2013年10月28日月曜日

今年の東京国際映画祭鑑賞作品

今年の東京映画祭、たまたま仕事も暇だったのでいつものようにアジア映画中心に10本ほど観ることができた。期間中天気も悪く、なんだか例年以上に寒々しい印象。お祭り感がまったく感じられないのは残念。今は昔だが、一時の夕張映画祭が懐かしい。
で今回の鑑賞作品だが以下の通り。

1本目はハリウッドものの『パークランド―ケネディ暗殺、真実の4日間』(ピーター・ランデズマン監督/ザック・エフロン主演)。今年はケネディ暗殺から50年、JFKの遺児キャロライン・ケネディが駐日大使に赴任するモニュメンタルな年でもあるので、日本人にとっても1963年11月22日はとても忘れがたいのだが、その22日から4日間、実際の現場はどう動いたのかというドキュメンタリータッチの歴史再現映画である。これまでにも映画製作者の多くが挑戦してきた“真犯人はだれなのか?”という謎解きはまったく無く、あくまでもその時何が起こったのかを主眼においた作品である。緊急治療にあたった病院関係者の衝撃、犯人と目されたりー・ハ―ヴェイ・オズワルドの家族の苦悩、シークレットサービスとFBI、州警察の確執と責任回避工作、狙撃の瞬間をを撮影したアマチュアカメラマン、ザプルーダの困惑、などなど当事者たちの群像劇は当時のファッションや時代背景をうまく再現してあり、なかなか見ごたえはあった。当直医としてケネディの救命治療にあたった医師役のザック・エフロンが好演。













2本目は、英豪合作『レイルウェイ 運命の旅路』(ジョナサン・デブリツキー監督/コリン・ファース主演)。第2次大戦下、泰緬鉄道敷設工事に駆り出され虐待されたある英国軍捕虜が戦後深い心の傷を受けながら生きてきたが、当時の憲兵の生存を知り彼に会い向かい合うことでついには和解に至るまでの道のりを描く。これは実話をベースにしたもので以前この主人公であるエリック・ロマックスの著書を読んだことがある。映画ではコリン・ファースに加え、二コール・キッドマン、真田広之という豪華キャストということもあって、いまひとつリアリティにかけてしまったところもあるし、旧日本軍の一方的な戦争犯罪という視点はちょっと引っかかるものがあったが、役作り以上にコリン・ファース、二コール・キッドマンの中年期を迎えた枯れぶりが魅力的。原作同様KADOKAWAが配給、納得。










3本目はワールドフォーカス部門からタイ映画の『マリー・イズ・ハッピー』(ナワポン・タムロンラタナリット監督)。卒業をまじかに控えたタイの女子高校生の揺れる心情を描いた作品。実際の400本にもわたるツイッターのの文面とともにストーリーが進むちょっと実験的な試みが面白い。主役を演じる二人の女子高校生もだが、周囲大人たちがまたなんともいえないタイ独特のペースというか、良い味を出している。                 
                                                               










4本目もワールドフォーカス部門で香港中国合作の『激戦』(ダンテ・ラム監督)。ドンパチアクションには定評のある監督が選んだ素材がリング上のバトル。聞けば香港・マカオは現在総合格闘技MMAが大人気だそうで、監督自らもファンを自認、いつか撮りたかったテーマであったという。かつて香港で八百長で追放され借金まみれの元プロボクサー(ニック・チョン)と、親の破産で無一文となった青年(エディ・ポン)がともに一攫千金と、自らの尊厳、愛する者たちのためにマカオの過酷なリングに挑戦する話。金網デスマッチの格闘シーンはド迫力で手に汗握る、名アクション監督の面目躍如といえよう。またニック・チョンと触れ合う孤独な母子との人間ドラマも泣かせる。香港、中華圏で大ヒットしたのもうなずける、これぞエンタテインメント、今回観た作品中一番面白かった一本である。













5本目からは台湾電影ルネッサンスという特集。今年は5本の新作に加え、候孝賢はじめとした台湾ニューウェーブの記念碑的作品となったオムニバス映画『坊やの人形』(83年)が上映される。その初っ端の作品として鑑賞したのが『高雄ダンサー』(何文薫/黄宇哲監督)。台湾の女流舞踊家と韓国の絵描きという二人の初監督作。早大の安藤研究室が共同制作として加わっている。ストーリーは高雄を舞台に幼馴染の男女3人のほろ苦い青春ドラマ。高雄の風景は個人的にはなかなか良かったが、いかんせんアマチュアの制作陣だけに人物設定もいまひとつでストーリーもいまひとつこなれていない。残念ながら日本でいえば自主映画の域を出ない作品に終わった感がある。













6本目は『Together 甜.秘密』(許肇任監督)。17歳の男子高校生の目を通して描く、父、母、姉のそれぞれの恋愛をシニカル、かつ温かく見守るストーリー。この作品も新人監督の撮ったものだがかつて楊徳昌ら大物監督の助監督をつとめた人で42歳にして初監督という苦労人である。そのせいか、馬志翔、李千娜といった台湾のベテラン実力派俳優も多く出演し映画に花を添えている。それはいいとして作品のほうは男女間の心の機微や人物の輪郭表現がいま一つ甘く、まあこんなもんかなというくらいの印象度。















7本目は『27℃―世界一のパン』(林正盛監督)。『浮草人生』『台北ソリチュード』と意欲作を発表してきた監督が9年ぶりにメガホンをとった作品。2011年度の世界コンクールで優勝した台湾のパン職人の一代記を描くサクセスストーリー。台湾はパンが美味くなかったのが駐在時代の記憶だったのでここ何年かの台湾のパン文化の変化にびっくり。映画自体は台湾っぽいべタな熱血青春もので、9年のブランクを少し感じてしまう出来に終わっている 。ただパンの発酵シーンなどパンが焼きあがる過程を、ここ何年か劇映画を離れドキュメンタリーを制作していたという監督らしく、リアルかつドラマチックに表現しているところはさすが。台湾のパン文化が日本と密接に関係しているのも成程と思わせられた。













8本目は『熱帯魚』『ラブゴーゴー』の鬼才・陳玉勲監督のこれまた16年ぶりの作品『総舗師―メインシェフへの道』。伝説の料理人を父に持つ少女の借金返済と老夫婦から依頼された宴席料理復活のためアイアンシェフばりのコンクールに挑む話。台湾中華料理を題材にしたコメディだが、仕掛けはなかなか大掛かりで笑いのツボも抑えているものの、以前の作品であったようなペーソスや風刺は感ぜられず単なるドタバタに終始したのはちょっと残念。やはりこちらもブランクが長すぎたのかしら。















9本目は3年前の本映画祭で『4枚目の似顔絵』で衝撃を与えた鐘孟宏監督の新作『失魂』。二重人格障害で他人となってしまい、新たな人格が凶暴なサイコパスに変わってしまった息子と、霧深い山林の山小屋で向かい合う老父。血しぶき舞うサイコホラー作品であるが、最大の話題は70年代の香港のアクション大スター、王羽(ジミー・ウォング)の主演。しかも難しい心理描写が要求される老人の役を見事に演じていて、今年の台北電影節の最優秀男優賞に輝いたという。霧がかかる山深き景色は不気味かつ美しいカメラワークで描かれ、見ごたえある作品であった。いま一つの作品が多かった今回の特集の中では唯一異彩を放っていたといえよう。













そして10本目の鑑賞作品となったのが1983年制作の『坊やの人形』。台湾の人気作家黄春明の短編小説を呉念眞が脚本におこし、「坊やの人形」(候孝賢)「シャオチの帽子」(曽壮祥)「リンゴの味」(萬仁)の三監督によるオムニバス。60年代台湾の庶民たちの日々懸命に生きる姿を描いたもの。DVDで何回か観たし、「リンゴの味」は小説も読んでいたが、改めてスクリーンで観て、60年代台湾社会の風景に(80年代に撮ったものの)心打たれる。今回の映画祭での台湾の出品作の中で、この30年前の作品がやはり秀逸なのは、この作品の素晴らしさを物語るとともに現在の台湾映画界の低迷を(『海角七號』などの興行的な大ヒットはあるが)指示している感じがして残念。しょぼい(国際)映画祭の中でもこれまで楽しみにしていた台湾映画だけに、来年に期待するとしよう。

2013年10月14日月曜日

週間呑みアルキスト9.22~10.13


●9月24日
友人ED氏らと11月の連休を利用して台湾へ行く計画が持ち上がり、さっそく航空券の手配等に動く。台湾も2年ぶりだがもうずいぶんと行っていないような気がする。今回は高雄にも行くので、特に高雄の美味い店を確認すべく過去に集めたお店の名刺類を整理。早くも気分は六合夜市へ飛ぶ。

●9月26日
プロ野球楽天イーグルスが球団創設以来初優勝。ひとえに田中マー君の驚異的な活躍のおかげだろう。今季6月以降1軍の出番がなかった後輩の高須洋介内野手もさすがに引退なんだろうか?数少ない近鉄の生え抜き選手だったが所属チームの優勝を見届けて引退というのもまあ引き際だろう。深夜のスポーツニュースをみながらこちらも缶ビールで祝福することに。

●9月27日
会社終りに隣の『明治屋2nd』に立ち寄った後に新宿三丁目で途中下車し『t’s bar』にひっかかる。金曜日の最終電車の混雑を避けるべく早々に退散。

●9月28日
かつて所属していたK社の先輩TN氏から仕事の打診あり。この先輩からの連絡は訃報が多かったので一瞬緊張したが仕事の話だったのでほっとするやら嬉しいやら。ただし、K社が現在推進中のデジタル化の校正がメインの仕事で、内容をよく聞けばちょっと物理的に難しいのでせっかくの話だったが辞退。申し訳なし。”いつまでもあると思うな人気と仕事”ではあるのだが。

●9月29日
所沢に墓参。帰りに実家に立ち寄り庭の木になっている酢橘の実を収穫する。今年は暑かったからかいつになく実も大きく数も多い気がする。さっそくさんまを焼いて酢橘サワーをで自宅呑み。

●10月2日
再開発工事が続いていた石神井公園駅で駅中のショッピングモール『Emio』がオープン。カフェやイタめしレストランなどの飲食店や夜11時までオープンのヨーカ堂も隣接。単なる郊外の変哲のない駅だった石神井も大きく変わることになる。便利になるのは結構なことだが、開発の反面消失していくものも多い。時代の流れと単純にかたずけられれないと思うのだが。

●10月3日
TK社OK氏、デザイン会社SB社TT氏、ST嬢と久々に会食。小川町の神田よりチャイ二ーズダイニング『HIRO』というおしゃれなお店に。聞けばシェフは『キハチチャイナ』『筑紫楼日本橋店』等で腕をふるった人だそうで、一品一品は少量でもなんとも品のある創作中華を出してくれる。前菜でたのんだピータンひとつとってもゼリーを添えたフレンチっぽい仕上げ、おすすめの麻辣豆腐も山椒が効いて絶品に辛美味く、近所の麻婆豆腐の名店『四川一貫』にも負けず劣らぬ味。値段もそこそこだったがSB社のおごり、ごちそうさまでした。

●10月8日
この日の朝から地元の健診センターで胃がん検診。バリウムの排出のために呑んだ下剤が効きすぎて出社後も腹具合が悪く、何度かトイレを往復。検査のために飲み食いを制限されていたため、腹の調子は悪くても空腹感だけはある。バリウム腹を気遣って優しいものをと『明治屋2nd』でホットウイスキー。あまり根拠は無いのだが。

●10月11日
わが日本代表がW杯に備えての欧州遠征でセルビア代表と対戦。深夜のキックオフに間に合うように仕事もそこそこに帰宅。出来たばかりの駅中のスーパー・ヨーカ堂でつまみ&ワインを用意してキックオフに備える。ヨーカ堂はセブン&ホールディングス傘下ということで品揃えのレベルは大したことはないが、小分け惣菜が多く種類も多く選べて酒の肴にはうってつけ。で試合のほうは香川も遠藤もミスが目立ちいいところなくセルビアのカウンターにやられて0-2の黒星。文字通り消化不良のまま就寝。

●10月13日
母校のラグビー部の対抗戦は慶応と対戦。シーズン唯一の秩父宮でのゲームでもある。天気は快晴、ようやく秋の気配も感じられ絶好の観戦日和。ここ何年か超高校級の選手のリクルートもあって徐々に力をつけている青学フィフティーンにとって慶応は最大のターゲットにしている相手である。上位校とはいえ過去何回も土をつけているし相性はいい。OBたちもいつになく気合が入って会場の7割方は青学関係者と見受けられる。ゲームは開始早々攻め込まれPGで失点したがこちらの期待も伝わってか、いつになく低い捨て身のタックルが決まり慶応の出足をことごとく止める、耐えているうちに先にトライを決めリードをしたまま前半を終える。ひょっとするとひょっとするかも後半に入っても青学のねちっこいディフェンスは慶応の焦りを誘いFW戦でも優位は崩れない。ロスタイムに1本返されたが、24-18でノーサイドのホイッスル。実に16年ぶりの大金星だ。さあ次は早稲田だ!ゲーム中は力が入ってビールも一杯だけ。あらためて渋谷に向かい『ボイルストン』で祝勝会になだれ込む。




2013年10月10日木曜日

東京オリンピックの選手たち。その後の人生を辿る

10月10日はかつては体育の日だった。
もちろん1964年の第18回オリンピック東京大会の開催日を記念してのことであった。

2020年の東京招致が決まって以来、半世紀前の東京オリンピックのことが再び語られ始めている。CS放送では9月に市川崑監督の記録映画のオリジナルノーカット版が繰り返し放送され、個人的にもあらためてあの日本中が熱狂した日々のことを思い返すことが多くなったし、同世代の人間と飲み屋に行ったりしたときは“あの時、何処にいたのか”という話題で盛り上がったりする機会も増えた。

2020年の東京再開催については世の中が浮かれるほど自分の中では期待はない。震災復興いまだしの中、経済的側面だけでオリンピックを強引に開催することは必ずしも是としないと思っているし、どんなに新しい時代の日本で世界最大のイベントが開催されようが、1964年の10月10日に経験した感激とホストカントリーの誇らしさ、その輝かしい日々に比ぶるべきもないからである。

1964年のことをあらためて振り返る機会が多い昨今、先日の東洋の魔女と謳われた女子バレーチームの主将だった中村(旧姓河西)昌枝さんの訃報は本当に残念な思いがしたとともに、彼女の享年が80歳という時の流れに改めて感慨を深くした。彼女の死をきっかけに、子どもごころに憧れたあの時世界から極東アジアの年に集まり生命の火花を散らした青年たち(あえてアスリートであるとかヒーローという言葉で表現するのではなく、あくまでその時代を生きた選手たちである)、の消息が気になって、当時には考えられなかったネットで時間を見つけてはその50年の足取りをたどったりするのが最近趣味になってきた。

そこで当時のメダリストたちがその後にたどった人生で、知ることもなかった事実に驚いたり、消息を追い求めた選手がすでに物故者になってしまったケースなど、いくつかの発見もあった。出来れば何かの機会に彼らのインサイドストーリーが記事にしたりできる機会があればいいなと思ったりもしているのである。

その中で特に印象に残った人たちの消息である。


①アン・エリザベス・パッカー(女子800m走)。
 
本職の400mで本命視されていたもののオーストラリアのベティ・カスバートに敗れ、過去数回しか経験のない800m走に出場、驚異的なラストスパートで見事優勝、ゴールとともに婚約者であったロ ビー・ブライトウェル選手の胸に飛び込んで行ったシーンは、強烈に覚えているし大会を代表する美しいエピソードであった。記録映画の映像でも好きなシーンである。800mは大会直前に不参加となった北朝鮮の辛金丹が大本命で、もし彼女が出ていたら金メダルは間違いなかったと言われるが、このときのパッカーは辛金丹の世界記録を上回る世界新記録での圧倒的な勝利だったことも特記すべきであろう。大会後競技生活から引退した彼女は、その年の暮れにブライトウェルと結婚。そして家庭に入り3人の男児の母となった。後年、そのうちの2人、両親のアスリートの血を受け継いだイアンとデビッドはマンチェスター・シティの選手として90年代から2000年にかけて活躍することになる。彼女自身は現在マンチェスター近郊のコングルトンで静かな老後を送っている。
東京大会の名花の一人、美しい人だった





















②アン・ローズマリー・スミス(女子800m走)
アン・パッカーの劇的な勝利のレースの陰で、8位と最後尾でゴールインした同僚選手である。華々しいパッカーに比べ、彼女の記憶は単なる風景の中の一人でしかなく、その人物に関して語られることはない。英国人としては小柄だったこの人もなかなかの美人選手だった。彼女のことが気になったのはネットのQ&Aサイトで、女子マラソンで一世を風靡した(ジョイス・)スミスがこのアン・スミスと同じ人物であるかという質問が目にとまったからである。もちろん別人物であることは言うまでもないが、回答者も同人物かどうかわからないということだったので、よっぽど彼女の人となりは知られていなかったということなのだろう。彼女はマイルレースと1500mのスペシャリストで、当時のオリンピックでは女子の長距離種目は無く800mが最長、1500m以上は72年のミュンヘン大会まで待たなければならなかった。17歳で競技生活を始めたスミスは、マイルレースの国内記録を次々に更新したものの1964年の東京大会では800mしかエントリーするチャンスがなかったのである。おなじように短距離ランナーだったパッカーも急造であったが、結果は明暗を分けてしまった。東京では決勝には残ったものの最下位に終わったため誰の記憶にも残らなかったが、1967年にはロンドンの競技会で4分17秒3の1500mの世界新記録を樹立した。ロンドンで体育学校の教師をつとめていたが、1993年脳出血で逝去。享年52歳。 
                                                                                 

悲運のランナーだった


                                                                                          




















③ ロバート・カーモディ(ボクシングフライ級)
ローマでのカシアス・クレイに続き、東京でのボクシングの米代表としてジョー・フレイジャーがヘビー級金メダリストになったことはよく知られている。米国が東京大会でボクシング競技にエントリーさせたもう一人の選手がフライ級のロバート・カーモディであった。彼は準決勝で優勝したイタリアのフェルナンド・アゾーリに惜しくも判定負けして銅メダリストとなったが、同僚のフレイジャーのように後年プロで活躍することはなかった。少年時代ブルックリンの貧しい白人家庭に生まれたカーモディはストリートファイトに明け暮れる荒んだ生活をしていたが1957年で陸軍に入隊しアマチュアボクサーのキャリアが始まる。小兵ながら“バターボール”とあだ名された俊敏さで頭角を現し、オール陸軍大会で優勝、汎アメリカ大会で銅メダルを獲得するまでになった。1964年の五輪予選で見事に優勝し晴れて米国代表として東京のリングに上がることになったのである。東京での銅獲得のあと、恋人のメアリー・サイクスと結婚。彼の幸福はしかし長く続くことはなかった。彼には軍務があった。当時徐々に泥沼化するベトナム戦争への従軍はオリンピアンといえども免れることはなかったのである。1967年10月27日。サイゴン近郊でパトロール中のカーモディ軍曹は解放戦線ゲリラの待ち伏せ攻撃に遭い戦死、29歳の若さだった。東京で一緒にトレーニングに励んだジョー・フレイジャーは“ボブはいい友達だったよ”と彼の死を惜しんだ。そのフレイジャーもいまは亡き人となった。ロバート・カーモディは東京オリンピックに参加した選手中、唯一のベトナム戦争の戦死者として記録されることになる。
代々木選手村でフレイジャーと。一番輝いていた時間













④キャシー・ファーガソン(水泳女子100m背泳ぎ)
東京五輪の水泳では、男子の19歳のエール大学生ジョン・ショランダーのメダルラッシュに熱狂したが、小生大会前からご執心だったのが女子100m背泳ぎの美人選手クリスティーヌ・キャロン(フランス)であった。“キキ”の愛称で知られる19歳の美貌のスイマーは大会前から世界を魅了していた。当時愛読していた少年向けの雑誌「ボーイズライフ」でも彼女のグラビアが特集され、ませがきだった小生の心をとらえて離さなかった。日本の女子高校生スイマー、ミミこと木原美智子(故人)も脚光を浴びたが、子供心にキキのあふれんばかりの笑顔の前にはすっかり霞んでしまっていた。本番の決勝戦でもキャロンの勝利は揺るがないと思っていたが、水泳王国アメリカもそうはさせじとティーンエイジャーの若きスイマーたちで対抗した。結果、16歳の少女キャシー・ファーガソンがキャロンに2ストローク差以上つけて勝利、王国アメリカ水泳陣の層の厚さを見せつける結果に終わった。キャロンに比べ子供のようなあどけなさを残すファーガソンは表彰台の上で泣き崩れそうになり、その腕を優しくキャロンは支えてあげたのが印象に残っている。グッドルーザーであったキャロンはその後美貌を生かし女優に転身。60年代後期までに何本かのフランス映画のスクリーンを飾ったが、五輪熱が冷めた後の日本であまり話題になることはなかった。
一躍ヒロインとして凱旋したキャシー・ファーガソンは故郷カリフォルニア州のフレズノで地域の名士としてその後の人生を生きたようだ。現在はガールスカウト協会の会長職を務める。YouTubeに地元テレビ局によるインタビューが上がっていた。表彰台で感極まった少女は気品のある婦人としていまなお健在なようである。
http://youtu.be/HMwYzjPE3xY

ファーガソンとキャロン。アイドルたちの競演