飲みつつ宮崎の地元料理の「冷や汁」を賞味。いわゆるぶっかけ飯だが酒粕で味付けされているので人によっては苦手な人もいるかとも思うが、呑みアルキストとしてはさっぱりとした味わいが気に入る。
 
●11月18日
SM嬢がAU誌の担当特集の入稿作業のため来社、やっと一段落し、ふと気がつけば終電のなくなった時間帯に突入している。満足に食事もしていなかったので水道橋のラーメン屋『博多風龍』で食事した後タクシーで新宿2丁目の『t's BAR』に移動。

●11月19日
AU誌の校了でゲラの読み合わせ。編集のSM嬢、TM嬢と共に終了後プチ打ち上げ。会社の近所の比内地鶏の串焼き屋『蘭奢待』へ。この日は土曜日でネタが限られているということでマスターお任せで色々見繕ってもらうが結構なボリュームで大満足。

●11月20日
AU誌の校了の続きで出社。ほぼ確認作業で終わったため帰宅途中にレイトショーで映画『1911』を観賞。食事をしていなかったので映画館で軽いスナックとビール。連日の入稿作業の疲れとすきっ腹に流し込んだビールで眠気と闘いながらだったが、映画のテーマ自体は興味があったのでなんとか最後まで眠らずに2時間を超える大作を見終わった。地元のシネコンだったのですっかり冷え込んできた夜道を徒歩で帰る道すがら、見上げれば満天といかずとも冬の星座がくっきり。気がつけばあっというまにもう師走だ。

2011年11月22日火曜日

辛亥革命から100年


土日の校了の合間に辛亥革命を描いた映画『1911』を観に行く。
今年は辛亥革命100年で、ちなみに主演のジャッキー・チェンも映画主演作100本目にあたるということだそうだ。

ジャッキーは中国同盟会で軍事部門で孫文(ウィンストン・チャオが好演)と肩を並べる革命指導者・黄興を演じるが、映画自体はこの二人の友情物語、同志愛を中心に、1907年の女性革命家・秋瑾の処刑、1911年に失敗に終わった黄花崗起義(3.29広州起義)、10月の武昌起義から1912年1月1日の中華民国成立までを描いている。

『レッドクリフ』のスタッフが制作を担当したということで戦闘シーンはなかなか見どころはあるものの、話自体は孫文の外国での華僑への支持訴えや列強の清国に対する鉄道借款を阻止する活動と、黄興の戦いが、どうもエピソードをかいつまんで駆け足で説明していくため、なんだか落ち着かない。
併せて清朝内の袁世凱の暗躍などもきれぎれに挟み込んであるので、よほど辛亥革命の経緯を知る人間じゃないとなかなか相関関係が判りにくいのではないだろうか。
またラストも孫文が宣統帝退位の見返りに袁世凱に臨時大総統の座を譲るまでなので、革命の達成感がないままあっさりと途中で終わってしまう印象を感じてしまう(まあ清朝崩壊までが辛亥革命だから仕方がないのかもしれないが)、少なくとも、その後の第2革命や、護国戦争(第3革命)までの道筋まで示してほしい気がした。

興味があったのは革命の功労者・汪兆銘の描かれ方だったが、さすがに中国・香港合作ということで後に漢奸になってしまった人なので、まあ、良くは描かれないと思ったが、やはり軽挙妄動する若僧的な描かれ方で、ちょっと可哀そうだった。また米国人同志の登場はあるが革命初動期や武昌起義で活躍した山田良政らの日本人たちは当然ながら無視、わずかにコメント内で宮崎稲天の名がでてきたのみだったが。まあここまで望むべきもないがこの時代の東アジアの関係性をもう少し掘り下げても良かったような気もする。

武昌起義の際に掲げられた湖北軍の軍旗・鉄血十八星旗は初めて見たが、なかなかデザイン的にカッコ良い。
戦いの末に掲揚され、兵士たちがそれを見上げるシーンはちょっとぐっときたけど。

2011年10月30日日曜日

週間呑みアルキスト10.10~10.30


●10月11日
W杯予選、日本代表がホームでタジキスタン戦。昔だったら大阪・長居くらいなら平気で出かけていたのに、やはり自分で会社やっているとなかなか思うに任せられない。ということで今回も事務所で観戦。ハーフタイムに隣の『明治屋2nd』でビールを一杯飲んで戻るというスタジアム気分のり。結果8-0の快勝。日本代表がこんなに点を取ったのはアメリカ大会予選のバングラデシュ戦以来だ。点差のついた試合はゲームとしては面白みにかけるが気分は最高。

●10月12日
FK誌の仕事で大井町線の緑ヶ丘にあるイタリアン『ポルトフィーノ』でヴァンフォーレ甲府の森スカウトをインタビュー。森氏は現役時代はフジタの屈強なフルバックで日本代表にも選出されたこともある往年の名選手で、スカウト転向後、中田英寿をベルマーレ入りさせた人。プロヴィンツァチームのスカウトらしく有名選手より無名校から選手を発掘することに重点を置く。森氏が手がけた、現在アビスパ福岡の主将をつとめる中町選手を見出した話はなかなか面白かった。隠れた逸材を探すトレジャーハンターの心意気に感銘。

●10月13日
お台場のテレビ局のロング会議の後、新橋でSM嬢、TM嬢と食事。この会議だけは凄く疲れる会議ゆえ終わると呑まずには居られない気分になる。この日も知人の美人ママさんが経営する新橋駅ビル東館『Bar Link』で軽く1杯呑み、腰の据わったお二人を残して後ろ髪を引かれつつ次の会議に速攻で向かう。

●10月14日
ロンドン在住のデザイナーSZ嬢が一時帰国というので、昔の仲間だったデザイナーOG社長、KM嬢、WN氏とVD誌のNM嬢が集まって歓迎会を開催。新宿ゴールデン横丁の先にある韓国料理『百済』で焼肉をつつきながらロンドンの近況や昔話で盛り上がる。その足で旧トップスビルのワインバー『MARUGOⅤ』、歌舞伎町のスコティッシュパブ『HAZELBURN』とハシゴして久々に深夜タクシーで帰還。

●10月19日
スポーツフォトグラファーKG氏と取材打ち合わせのため神保町の中華『源来軒』で会食。石川遼君の話でもうすぐ新事実が発表になるよとの謎めいたことを口にしていたが、数日後にお付き合いしている女性が居るという発表があり、このことだったのかと改めて得心。

●10月20日
仕事帰りに新宿三丁目で下車し、『博多天神』で空腹を満たした跡に、『t’s bar』に立ち寄りたまたま持っていたピアニスト大給桜子さんのCDをかけてもらい、今はちょっと古く感じてしまう80年代のジャズにしばし浸る。

●10月24日
入稿が重なり仕事が忙しくなったため、フリーのHZ嬢に応援を求め打ち合わせ方々、白山通りの『ヴェジタリアンⅡ』で会食。ついついビールを2杯ほど呑んでしまったため、事務所に戻っても仕事にならずうとうとしながら気がつけば終電タイム。

●10月28日
お台場会議で消耗。例によってSM嬢、TM嬢と新橋に戻って打ち合わせ兼愚痴大会で、カレッタ汐溜の居酒屋『鍛冶屋 文蔵』へ。仕事終わりの電通マンや近隣サラリーマンで賑わっていたがラッキーにもたまたま空いた個室に案内される。チェーン展開の居酒屋らしいが料理のボリュームといいバラエティといい値段といいなかなかのコストパフォーマンス。こじゃれたビル内の店舗で賃料も高そうだが、そうでもしないと今の時代はやって行けないということか。

2011年10月29日土曜日

欧州社会の困惑を照射するカツアゲ映画


東京国際映画祭4作品目になるスウェーデンのコンペ作品『PLAY』を鑑賞。たまたま行けなくなった知人からチケットが回ってきたもので全く見る予定の無かった作品だったが、なかなか興味深く考えさせられる映画であった。
スウェーデンはここ20年、ソマリアや東欧、中近東から積極的に移民を受け入れてきたのだが、それによって多民族文化国家になるとともに治安の悪化が憂慮される事態に陥っている。
この作品も実際にあったソマリア移民の少年たちによる連続恐喝事件をモチーフにし、多民族国家へと変貌したスウェーデン社会の困惑を描いたものである。

黒人少年たちに引き回され脅され携帯電話や金を巻き上げられる白人及び裕福(?)なアジア系の少年たちのざらついた怯えや恐怖感、焦燥感は観ていて胸が苦しくなるし、周囲の大人たちの困惑、混乱も皮肉なタッチで問題提起される映像表現もなかなかうならせる。固定カメラを多用した撮影手法も(小津的?)も観客にジャッジメントを預けるような視覚効果を与える。
恐喝事件と関係が無いようなシークエンスも唐突に挿入されるが、それがスウェーデン語が通じずに英語で車内アナウンスせざるを得ない列車内の話や、中南米のストリートミュージシャンたちの演奏シーン、それらすべてがこの国の現状を訴えかけている仕組みだ。

恐喝された少年の親が犯人の黒人の少年から携帯電話を奪い返すシーンで、居合わせた人権派の女性たちの批難と被害者家族の言いあう姿は、高度な教育が施された福祉国家だった白人社会の混乱を皮肉に浮き彫りにしているようだった。

映画終了後の質疑応答で、マイノリティ系の記者から「映画人は作品制作に社会的な責任があるし、この作品は勢いを増す欧州の右翼の主張寄りで不愉快だ」と切って捨てる意見も飛び出したが、このような批判が出ることもあえて折込んだ制作意図を持っているのだろう。この批判に映画の女性プロデューサーからは「様々な意見を受けたいし、それがこの映画の目的である」と答えていた。

ノルウェーのテロの記憶も新しいが、子供たちの恐喝事件という小さな犯罪を描きながら、じつは欧州全体に、否、先進国全体に蔓延する移民問題の根源を描いた、非常に重いテーマを内包した作品だと言えるだろう。日本もこの先遠からず直面する(すでにしている)問題でもある。

2011年10月28日金曜日

チベットの空の青さが哀しいまでに美しい


仕事が山積みの中、なんとか時間を作りながら観に行っている今年の東京国際映画祭だが、3本目となる中国映画のコンペティション作品『転山KORA』を鑑賞。

 若くして亡くなった兄の夢が自転車によるチベット走破であったことを知った台湾人の青年が、兄の遺志を継ぐことで兄に対する思慕と彼の死に向かい合おうとチベットへと赴く。
平均標高3000~5000mの息をするだけで苦しい高地の過酷なコースへ命の危険を賭した挑戦で、ついに目的地のラサまで辿りつくまでを描く。
体力の限界に呻吟し、次々に立ちふさがる自然の猛威に何度も打ちのめされるものの、道中知り合った同じ自転車でのチベット行きを目指す雲南省の年長の男との友情や、現地のチベットの人々との交流を通して、いつしか兄の死を受け入れ成長していくロード・ムービー&グローイングストーリーである。

話自体はそこそこ面白い展開を見せるし役者もなかなか熱演していて好感は持てるのだが、主人公の台湾人の青年が、なんの束縛も無く政情不安のチベットにはいりこんでいることは果たしてあり得るのだろうか?また過酷な環境といいながらも、道路が舗装されていたり、公衆電話で国際電話がかけられたり、文明はこの秘境にも当たり前のように入り込んでいることに驚かされる。なんだかそこに漢民族による文化侵略を感じてしまうのも、あまりにも色眼鏡で見ているということになるのだろうか。
あえて台湾人を主人公に選ぶところも、プロパガンダ臭く感じてしまったりもするし、まあ中台合作といえど、中共によるチベットに対する経済文化支配への問題意識など盛り込める訳も無く、そういう社会背景は全くネグられてしまっているのは仕方のないところなのかもしれないが…。

ただ、映像から伝わってくるチベットのヒマラヤ山系の空の青さ、清澄な空気感を味わうだけでも観る価値があることは確か。

2011年10月24日月曜日

映画祭2作品目


東京国際映画祭2本目は、台湾の若手人気作家・九把刀の自伝的小説の映画化『あの頃、君を追いかけた』(原題=那些年,我們一起追的女孩)。この人は台湾の若い世代でマルチな才能を発揮している人だそうで自らメガホンをとった初監督作品でもある。台湾中部の地方都市・彰花の高校を舞台に、クラスのマドンナ的な女生徒をアタックする悪ガキ仲間5人組の青春ストーリー。まあ、初監督だからなのか最近の若手作家の作品の特徴なのだろうか、あまりにも他愛ない話で、青春時代特有の悩みやバックグラウンドになっている社会への同時代感や批評眼も無く、なんだか某局の学園ドラマ「イケメンパラダイス」でも見ている感じ。ただし個人的には描かれている時代が自分が駐在していた頃とダブるのでそれなりの楽しみ方はできたし、マドンナ役の陳妍希(ミシェル・チェン)は好きなタイプだったが…。
しかし台湾も平和で繁栄を極めた時代だからと言われればそれまでだが、それでも当時は李登輝の二国論で両岸関係が緊張したり、民進党が初めて政権をとったり、プロ野球は八百長で汚染されたり、それなりに騒然としていた気がする。まさかわれわれが日本から持ち込んだ「台北ウォ―カ―」がそういうノーテンキな青年たちを醸成してしまったのではないかと、ちょっと心配になってしまった。

2011年10月23日日曜日

映画祭1作品目


週末から東京国際映画祭が開幕。なんだかんだもう1年たったというのが実感。
今年は仕事の関係上、どうしてもスケジュールがとれずに台湾映画3作品だけ前売りを買っているが、これも無駄にならなければいいなと願うばかり。
日曜日の朝から初っ端の銀座シャンテシネマ1で上映される『運命の死化粧師』(原題/命運化妝師 MakeUp)を観てきた。台湾では6月に公開されたばかり。台湾のスーパーモデル隋棠(ソニア・スイ)の初映画出演作品で話題を呼んだらしい。主演は謝欣穎(ニッキー・シェ)、金馬奨助演女優賞を取ったことがあるというから期待の新進女優というところか。上映前この二人と監督の連奕琦(『海角七号』の助監督)と脚本家の舞台挨拶があったのだが二人のセクシーなドレス姿と美脚ぶりに朝からいい眼の保養になった。

映画は、葬儀社の化粧師(いわゆる日本の納棺夫=おくりびと)の女性が、ある日搬送された死体を見たら自分の高校時代の音楽教師だったことから始まるサスペンス仕立ての物語。実はかつて二人は教師と生徒の関係を超えた(いわゆるエス)秘めたる交際をしていた間柄という過去を持っている。女教師はレズビアンなのに精神科医の夫(呉中天)がいることとあわせ、妊娠中絶していたし、服毒自殺なのに解剖の所見がない。しかも死因を疑う刑事(張睿家)がつきまとう。果たして女教師の死の真相は?という概要なのだが、まあサスペンスタッチの話の展開と平行して教師と生徒のかつての恋の記憶がテンポよくかつ情感たっぷりに描かれていて、そこそこ楽しめる。ただよく考えてみると主人公が職業的に死化粧師である必然は別に無いような気もするが(警官でも医者でもいいじゃねえの)、監督が言うには先に死化粧師というプロットがありきということだったらしい。

化粧師役の謝欣穎はひっつめ髪で眼鏡のキャリアガールと思い出の中の女子高生の二役で、なかなかその年齢差も上手く演じ分けられていて魅力もある。スーパーモデルの隋棠は美人は美人だが日本の女優のYOUっぽい顔立ちでいまいち好みではないけど、二人の女同士のラブシーンは美しいし、彼女たちが逢う瀬を重ねる台中郊外だろうか、人気のない送電線のある原っぱの空が広い光景もなかなかいい。
ストーリー的には平板な感じでせっかくの死化粧師というプロットも、まあテレビドラマの「科捜研の女」の域を出ないが個人的には十分楽しめる作品だった。

しかし『運命の死化粧師』って日本語タイトル、もう少し考えてくれよといいたくなる。

2011年10月9日日曜日

週間呑みアルキスト9.19~10.9


●9月19日
休日ではあるが翌日にクライアントの会議があるため、資料作成で夕方からライターSZ嬢、TM嬢と打ち合わせ。終了後、神保町界隈はやっていない店が多いので新宿三丁目に移動して居酒屋『かり屋』にて食事しながら打ち合わせの続き。BGMが昭和歌謡なので打ち合わせもいつしか懐かし話へ。

●9月21日
ロンドン五輪予選U-22日本代表戦を事務所にてテレビ観戦。圧倒的にポゼッションをとりゲームを支配するが、なかなか得点できずにいいらいらさせられる。ハーフタイムに隣の『明治屋2nd』に行って、生ビールを一杯。なんとなくスタジアムにいる雰囲気。平日の会社観戦はこのパターンが定着しそう。

●9月22日
かつて職場を共にしていたKCG社の後輩HR氏の音頭で、K社グループ内のAG大学OB会が開催の運びとなり、当方はK社自体もすでにOBになってしまっているにもかかわらずお声掛けいただいた。会場は神楽坂の会席『桃仙郷』。ワセダのようにあまりメディアに人材を輩出する学校ではないので、何人くらい集まるのか案じていたのだが9人ほど参集し思わぬ盛会に驚く。確か彼も、あの娘もと手繰っていったのだが、声がけを広げればまだまだ集まりそうな勢いである。最近の教養課程の郊外キャンパスとかは知らない世代なので若い連中と話題が食い違うのもいたし方が無いところだが、共通の話題の学食話ではやはり盛り上がる。〆のカレッジソングこそ歌わなかったが、久々に昔を思い出して楽しい一夜となった。皆さん次回も是非ということで年2回はやりましょうと約束して散会。台湾時代の仲間だった歳の近いTM氏と昔K社時代によく顔を出した小料理屋『麦』で軽い2次会。

●9月27日
FK誌の取材で秩父・三峯神社へ日帰り出張。カメラマンYD氏の車に同乗しての道行きだけに一杯というわけには行かないのが玉に瑕だが、こういう地方周りはやはり土地土地の美味いものが楽しみとなる。ということで取材後、神社の参道前にある『山麓亭お犬茶屋』にて蕎麦定食をいただく。蕎麦は細麺だがこしがあって美味い。山菜ごはんと甘く煮た肉のようなものが付け合せてあったので鹿や猪の類かと思って訊いてみると、すべて大豆などを使用した菜食だそうである。お犬茶屋の由来はもちろん三峯神社が山岳神社で狼を祭っていることからであろう。

●9月29日
いつものようにKJ氏が事務所に顔を出したので近所のダイニングバー『エスペリア』に食事へ。最近はこちらが忙しいこともあってKJ氏も軽くやってすぐ帰ります、と断ってから呑みだすのでこちらも気が楽だ。KJ氏にとってみれば大変な自制なので気の毒になるが戻って仕事をする身としては仕方がない。それでもこちらが1杯だけビールを呑む間に、ウーロンハイを数杯を呑んではいたのだが、不完全燃焼のまま引き上げてもらい事なきを得る。

●10月1日
WBC世界スーパーバンタム級王者・西岡利晃が、米ラスベガスで防衛戦。しかも最強の挑戦者ラファエル・マルケスとの対戦ということで、ワインを買い込んでテレビ観戦。お互い激しいファイトで一進一退の熱戦になり手に汗握る展開にワインを注ぐ手も止りがち。冷静に、バリエーションを交えた西岡が徐々にペースをつかみ見事判定で7度目の防衛。歴代最高齢防衛でなおかつ海外での世界王座防衛も日本ボクシング史上初の快挙である。ボクシングの面白さ素晴らしさを堪能した一夜となった。

●10月4日
現在進行中のAU誌の取材に関してK社の後輩TG氏にアドバイスを求めるため飯田橋へ。お礼に食事でもと誘ったが生憎予定があるということでまたの機会ということに。しばらく行っていなかった神楽坂小路の信州そば
『志な乃』へ。蕎麦とうどんのボリューム満点のざる合盛りで一杯。

●10月5日
昔よく仕事をお願いしていたデザイナーTB嬢から連絡があり、かつての仲間内での飲み会を開催。実は今年の3.11にやる予定だったのだが震災でお流れになったので改めて召集がかかったという次第。しのつく雨の中新宿三丁目の『バクライ』にかつてのTW誌の編集部員KJ氏、SZ氏をはじめデザイナーKM氏、ライターKM氏ら総勢6名が集合。思い出話や近況報告に花が咲いた。

●10月7日
ワールドカップ予選を前にザックジャパンの調整試合である対ベトナム戦を事務所でテレビ観戦。力に差があると思ったベトナムだったが気合が入った健闘振りで日本代表を1失点に食い止める。ベトナムの思わぬ奮戦と3-4-3のシステムや控えの選手のチェックということもあったのではあるが、ちょっと前途に不安を感じさせる出来だったことは否めない。11日の本番のタジキスタン戦ではできるだけ得点を積んでの勝利を臨みたいのだが。この日もハーフタイムに『明治屋2nd』で前例に倣って競技場気分でアルコール補給。こりゃいいや。

●10月8日
連休初日の土曜日だが出社して原稿描きと思ったが、外では明大の創立記念イベントのパレードとかが開催されていてなかなか落ち着かず仕事がはかどらない。帰り道で途中下車し新宿2丁目『t’s Bar』へ。

2011年10月8日土曜日

東京の中華街


本日は会社のそばの愛全公園から明治大学まで、ドラゴンダンス、ライオンダンスのパレードが行われた。明治大学130周年企画の一環のイベントだが、地元神保町とのコラボで中華学校の生徒さん達が中心になってドラと太鼓を打ちならしつつ靖国通りをきらびやかに練り歩き、道行く人たちも時ならぬお祭り騒ぎに足を止めていた。
なぜにライオンダンスかというと、神保町は明治時代以降、中国人留学生の多くが寄宿し大学に学んだということで、漢陽楼、新世界菜館、揚子江飯店など中華料理の老舗も多く、元々は東京のチャイナタウンという趣であったということから、明治大学、地元商店街の企画として執り行われたそうである。
スタート地点の愛全公園も、いまやサラリーマンのたむろする喫煙所と化して終日煙っている場所で、たばこを吸わない身としてはほとんど息を止めて小走りに通り過ぎる場所なのだが、かつてこの場所に予備校があって若き日の周恩来がそこに通っていた由緒ある歴史を持っているそうである。

池袋では中華街構想に対しての賛否で大もめにもめているとの報道があったが、確かに不法滞在者や偽装留学者がたむろすることからコミュニティ化してしまった繁華街を中華街と呼ぶのは無理があろうかと思うが、神保町を東京中華街と規定して町おこしを図るのもそう悪いことではないかもしれない。今回は表通りのパレードだけだったが、ほこ天が可能なさくら通りやすずらん通りを使って旧正月や、端午節、中秋節とかやれば毎年のイベントとして発展するのではないかと思うのだが。

2011年9月23日金曜日

旅は青春を形づくる


最近、一時の悲惨な締め切り地獄からはようやく脱し、次回の入稿までのほんのわずかな間だが時間が空くようになってきた。せっかく送ってもらっているマスコミ試写状もなるべく行くようにしなければと思い、内容に興味がある無しに関わらず観に行くように心がけているので、ここのところ映画を観に行く回数が増えた。
昨日は、映画評論家のED氏が自ら起こしている配給会社の作品『僕たちのバイシクル・ロード』というドキュメンタリー映画を鑑賞。
大学を出たばかりの英国の青年2人が(いとこ同士)、決められた人生を決められたように生きることに疑問を持ち、とにかく世界を見てやろうと自転車による大陸横断旅行に挑戦する。結果、彼らの旅は900日におよび南極含む7大陸を走破する。映画は彼ら自身の手によってハンディカメラで記録された映像を編集したものだが、当然旅は難行苦行が待ち受けていて、中国の悪路や山間部、ラオスからシンガポールに抜けるあたりが最悪の事態に次々に直面するのだが、この2人のポジティブな心持が(というよりあまり深く考えていない軽薄さを感じてしまうのだが)、襲いかかる危機的状況をことごとく乗り越えてしまうのである。
世界7大陸というけど、途中列車に乗ったり、船に乗ったりで、意外と拍子抜けしてしまうのだが、それでもやれって言われても普通の人ならやれないくらいの旅の内容ではある。

自分が若いころも小田実の『何でも見てやろう』とか五木寛之『青年は荒野をめざす』とかに夢中になったもので、いつかは海外へ冒険の旅に出たいものだと世界地図を眺めながらよく夢想した。ランボーが書いた通り“旅は青春を形づくる”というように世界を旅することは若者の特権であると思う。実際、かつては世界中どこに行っても日本の青年がバックパックを背負って放浪していた気がする。
この映画の若者たちも全然肩ひじ張らないところが今風なのだろうが、自分たちの生を確認すべく時間を旅に費やすのである。その行為自体はもう若くなくなってしまった自分に憐憫をかんじつつ、共感せざるを得ない。

ところが最近の日本の若者に照らし合わせてみれば、海外に出てつぶさに何でも見てやろうなんて連中は少なくなったとよく言われる。確かに変に小利口になったというか、こういうバカげた挑戦に熱くなってしまうような連中はごく少数になったのかもしれない。小さな会社の小品ゆえ、かかる小屋もロードショーとはいえ東京都写真美術館ホールと銀座シネパトスというから、とても大勢の人の目に触れるような作品ではないかもしれないが、世界的にすっかり目立たなくなってしまった「日本の若者」には是非少しでも多く観てもらいたいと思うのだが。

2011年9月20日火曜日

週間呑みアルキスト8.29~9.18


●8月30日
KJ氏来社。AM誌の入稿作業があるためあまり遅くならないという条件で、近所の蕎麦屋『侘助』で軽く一杯。話題は今週から始まるなでしこジャパンのロンドン五輪予選。これだけのブームになるのなら臨時増刊号をどこかの雑誌で作れなかったかと、KJ氏はさかんに悔やむが、どの雑誌でもこれだけのブームになるなんて予想すら出来なかったわけで、機動力のある新聞社系かサッカー専門誌以外は実際難しいはずである。しかも通常から彼女たちを地道に取材し続けてきたジャーナリストたち以外のにわか編集者が作ったとしてもとても良いものは出来まい。せいぜいこの週はテレビでの応援に徹するべきだろう。

●9月2日
お台場の局での会議の後、SM嬢と新橋の『ビーフン東』で食事。この日はザックジャパンのW杯予選北朝鮮との初戦があるため時間を気にしつつ早めに切り上げ、事務所に戻ってテレビ観戦を決め込む。なかなか点が取れずにいらだっていたがロスタイムでの吉田麻也の一発でからくも勝ち点3をもぎ取る。さっそく『明治屋2nd』にて祝杯。

●9月5日
事務所でなでしこジャパンのオーストラリア戦を見ていたら編集者のKN氏から呑みのお誘い。試合終了まで見届けた後、新宿三丁目の居酒屋『かり屋』で落ち合う。KN氏は近々、中国東北部旧満州を旅して回るとか。満州は自分としてもいつかは行きたいと思っていた地。なんだか先を越されたようで悔しいやらうらやましいやら。

●9月7日
D印刷のF部長、H氏の接待で、水道橋の隠れ家的洋食堂の『アンチヘブリンガン』でT出版O社長を交えて会食。D印刷のお二人はデジタルコンテンツ担当で電子出版の実行部門。アイデアだしという意味の強い食事開だったがなかなか有意義に意見交換が出来たと思う。これからの出版を考えれば当方のようなアナログ男でもうかうかしていられない。

●9月8日
なでしこジャパンの対北朝鮮戦の大一番を事務所でTV観戦した後、飯田橋の居酒屋『無花果』で東北転勤になるかつての仕事仲間だったTM銀行KT君を励ます会へ。以前勤務していた出版社では新規事業の立ち上げ部門に何人か銀行から若手行員が出向していて、その縁が今も続いているのだ。KT君も東北の復興のための中小企業への融資業務のためにかの地に向かうそうである。どうか融資のハードルを上げずに東北のために身を粉にして働いてきて欲しいと心から願う。

●9月9日
世界陸上大邱大会から帰国したスポーツカメラマンKG氏の慰労会で四谷三栄町の『徒歩徒歩亭』へ。四谷の名店『こうや』の系列だけに料理のほうの味は確か。2次会はいつものコースで四谷一丁目の『3Circle』で〆の一杯。

●9月10日
ラグビーシーズン開幕。母校の応援で久々の秩父宮観戦。この日はニュージーランドで開催中のW杯で日本の初戦となるフランス戦が行われるので、秩父宮のスタンドは急遽パブリックビューイングの会場へと鞍替えしファンにとってはうれしいダブルヘッダー。試合終了後事務所に立ち寄ると『明治屋2nd』のマスターご夫婦が店内掃除をやっていたので挨拶を交わすと夕食に誘われ『上海美食 酔仙飯店』で食事会。

●9月15日
帰り際『明治屋2nd』に立ち寄って呑んでいると、仕事が一段落したと向かいのデザイン事務所のTake氏がふらりと現れる。しばらくするとまたまた近所のデザイン事務所のRKさんも久しぶりで姿を見せたので同席(といっても立ち飲みだが)することに。話はついつい出版業界の不景気の話題へとなるのだが、それでも楽しそうなお二人を見ていて、こちらももう少し頑張らねばと気を入れなおす。

●9月16日
この日も帰り際新宿三丁目で下車して『T's Bar』へ。一杯飲んで帰るつもりだったがカウンターで隣り合わせた常連さんの女性と話が弾んでしまい気がつけば深夜。入稿の合間の1週間だったが来月は再び怒涛のように忙しい日々が予想されつかの間の息抜きではある。

2011年9月19日月曜日

国際派スターを揃えたが


戦時下の上海謀略ものということでハリウッドメイド(正確にいえば米・日・中合作)の『シャンハイ』を鑑賞。監督はスウェーデン人のミカエル・ハフストローム。出演陣はジョン・キューザック、コン・リー、チョウ・ユンファ、渡辺謙、菊池稟子と当時の上海情勢そのままに国際的ではある。
豪華なキャストの合作映画というと大体が期待外れに終わるものだが、たまたま読んでいた本が「美貌のスパイ 鄭蘋茹」(光人社刊)という当時の上海を舞台にした話だったので、頭の中がすっかり1938年ごろの上海モードだったこともあって休日を利用して地元のシネコンに出向いたというわけである。

題材自体は確かにこんなに映画向きの時代はないし、魔都と呼ばれ頽廃とエキゾチズムのオールド上海は想像力をかきたてるに事欠かない。
ストーリーはアメリカの諜報員が殺害され、友人でもあった後任のジョン・キューザックがその真相を調べるため裏社会のボスであるチョウ・ユンファ、その妻コン・リーに接触するが、渡辺謙の日本軍大佐が殺害された工作員の愛人だった菊池稟子の居所を必死に捜索していることから、その陰に大きな軍事機密が絡んでいる事をつきとめるといったところだが、もちろんキューザックとコン・リーのラブ・ロマンスがあり、渡辺謙と菊池稟子もかつて何やらわけありだったというサイドストーリーも盛り込んである。

それなりに楽しくは観れたが、気になるのはユンファの組織が三合会のボスという設定。上海は青幇、紅幇の牙城で興中会の流れをくむ三合会は香港がフランチャイズ。藍衣社やCC団といった重慶政府側に立っていた上海裏社会は青幇が主流だったはず。日本軍に協力しているということで親日派の青幇・張嘯林がモデルとかなのか?。まあ広義に「幇」の総称で使ったということなのだろうが。ともあれ細かい突っ込みどころは多いのだが、なんだかサスペンスの中味と人間関係が表層的で、キューザックとコン・リーの絡みもあまりラブロマンスという香りがしないし、ましてや渡辺謙と菊池稟子の関係も恋愛関係にあった、もしくはかつては夫婦だったということを想起させるものの今ひとつよくわからない。映画としては冗長なものになってしまった感はぬぐえない。

またジョン・キューザックもなんだか父っちゃん坊やみたいで存在感が薄くロマンス向きではない。チョウ・ユンファも裏社会のボスっぽい凄身に欠けて、日本軍に利用される人の好いオヤジてな感じでちょっと可哀そうだ。唯一、軍人づいている渡辺謙の軍装はさすがキマッテいた。
『カサブランカ』ではないが、こういう題材で主役を張れる役者はなかなかいなくなってしまったというのが実感ではある。

2011年9月15日木曜日

やがて来たる者とは?


第二次大戦下の1944年。北イタリアの山村でナチによる住民大量虐殺事件“マルザボッドの虐殺”を描いたイタリア映画『やがて来たる者へ』(ジョルジョ・ディリッティ監督)を試写にて観賞。

イタリア国内では昨年ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(イタリアのアカデミー賞)16部門ノミネートという高い評価を得た作品だそうだ。
イタリア降伏後、かつての同盟国ドイツは征服者へと立場を変え、これに対抗するパルチザンとの戦いが恒常化する中で、住民の支援の中で山中に潜みゲリラ戦を展開する相手を根絶やしにするため、ナチは無差別に女性や子供、老人たちを含む一般農民を殺戮する。映画はこの史実をある一家にフォーカスを当て、奇跡的に生き延びた少女の目を通して表現していく。
このように設定は準備されているが、つまるところドイツ軍が進駐、パルチザンが襲撃、ドイツ軍の報復は住民皆殺しへ向かう。ストーリーは言うなればその過程を追うだけのことである。

人民の海に潜む対ゲリラ戦で疲弊すると、必ず起こるのがこの手のジェノサイトである。日中戦争やベトナム戦争しかり、最近のアフガンやユーゴ、イラクでもこの図式は変わらない。戦争が起き、民衆のレジスタンスが始まると一般市民が往々にして犠牲になってしまう。こうした悲劇は現在に至るまで世界のどこかで繰り返し起きてきた。結局はこの映画の訴えるところも、戦争における人間の愚かなる行為、国家や思想の枠組みの中で敵対するものにはいくらでも残虐になれる、淡々とその事実だけを訴えているかのようだ。ラストは幼子の弟と共に生き延びた少女の哀切な歌声でフェードアウトする。標題の“やがて来たる者”は果たして何を指すのかこの歌声と共に色々な解釈を示唆するのである。

ストーリー性よりもドキュメンタリータッチで史実を掘り起こす。戦後イタリア映画の記念碑的作品であったロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』から60年。映画による戦争犯罪告発は世界の紛争地域、ナショナリズム、民族、宗教と益々複雑化する今日的状況が一向に歯止めがかからない状況を鑑みれば、こうした作品は作られ続けていくのだろうし、作り続けるべきなのだろう。

2011年9月10日土曜日

秩父宮


ラグビーシーズンの開幕を告げる、関東大学ラグビー対抗戦グループの秩父宮に、4年ぶりでわが母校が帰ってきた。オープニングマッチでいきなりの早稲田との対戦で、1部復帰の晴れ舞台として相手に不足はなさすぎ(笑)母校にとってはシーズンわずか1試合の秩父宮だが例年の楽しみだったので久しぶりに応援に駆け付けた。

この3シーズン2部に低迷したわが母校。校技であるラグビー部の復活を目指し、ここ何年かは高校日本代表の逸材も入部させたり積極的に補強を図り、昨シーズンは2部で圧倒的な優勝で入替戦も立教を下しての1部復帰であった。今年も花園で活躍した高校のスター選手が何人か加わり、こりゃ勝てないまでも早稲田に一泡吹かせるくらいのことはあるかも、と期待は膨らんでいたが、いざキックオフと同時に早稲田の鋭い突破になすすべもなく、トライの山を重ねられてしまった。

結果は12-69。軽くひねられてしまったという感じだ。FW戦で意地の2トライはしたものの、戦術眼も、テクニックも、激しさも、タックルもすべて明らかに点差以上に大きな差があった。やはり2部と1部の質の違いというか、やっているラグビーのすべてにおいて見劣りしてしまった。
それでも、久々の秩父宮で観る母校のジャージーは嬉しかったし、FW前3人が1年生という若い選手たちがこれから1部の戦いを重ねていく中でどれだけ伸びていくか楽しみでもある。
まあ、1部復帰即でいきなり勝てるとは思ってはいなかったが、点差は点差として次戦以降も頑張ってほしいと切に願う。

この日は日本ラグビー自体にとっても世界の壁に挑戦する日であった。青学×早稲田に続きニュージーランドで開幕したワールドカップの緒戦、日本対フランスがラグビーのメッカ・秩父宮のスクリーンでパブリックビューイングでの観戦イベントが開催されるため、大学の試合が終了した後も居残ってライブ中継を多くのラグビーファンとともに応援するお楽しみもあった。
日本はインターナショナルボードのこの強豪国に対して一歩も引かず魂の戦いを見せてくれた。後半、1時は21-25と追い上げ、場内を熱狂させた。これはひょっとしたら大変な歴史を目撃することになるかもしれないと思ったが、終了間際に体力が落ちたところで立て続けにトライを奪われ、終わって見れば21-47と大差をつけられてしまったのだが。

しかし、ラグビーはやはり面白い。最近はすっかりサッカーに興味の支軸が移ってしまったが、今日の秩父宮で過ごした1日は至福の時間でもあった。日本は次戦は大本命のオールブラックスとの対戦。母校は昨年度の覇者・帝京大戦との対戦である。
今年の秋はサッカーともども、ラグビーの結果でやきもきする日々が続きそうだ。

2011年9月7日水曜日

映画『東京オアシス』 - シネマトゥデイ


映画『東京オアシス』 - シネマトゥデイ
『マザーウォータ―』の小林佳奈監督、小林聡美主演の『東京オアシス』の試写に。
『かもめ食堂』以来の一連のプロジェクトで、ほんのりした時間の流れの中での逃避、再生へ向かう行程を3つのストーリーで静かに描いた抒情的な作品。正直言って自分的にはあまりドラマツルギーの無い90分余りの映像を観続けるのはちょっとしんどい。先日A誌の取材でインタビューした目黒シネマのM支配人が「当館が撮影場所に使われたんですよ」と熱く語られたため、確かにその映画館のシーンは興味深く観ることができたのだが…。
NODA・MAPで抜擢された新進女優の黒木華が知人の女性にあまりに似ていたのでそれなりに楽しめたが、まあ現在の疲れた女性の癒しにはいいのかも知れんが、どうもね。

2011年8月29日月曜日

指導者の資質


外国人からは短命に見え不思議といわれる日本の政権だが、我々にしてみれば悪夢のようだった菅直人政権が“やっと”ピリオドを打った。
とはいえ後継首相を民主党の5人の候補から選ばざるを得ない(まあ政権党に民主党を選んだ国民の問題ではあるが)のもハナから期待の持ちようもない。といっても他党であってもさして変わらないが。
個人的には馬渕澄夫元国交相がまだまともに見えたが、結局は民主党内派閥の力学で野田佳彦財務相と海江田万里経産相の決選投票の結果、野田に決まった。
少なくとも海江田や前野じゃなくてまだ良かった気もするが大連立や増税主義の野田でもってこの国難をリーダーシップをとりながら乗り切れるのかははなはだ疑問である。

今ちょうど読んでいたのが豊田穣の『平和交響楽』という戦後日本を舞台にした私小説だが、復員して新聞記者になったご本人の作家を目指す苦闘の物語と共に昭和20年代、30年代の政治社会の世相も解説しながらのドキュメンタリーともなっている。ちょうど保守合同から岸政権、池田政権、佐藤政権へと続く保守政治暗闘史も詳細に描かれていてそれがめちゃ面白い。登場する名前を見ても吉田茂を始め、鳩山一郎、石橋湛山、三木武吉、大野伴睦、河野一郎、藤山愛一郎、前尾繁三郎、愛知揆一、保利茂といったお歴々で池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘、福田赳夫といった連中が若手で登場するといった具合。こういった戦後政治の黒幕だった大物たちに比べて、今回の民主党の候補者たちの顔ぶれを見れば、本当に小粒感はいかんともしがたい。
もっともこの時代の政治が良かったかどうかは別として、リーダーとしての器量、国士たる気概という意味では比べるまでもないだろう。それとも単に自分が年をとったからそう思うだけなのか?

野田佳彦は54歳。自分より若い首相は初めてだが、60年代末から70年代初頭の激動の時代すら知らない松下政経塾あたりの出身者にいったい何を期待できるというのだろうか。「ノ―サイドにしましょう」はいいが次のチーム作りはどうなるのか、明確なビジョンも感じられないまま、国民が直接選べない指導者を仕方なしにまた頭に戴くことになったというだけのような気がしてならない。

週間呑みアルキスト8.8~8.28


●8月11日
フジテレビ発行のA誌の入稿作業、校正作業がダブルで続く毎日。深夜事務所で作業をしていたKJ氏とSM嬢と一段落したのを見計らって食事へ。界隈で遅くまで飲み食いできるということで白山通りの『ヴェジタリアン』へ。小学館はじめ同業者が夜食で集まってくる店だが、この日も深夜にもかかわらずそれらしき人たちで結構繁盛している。
そろそろ巷ではお盆休みということらしいが当方は土日含めて全く関係なしのフル稼働。

●8月12日
そろそろ夏季休業の店も出始めた神保町で唯一我々と変わらず商売を続けるのは中華系のお店。少しでも客が見込めれば営業するというのが一貫した彼らの態度であるようだ。事務所の近所での打ち合わせに出たついでに今までは行った事が無かった『華龍飯店』に入って見る。地下の店でよく判らなかったが意外や結構宴会もできるくらいの広さ。そこに客は一人きりでちょっと居づらい感じだったが、フロア担当の二人の小姐がいかにも留学生のバイトという感じで可愛らしい。下手な中国語で話しかけると嬉しそうに相手をしてくれちょっといい感じ。料理はまあまあだが、俄然またこようという気分になる。

●8月15日
PR誌のインタビュー撮影が週末にあるためあらかじめロケハンのため編集を助けてもらうAR嬢と谷中に向う。下町はとんと土地勘もなく、撮影場所の候補となっているカヤバ珈琲なる歴史建造物を利用したカフェの下見や、周辺の撮影ポイントなど見て回る。蒸し暑い日でちょっと歩くと汗が噴き出すが上野池之端方面に出ると、これまた古色蒼然とした日本家屋のうなぎの名店『伊豆栄梅川亭』の前を通りかかる。店を覗いていると女将と目があってしまい、ええいままよとビールの水分補給とうな重の栄養補給を決め込む。夕暮れ時の高台から見下ろす上野の景観もなかなか乙なもの。すっかり下町の旦那衆の気分。

●8月16日
お台場合衆国で混雑するフジテレビでA誌の会議。ちょっとした会議でも一日仕事になってしまうのでいささかうんざり。しかも会議は進捗状況を巡り紛糾。すっかり疲労困憊したKJ氏、SM嬢、TM嬢とともに混雑を避けてゆりかもめを豊洲方面に向かい、駅前の居酒屋『福田家』で軽く一杯。エンジンがかかってしまって例によって腰を据えてしまったKJ氏を何とか説き伏せて早々に退散。社に戻ってやることは山積なのでだらだら飲んでる暇はないちゅーの。

●8月19日
A誌の校了で大わらわな中、PR誌の別仕事でコラムニストの泉麻人氏のインタビュー&撮影。先だってロケハンしたこともあって雨が降ったりやんだりの悪コンディションだったが比較的スムースに進行する。泉氏とは久しぶりだったので取材終了後呑みに誘われ、A誌の校了作業を放りだし(一時中断し)湯島方面に向かう。泉氏が手回し良く予約を入れていた居酒屋の名店『シンスケ』で再会を祝して乾杯。A誌の進行でやいのやいの確認の電話が入り落ち着いて話もできなかったが、思い出話を肴に楽しい時間を過ごすことができた。湯島の『ミュージックバー 道』に席を移し軽く〆た後、仕方なく大わらわの校了作業の待つ事務所に戻る。

●8月20日
朝までかかって校了し始発で帰宅。しばし泥のように眠った後午後から再び事務所に追加修正の処理作業に向かうが、おおむね大きな混乱もなくなんとか印刷所へ最終データを送るスタンバイを整える。帰り際久しぶりに新宿で途中下車、『T’s Bar』、『bura』と軽く回って疲弊した心身を弛緩させる。

●8月21日
最終確認作業で日曜出社。フジテレビからの緊急訂正に備えるが、この日は韓国押し抗議の大デモの日でそれどころじゃないのか、連絡は皆無。Ustreamでくだんのデモの様子を見ていたが、我々の時代のデモとすっかり様変わりしていて平和そのもの。まあこれでは自己満足というか抗議される側はへでもないな。荻窪に回り先輩がやっている『寄港地』で食事をとって帰還。

●8月22日
A誌を下版。あとは印刷を待つのみ。仕事に関わったSM嬢、TM嬢が念校をフジに届けた後打ち上げに来社。『東京アチコーコー』で仕事を気にせずに心おきなく呑む。『明治屋2nd』にハシゴして終電に乗るが乗り過ごし笹塚からタクシー帰還のハメに。

●8月26日
A誌無事刷り上がり、発送作業。わずか60頁弱の雑誌だがこの1カ月さんざん振り回された。TM嬢と白山通りの『台南坦仔麺』で食事。一仕事終えまた台湾に遊びに行きたいところだが貧乏暇なし、次に控えるPR誌の入稿作業がそろそろ佳境に入りだした。いつになったら楽になるのかため息つきながら水っぽい台湾啤酒の壜を空けていく。

2011年8月11日木曜日

3-0!気分はサイコー


米株安でリーマンショック以来、回復の兆しが見えていた投資信託の基準価格がまたぞろ大幅ダウン。
仕事は仕事で身動きできず、
思い入れある人たちの訃報相次ぐ中、昨日も西鉄野武士軍団の生き残りだった河野昭修氏の逝去の報。
辞めない首相、情けない政権、収拾のメドすら付かない福島原発。
鬱陵島の入国拒否問題。
しかも毎日続くクソ暑さ!

やってられないことばかりで最悪の気分の中

わがザックジャパンに快哉を叫んだ、昨夜の韓国戦。
3対0!
3対0!
3対0!
まさにちんちんにしてやったぜ。一気に憂さが晴れた完璧な勝利。あ~気分良し!

香川、本田、内田、長谷部、清武、忠成!
うらやましいか!うらやましいだろう!テーハンミングクよ

さあ、こんなところで優越感に浸ってる場合じゃないな、次はW杯3次予選。なでしこ戴冠に続け、今度は男女で国民栄誉賞だ!

2011年8月8日月曜日

週間呑みアルキスト7.18~8.7


●7月18日
なでしこ優勝の余韻さめやらぬ中、日本代表のメキシコ五輪戦士だった森孝慈さんの訃報。長沼監督はじめ渡辺正、湯口、宮本輝、宮本征、八重樫氏とすでに多くのメンバーが鬼籍に入ってしまった。日本サッカー史に燦然と輝く偉業達成の日を見届けたかのような森さんの死に寂しさが募る。休日だったが打ち合わせのため出社。BD誌のNMさんが来社し入稿の日程等を調整した後食事へ。休日の神保町で閉まっている店が多かったが三省堂はさすがに営業しているだろうと踏んで地下のビアホール『放心亭』へ。

●7月19日
雑誌で名画座の取材をして者に戻ると原田芳雄の訃報。ニュースで観た遺作『大鹿村騒動記』舞台あいさつでの姿が痛々しい。『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』『赤い鳥逃げた?』『竜馬暗殺』『祭りの準備』…、青春という気恥かしい季節に観たスクリーンのむこうでいつもカッコ良かった。仕事終了後『明治屋2nd』に立ち寄るが、なでしこ優勝で嬉しそうに話しかけてくるマスターに相槌合わせながら、原田を偲び酔えない酒を呑む。

●7月22日
ドーハの悲劇以来のサッカー仲間のみなさんがなでしこジャパンの祝勝会を開催。歴史の舞台となったドイツに敬意を表して赤坂のドイツレストラン『アイヒェンプラッツ』を会場に選ぶのもサッカー観戦の楽しさを知る歴戦の勇士たちらしい。バイツェンビールはじめドイツの各種のビールが楽しめ、大いに呑み食べ盛り上がる。山積する仕事を放り出しての参戦だったが久々楽しい一夜をすごす。

●7月23日
練馬区の成人病保健指導でメタボ対策の面接。食生活と酒量を朝からこってり絞られる。出社後、その解放感からつい精のつくものをと駿河台下の『寿々喜』にてうな丼を所望。下の根も乾かぬうちからこってりランチ、これでは内臓脂肪が落ちるわけもない。


●7月24日
アナログ停波というテレビ史的には歴史的な日。秋葉原に取材したが特に何事も起こるわけでもなく平穏のうちに地デジ化完了。事務所に戻りついでに買った『肉の万世』のカツサンドをつまみにビールを呑む。中国温州にて高速鉄道事故発生。誇らしげだった中国の独自技術の結末に不謹慎ながら嗤わせてもらう。台湾の新幹線導入時に日本とオランダの発注合戦で、一度は価格でオランダに落ちたが運行システムのノウハウを考え、日本に切り替えた台湾の英断を思い出す。

●7月25日
1日に開かれた高校マスコミ会の幹事反省会を池袋西口の『ライオン』にて開催。事務所に戻って仕事をするつもりで出たが、呑んでしまった後では帰宅途中の池袋からは戻る気も失せ、ままよと家路につく。

●7月27日
またまた悲報、今度は伊良部秀輝だと。ヒーローの輝かしき日々と舞台から降りた後の孤独。打ち合わせにやってきたKJ氏とTM嬢、SM嬢と神保町『エスぺリア』で食事。仕事も残っているしあまりはしゃぐ気分にもなれず一人事務所に戻る。

●8月1日
KJ氏、TM嬢と後輩のデザイン事務所を経営するIG氏と打ち合わせ。神保町『ピアンタ』にて会食後、『明治屋2nd』へ。IG氏の事務所は新宿山吹町、めしや呑みの場に苦労しているらしく飲食店の多い神保町はうらやましいという。7年もこの地にいる当方にすれば少し飽きてきたのだが、確かに他の地にといわれてもここより便利なところもそうそうないのは確かかもしれない。

●8月5日
訃報相次ぐ。2日に練習中に倒れて心肺停止のまま信州大病院集中治療室に運ばれていた元日本代表の松田直樹選手がすべてのサッカーファンの祈りも届かず34歳の若さで4日に逝去。打ち合わせで事務所に来ていたKJ氏、TM嬢と九段下の中華料理『東方園』で食事をしていたが、店のテレビでも盛んに追悼のニュース特集が放送されていて気分がすぐれぬまま、2次会の誘いを断り事務所に一人戻る。 死者を偲んで呑みたい気もするが呑んでもいられない、晴れぬ気分は当分続きそうだ。

2011年8月7日日曜日

松田直樹の死



ここ2~3日、仕事がクソ忙しいのにもかかわらず、何んとなく身が入らない。
やらなきゃならない締め切り抱えて、土日も事務所に出てきてはいるがなかなか集中して机に向かえない。



7月は原田芳雄、森孝慈、伊良部秀輝、と思い入れのある人の訃報が続いたがやはり松田直樹の急死が心に引っかかる。気分がもやっている。10年あまり前に脳出血で倒れ急逝した会社の後輩(彼もサッカー仲間だった)の事を思い出してしまう。倒れた後、再びの回復を願いつつもその祈りは無情にも通じなかったのも同じだった。

松田がまだあどけなかったU-17ワールドカップ東京大会、仕事を抜け出して国立に日参した。その亡くなった後輩とスタジアムで席を並べて観戦したのも昨日のように覚えている。
財前 宮本 中田 船越、当時輝かしいメンバーの中でもひときわ目立っていたように思う。
アトランタ五輪のブラジル戦、シドニー五輪、日韓ワールドカップ。その後も日本サッカーの右肩上がりの季節に、松田は速く、強く、ピッチで躍動していた。

あのドイツW杯での苦い豪州戦。松田がいれば…少なくともあんな結果ではなかったと今でも信じる。

サッカーのような激しい競技では心臓の疾患はかなりのリスクを負う、最近でもマルク・ヴィヴィアン・フォエ(2003年6月26日)ミクロシュ・フェヘール(2004年1月25日)アントニオ・プエルタ(2007年8月28日)フィル・オドネル(2007年12月29日)ダニエル・ハルケ(2009年8月8日)らが同じように斃れた。
なぜこの教訓が生かせなかったのか。そもそもなぜ松田なのか?

どんなに身体能力が高くても、どんなに鋼のように身体を鍛えても、心臓そのものを不滅にはできない。
人間の無力と生命のはかなさを改めて感じさせる。

せめて、この悲劇が、選手たちの健康管理という意味で警鐘を鳴らし、万が一の救急救命の体制を万全とさせるためのきっかけとなればと願わざるを得ない。

2011年7月18日月曜日

週間呑みアルキスト6.27~7.17


●6月27日
ドイツで開催される女子ワールドカップでわれらがなでしこジャパンが初登場。ということで『明治屋2nd』で時間をつぶしつつキックオフに合わせて帰宅。地元のスーパーでニュージーランド戦にちなんでかの地のワインを探したが見当たらなかったのでオーストラリア産のワインで代用して家呑み観戦。ちょっと危ない初戦だったが永里と宮間の芸術的なFKで2-1で初戦をものにする。

●6月29日
M社の単行本の仕事をお願いしていた編集のHZ嬢来社で神保町のシンガポールレストラン『マカン』で食事。定番の海南鶏飯をオーダーするが、シンガ駐在時代のマンダリンホテル『チャターボックス』の高級海南鶏飯が懐かしい。シンガポールも何年もご無沙汰なので行ってみたいのだがなかなか機会が無い。秋のF1当たりがチャンスか?

●7月1日
出身高校のマスコミ界で働くOBたちの親睦会の年に一度の定例会が日比谷『松本楼』にて開催。今年は自分より若い参加者が増えてなかなかの盛会。いままで会では一番下っ端だったので永く幹事をやらされているがそろそろバトンタッチさせてもらってもと思う。散会後銀座の居酒屋『四万十』で二次会。帰って翌日の旅行準備に追われながら、なでしこ対メキシコ戦。沢、貫録のハットトリック。

●7月2日
この日から台湾へ。初めて羽田ー松山便を利用するが凄く便利になった。CIの午後便だったが余裕で夕食タイムに到着。旧知の在台日本人デザイナーKS氏を呼び出し永康街のPUB『CUBE』で食事方々最近の動静を聴く。KS氏ももう滞在10年だがフリーランスだとやはり生活は大変で、士林の日本料理屋でバイトしているとか。次回はその店を訪問することを約す。

●7月3日
遅い朝食と昼食を兼ねて『鼎泰豊』と並ぶ名店『高記』で上海鐡鍋生煎包と原盅土鶏湯、炒空心采。鐡鍋に10個つまった煎包ですっかり満腹。夜は今回の訪台の目的だった台北市田徑場にてのワールドカップ予選「台湾×マレーシア」戦を観に行く。サッカーはこの国ではマイナースポーツではあるが昨今隣国の日本代表人気などのニュースも相まってか台湾史上最高ともいえる2万近くの観衆を集めた。いつにない大観衆で台湾中華代表隊も健闘し、この日のゲームを3-2でものにしたがアウェイゴール差で惜敗。試合終了後、会場向かいの白人御用達のスポーツバー『ダンライアン』で食事。試合から流れてきた多くの在台白人と盛り上がったが、主役の台湾人客がいないのも変といえば変。観戦後こういう場所で呑む楽しさはまだまだ理解されないかも。珍しくマンUファンというバーテンダーの女性と仲良くなる余禄もあり楽しい一夜と相成る。

●7月4日
台湾でのオフ日。茶芸館でまったりしたあと誠品書店や微風広場などをぶらつく。元部下が経営しているというカフェを訪ねたり炎天下歩いてぐったり。夕食は『度小月』にて肉魯飯、坦仔麺、小采2品。夜は林森北路のBarで軽呑みしたあとマッサージ屋に向かう。途中、晶華酒店(リージェントホテル)で来台中のレディーガガを目撃!かっこいい。

●7月5日
神保町『揚子江飯店』で元祖冷やし中華で一杯引っかけた後、なでしこ戦を家観戦。しかし高さのイングランドに手痛い1敗。これでグループ2位抜けで次戦は優勝候補筆頭の地元ドイツとの対戦に回ってしまった。

●7月6日
ひさしぶりにKJ氏来社。神保町の蕎麦屋『静邨』で一杯。この日は仕事の宿題があるためKJ氏の誘いを断ち切り一軒で会社に戻る。ずるずる深夜までというKJ氏の術中から何とか逃れる。

●7月7日
向かいのデザイン事務所のTAKEさんのところへUJ誌のNN編集長が来ていて食事に誘われる。ちょっと遅い食事だったので白山通りの深夜まで営業しているレストラン『ヴェジタリアン』へ。ヴェジタリアンといっても酒もあれば肉もある。TAKEさんご推奨の宮城の清酒「日高見」は残念ながら売り切れ。ちょいと場所は離れるが秋田の酒で東北支援。

●7月9日
なでしこ西ドイツ戦観戦のため、珍しく土曜日営業をしていた『明治屋2nd』で軽呑みした後、速攻で帰宅。モーゼルの白ワインを準備し朝までテレビ観戦。延長の激戦の末、丸山の値千金の一発で強敵ドイツを下す。これでベスト4進出だ。

●7月11日
女性漫画家のKHさんが来社。水道橋近くまで歩いて、隠れ家風の食堂『アンチヘブリンガン』で会食。ヘブリンガンは小津映画に出てきたクスリの名前からとったとか。ワインの酔いでついつい“語って”しまい終電ぎりぎりになってしまう。

●7月12日
編集のSM嬢が新しいライター紹介ということで元K社の後輩にあたるTM嬢を連れて来社。打ち合わせの後、先日行って気に入った『鉄火炉火』で食事。今月はばかばか食費がかかっている。意気投合したTM嬢と帰り道が同じ方面なので荻窪経由で一緒に帰宅、ついでにK社の先輩がやっている店『寄港地』に寄り道停泊。

●7月13日
なでしこ準決勝でこれまた強豪スウェーデンの高い壁に挑戦。先制されたものの3-1の逆転勝ち。強い。あとひとつ。日米決戦はひょっとしてひょっとするかも。

●7月14日
K社の後輩社員だったTG氏に、仕事の下調べで彼の専門だったテレビ行政の話を聴きに行く。現在は内勤で監査の仕事をしているらしいが、こういう専門知識が活かされないのは社にとっても損失だと思うのだが。組織というものはこういう人事を平気でやってしまうものだ。陽が落ちてもなかなか気温は下がらない。飯田橋の『尾張屋』できしめんをすすりながら思わずビールを一杯。

●7月17日
なでしこ決勝。夕食時にワインを一本空けて早々に寝込んで早朝のキックオフに目覚ましをかける。パワフルなアメリカに圧倒的に押されながらも何とか耐えに耐え、2たび先行され追いつく展開。PK戦で見事世界一の座をつかむ。日本サッカーの歴史を作った素晴らしい朝。気分良し!

2011年7月14日木曜日

旅ごころをかきたてるガイド本2冊


7月発売で2冊の書籍の編集に関わりました。
一冊目は7月2日発売になった『とうとうバイクで北米大陸横断しちゃいました クニイ的地球の走り方』(産経新聞出版 1575円)。女性ライダーでエッセイストの国井律子さんが2009年にHONDA RX230でシアトル→ニューヨーク7300キロを1カ月かけて走破した旅の記録。バイクの送り方からルート選択、経費、食事情報とこれを読めば自分が一緒に旅している気分になれるとともに、実際自分で走って見ようと思い立つ人には参考になるガイドブック的な役割も。実際の編集作業はI社のNG氏におまかせでしたが、小柄で美人な国井さんとの何回かの打ち合わせはなかなか楽しく、本の出来も楽しくかつ詳細で旅本としてもよくできているのではないかと思っております。




もう一冊は7月10日発売『時代を旅する 江戸城歴史探訪ルートガイド』(メイツ出版 1680円)。江戸城の内濠外濠の歴史遺構を巡る“ぶらタモリ”的ガイドブック。一度は企画をお願いした監修者が降板したり震災もあってあきらめかけたもののGWの前後に集中して作業、苦労しながら何とか形にした労作です。予算の関係上一部自分でも写真取材をしたりしましたが実際紹介箇所を回って意外と知っていそうで知らなかった皇居の歴史のいわれに驚いたり、うんちくを楽しんだりもしました。出来上がって見ると気軽に都心散歩をする際のおともにうってつけのものになったように思います。

是非本屋さんでお手に取って見てください。

2011年7月6日水曜日

加油!中華代表隊


週末、久しぶり(1年半ぶり)に台湾に行ってきた。
今回は、酔狂にも中華足球隊(チャイニーズタイペイ代表)のブラジルワールドカップ予選の応援である。第2の故郷と勝手に思っている国の代表チームの試合である、これはいからいでかと思い立ってにわか球迷隊員(サポーター)とあいなった次第。

FIFAランキング165位の台湾にとっては、もうすでにワールドカップを目指す1次予選の挑戦がはじまっているのである。対戦相手は昨年のスズキカップ(東南アジア選手権)の覇者マレーシア、アジアの古豪である。ひいき目に見ても旗色が悪いのは明らかだ。なにせサッカーが好きだと言うと「サッカーは9人でやるんでしたっけ?」とマジに聞かれるような国である。自国のプロリーグでそれなりに熱狂するマレーシアはどうみたって明らかに格上である(といっても146位だが)。

6月29日にマレーシアのアウェイでファーストレグのオープニングマッチが行われ、わが中華代表隊は下馬評通り1-2で試合を落とした。それでもアウェイで1点取っての惜敗は大健闘だろう。貴重なのは敵地でもぎとったアウェイゴール1点(倍加算)である。先日の五輪予選での日本代表もあやうくこのアウェイゴール制でやられるところだった。
結果7月3日に行われるセカンドレグのホームでは1-0以上で勝てばマレーシアより総得点で上に行きめでたく1次予選は突破できる。ただし1点でも取られるととたんにハードルがぐんと上がるので何としてでも点は与えてはならないのは言うまでもない。

中華代表隊には満を持してこの日のために隠していた秘密兵器があった。ベルギーの1部リーグメヘレンでプレーする仏台混血のシャビエ・チェン(陳昌源)に急きょ国籍を与えて代表入りさせたのである。また香港リーグでプレーをする陳柏良、張涵とスペインリーグ2部サラマンカのユースに所属する周子軒という3人の「海外組」も呼び寄せ史上最強チームの構成をもくろんだ。果たしてその成果は上がるのか、サッカー不毛の国のけなげな挑戦に、もの好きな日本人サポのヴォルテージも上がる一方なのであった。

当日、キックオフ1時間前に主戦場である台北市田徑場には多くの台湾人青年が続々と集まっていた。皆この日のために代表スポンサーが配ったブルーの中華足球代表ユニを身にまとい、なかには青天白日旗を身体に巻き付けたウルトラスも散見する。女の子はなぜかメッシのレプリカやルーニ―のレプリカを着ている子もいる。なんだ、なんだ、けっこう隠れファンもいるんじゃねーか。バスケ脳しかないと思ってた連中だったが格好だけは一人前のフットボールの流儀に沿っているぜ。在台留学生を中心におなじみのタイガーカラ―のマレーシアサポもちらほら見受けられ、ここが台湾であることが信じられないような変わり映えである。それだけ、今回の代表歴代最強チームに多大な関心が集まっているのかもしれない。

台北市田徑場は2万5千キャパだが、入場無料とはいえすでに7割がたが埋まり、「中華隊!加油!」のコールが巻き起こっている。サッカーにこれだけ人が集まるのももちろん史上初であることは間違いない。

割れんばかりの拍手でゲームが始まったが、圧倒的な声援で完全アウェイのマレーシアは完全にビビりモード、というか慎重に引いて守っている。シャビエと陳柏良はさすがに存在感は大きく、またトラップとかパスの精度はお世辞にもうまいとは言えないが全員がエネルギッシュに走り回り、格上相手に試合を支配していて何度も好機を作る。しかしマレーシアの鋭いカウンターはやはり1日の長がある、開始4分でいきなりFKから先制弾を叩き込んだ。とられたらいけないのに~。はやくもこのゲームは3-1で勝たなければならなくなったぜ。一瞬気落ちした中華隊も気を取り直して再びシャビエ、陳柏良、張涵の3人を中心に気合が入ったプレーで攻めまくる。31分にマレーシアゴール前の混戦から張涵が押しこんで同点!ひょっとしたらひょっとするかもとわずかな期待が首をもたげ始める。
と、思ったのもつかのま前半40分にマレーシアのミドルが炸裂し、決定的な2点目が加わった。マレーシアは勝利を確信し喜びの輪が広がる。これで台湾は最低でも4-2にならなければならなくなってしまった。絶望的な2失点という事実が重く立ちふさがる。あ~あ…、場内も声が途切れため息が広がる。しかし、中華隊は何とか追いつこうと再び始まった大声援に煽られて精いっぱいのプレーが続く。そして終了間際ベトナム人主審の笛を味方につけラッキーなPKをもらい陳柏良が落ち着いて決め2-2の同点!となった。

あと2点! そして絶好のチャンスが後半17分に訪れる。中華隊の猛攻でエリア内で足がかかり再びゴール前でPKをもらったのだ。この天恵をキッカーの陳柏良はなんとはずしてしまう!こういうことだけはバッジョやジーコ並みだ。これで今度こそもうだめかと思ったが、この日の主審の虫の居所は相当マレーシアに対して悪かったらしく(けっこう遅延行為や不要なアピールが多かったからか)、後半30分になんと再びドリブルで持ち込んだ陳柏良がGKから足を払われPKをもらうという漫画のような幸運が訪れ、こんどはシャビエが慎重に決めた!3-2の大逆転!あと1点だ!


タイムアップのホイッスルが鳴ったとき両チーム全員が芝に倒れ込んだまま起き上がれなかった。この日の勝者は涙をのみ、敗者は薄氷の勝ち上がりで放心状態だった。
われらがチャイニーズ・タイペイ代表は、史上最高のゲームで、史上最大の観衆の前で、静かにそして早くもワールドカップの舞台に幕が閉ざされた。あのPKが決まっていれば、ロスタイムがもう少し長ければ…、それでも精いっぱい力を出し切ったことに選手たちは満足し、観客もサッカーの醍醐味を生まれて初めて体感したのではないだろうか、この国にとっては何かが変わる1日になったことは間違いが無い。

帰り際、スタジアムの近くの外国人御用達のスポーツバーに立ち寄り、からからののどを潤す生ビールを所望した。ビールを注いでくれた眼鏡美人の女性バーテンダーが、ニコニコ笑いながら早口の中国語で話しかけてきた。
着ているリバプールFCのポロシャツについて何か言っているようだが聞き取れなかったので「我是日本人、請説慢慢」(ゆっくりしゃべって)と聞き返すと、英語で「リバプールのでしょ!でも残念ながら私はマンチェスターユナイテッドのファンなの」とのたまう。まあ仇敵のファンであることはこの際許そう。この国もすこしは変わったようなことは確かなようである。いや~、わざわざ日本からやってきたかいがあった。眼鏡美人がお代わりを促す。

「今日は台湾も頑張ったよ。で、仕事は何時までなの?」


前宣伝もばっちり。


新装なった台北田徑場(台北フィールド)収容2万5000。


中華隊サポ続々詰め掛ける


いままでどこにいた?隠れメッシファン


大フラッグも用意


足球でこんな大観衆初めて観た


大健闘した代表に大きな拍手