2011年12月31日土曜日

週間呑みアルキスト12.12~12.31


●12月13日
お台場某局の会議。年4回の季刊誌だがあっという間に次の号の企画検討が始まる。1年が早く経過するように感じるのもこういう仕事のサイクルにも由るのだろう。会議終了後SM嬢とゆりかもめで新橋に出て、カレッタビルの地下にある沖縄料理『清次郎』でお疲れ様の一杯。

●12月15日
お台場某局の季刊誌の仕事にかかわるチームで忘年会。トヨタカップのバルサ戦とかち合ってしまったが、相手がアジア代表のアルサードということで試合の勝敗の興味は薄かったので、忘年会とはいえ仕事関係優先。水道橋の中華料理『鐘楼』でデザイナー、オペレーター、編集計5名に参集してもらい1年の労をねぎらう。翌日はバリウムを飲む検査が控えていたが時間制限があったもののよく食べ、よく呑み2次会で神保町のbar『シャルルボイル』に流れた後、終電にて帰還。

●12月18日
トヨタ世界クラブ選手権の決勝戦は当然ながらバルセロナとサントスの欧州対南米の対決に。スペイン産のワインを買い込みテレビ観戦しながら家呑み、世界最高水準のサッカーを満喫した。バルサのレベルは、ブラジルの若き才能ネイマールを擁するサントスをしてほぼ何もできないほどの差をみせつけた。メッシはもちろんW杯優勝の原動力となったイニエスタ、シャビ、セスクといったスーパーな選手たちの「技」に陶然とさせられる。

●12月23日
連休を利用しての台湾旅行。今回は趣向を変えて中西部の嘉義と虎尾へのローカルの旅がメイン。初日から桃園空港から台湾高鐡で直接嘉義へ向かう。宿舎の耐斯王子大飯店は日本のプリンスホテルのグループで嘉義で一番高級なホテル。クリスマスで賑わっていることもあって海外ホテルサイトのインターネット予約で唯一空いていた部屋を押さえたのだが、チェックインしてみると4つもベッドがあるセミスイート。米ドル換算なのでこれでも1万円弱しかも朝食付きでこの値段、円高の思わぬ恩恵を味わう。1泊だけなのがもったいないような豪華な宿泊となった。ナイトマーケットで賑わう市の中心街へ繰り出し、嘉義の有名店『噴水鶏肉飯』で名物の鶏肉飯と牡蠣のスープ蚵仔湯で食事。

●12月24日
嘉義のホテルをチェックアウトし、タクシーをチャーターし虎尾をめざす。雲林県に属する虎尾まで高速で40分くらいの道のりだが、嘉南平野ののどかな田園地帯が広がる。虎尾はかつて戦時中に亡き父親が虎尾海軍航空隊に出征していた場所でいつか行きたいと思っていた地である。基地は戦後台湾空軍に接収され兵舎も居ぬきで空軍軍人たちが生活していたのだが、80年代に軍は移転し廃棄され現在は古き眷村(軍人村)の痕跡を残すのみとなっているそうである。歴史的に街の発展を支えた旧大日本製糖の工場や鉄道駅、鉄橋や、日本統治時代の建造物を利用した雲林布袋戲館や雲林故事館などを見て回り、父親が居たと思われる基地の戦跡のあとを探す。かつての滑走路は一面の畑となり眷村となった兵舎は朽ち果てていたが掩蔽壕や高角砲塔跡なども見つけることが出来、なかなか感傷的な旅が出来た。途中立ち寄った『斗南鵝肉』という店でガチョウの鵝肉湯麺で軽く腹ごなししたあと、台湾高鐡嘉義駅に戻り台北へ移動。イブの夜は宿泊先の兄弟大飯店の飲茶レストラン『梅花廰』で食事。

●12月25日
遅い朝食を民生東路の『史記正宗牛肉麺』でとった後、東区に移動して一日過ごす。台湾は日本と比べて不景気感もなく東区の新光三越周辺はクリスマスの各種イベントで大賑わい。10年前の駐在時には比較的何もなかった東区だが、いまや台湾の原宿・西門町より若者が多いのではないだろうか。その街の変貌振りに目を瞠る思いだ。夕食は誠品書店ビル地下のフードコートで粥の定食ですませ、台湾でのかつての同僚TK氏と落ち合い南京東路のbar『異塵』で久々に語り合う。

●12月27日
夕方からSN嬢、TM嬢、KJ氏とA誌の編集打ち合わせ。終了後神保町の『ヴェジタリアンⅡ』で食事兼打ち上げ。ワイン3本あけて久々の深夜タクシーで帰宅。

●12月28日
カメラマンKG氏、KJ氏と忘年会。四谷の新道通り近くに移った『こうや』で会食後、四谷一丁目の『3Circle』でK社の後輩TK君が合流して2次会。終電で帰還。

●12月29日
いつもお世話になっている事務所の隣の立ち飲みや『明治屋2nd』の忘年会。大勢の常連さんたちがつめかけ相変わらずの大盛況。今年も1年間ごちそうさまでした。

●12月30日
恒例になったKN元K誌編集長とのひばりヶ丘焼肉忘年会だったが、KN氏が珍しく飲み疲れと風邪でダウン。この日は高校の仲間たちも地元で呑んでいると聞いていたのだがそちらへ合流するかと思ったが場所を聞き忘れたので断念、事務所で残務処理と片づけをした後、新宿に向かい『t's bar』へ。10年ほど前に今の場所に移る前の店舗の時代によく来ていたかつての常連さんのSK嬢、AS嬢らと久しぶりに再会する。『t's bar』もこの日が今年最後の営業日、こちらも1年間ごちそうさまでした。

2011年12月30日金曜日

台湾虎尾感傷時間旅行


12月23日からの3連休を利用して台湾で一人旅をしてきた。貯まったマイレージの残存期間が終わるため早いうちからこの時期の航空券に変えていたためでもある。
ということで、特に目的もなく訪台するのもめったにないことなので仕事関係の知人は最終日の夜に1件アポイントをとるのみにとどめた。聖誕節(クリスマス)で賑わう台北を離れて普段あまり行く機会がない田舎をのんびり回ってみるかなどと思い、東海岸や南部の温泉地も良かったのだがいつかは行きたかったのだがなかなか機会を持てなかった父親の戦時中の赴任地・虎尾を訪問を思い立った。桃園空港から台北を素通りしいきなり新幹線で嘉義に入れば、嘉義を起点に台湾中西部に位置する雲林県虎尾鎮まで足を延ばせる。ちょっとした感傷旅行もたまにはいいだろう。

虎尾というのは明治期に大日本製糖(戦後は台湾製糖)の工場が進出し開拓され発展した町で、戦時中は海軍の虎尾航空隊の基地があった場所である。虎尾空は九三式中間練習機(いわゆる赤トンボ)による訓練部隊で、予科練の甲飛十三期と学徒出陣組の三重空で教育課程を終えた一期飛行予備生徒(第14期飛行予備学生と同期で大学予科在学組)を中心に実戦教育がおこなわれていた。虎尾空自体は昭和20年の2月に解隊となったが、その後もシンガポールから転戦してきた航空隊が、残存していた布張り複葉の赤トンボに250Kg爆弾を装着して特攻出撃を敢行した悲劇の舞台でもあった。

予備生徒だったわが父は昭和19年に赴任、10月の台湾沖航空戦まで在隊しその後、本土決戦の特攻要員として百里原空へ転任し終戦を迎えた。在隊時は猛訓練に明け暮れていたものの兵舎内は完全に自治を任され同期の戦友たちと星を眺めながら青春の日々を語り合ったということのようだ。そのため特に思い出深い日々であったらしく、生前はよく再訪したいと言いつづけていたが、高度経済期の企業戦士とあってはなかなか行く機会がとれないままその希望は果たせなかった。同期生たちのなかにはやはり青春の記憶を辿り戦後戦跡を回っていた人もいて、父親の葬儀の際は当時台湾駐在だった小生に、「台湾にいるのに行かなければ親父が浮かばれんぞ」と叱責する方もいたので、今回67年を経てやっと50をとうに過ぎた愚息が変わって父親の思いを辿ることになったという次第である。

虎尾基地は戦後2.28事件の際に、武装蜂起した台湾青年たちが鎮圧部隊と激戦を展開し二度目の悲劇の舞台になるという運命を辿り、その後、中華民国空軍に接収されて当時の兵舎はそのまま彼らの宿舎として利用されていた。80年代に入って部隊移転で民間に払い下げられたが、その後住む人も少なく建物は朽ち果てたが地元として眷村(軍人村)文化の保護が訴えられているそうである。滑走路の跡は一面の畑になっているという話は聞いていたので、戦跡と言ってもそれを示す様な資料がないので、果たして言葉も大してしゃべれない自分が一人で辿りつけるか不安もあったのだが、旧海軍時代の部隊の見取り図をたまたま予科練の虎尾空会が自費出版した本の中から見つけ、現在の地図と照らし合わせながら行けば何とかなるだろうと、とりあえず宿泊先の嘉義からタクシーを1日チャーターしおっとり刀で虎尾へ向けて出発した。

ホテルで紹介されたタクシーのドライバーは坂上二郎似の典型的な台湾のおっさんだった。怪しげな北京語で虎尾行きを交渉すると1日回って全部で5000NT$だというので、往復の距離(東京―横浜くらい)を考えると日本円にして2万円しないのは安いと判断しあっさり妥結した。市内観光とあわせて行きたい眷村のあるあたりを指し示すと、妙な顔をしながら「おまえは何人か?」と問うので日本人だと答えると「え、日本人か?大体この辺に来る日本人は日月潭か阿里山に鉄道旅行するって限られているのに、何故眷村なんかに行くんだ」と不思議そうに言うので、「父親がかつて海軍の飛行基地にいたので、その足跡をたどるんだ」となんとか判らせると、林さんという名のこのおっさん、やにわに張り切り出し無線指令室やら友だちやらに色々電話で尋ねながら車を走らせる。大体、この手の台湾の田舎の人は総じて親切なのだが、台湾語交じりの北京語の理解が難しく言ってることの6割くらいしか判らないのが玉に瑕。でもまあおかげで錆びた北京語のブラッシュアップも兼ねて片言会話で道中退屈はしなかった。

旧大日本製糖の跡やら砂糖搬出鉄道の鉄橋跡やら旧郡守官舎などの日本時代の建物をひととおり観た後、いよいよ基地の跡があった虎尾の郊外へ向かう。街道筋は一面の畑でのどかな風景が広がる。虎尾空の見取り図であるイ地区(兵舎は滑走路を囲んでイ~ホまである)の周辺の小路を行くと、あるわあるわ朽ち果てた日本式の建物が軒を並べている。無人の家も多いがなかにはいまだに人が住んでいる家もある。この棟のどこかに親父も暮らしていたのだろうか?車を止めて畑を見まわすと、ところどころのうっそうとした竹林に掩蔽壕や防空壕の跡が姿を現す。やにわに視界に入って来た高角砲台跡と思われる筒状のコンクリートの塔が弾痕だらけの痛々しい姿をさらしていた(写真上)。滑走路があったと思われるあたりは畑と化しているが、やはりところどころに当時を偲ばせる遺構があるものだ。父親の戦友で訓練中に殉職した伊藤猛少尉(名古屋高商)の御霊に父に変わって合掌し、さらにこの基地から特攻出撃した隊員を思いしばし黙とうをささげた。ドライバーの林さんもこの時ばかりは神妙な顔で待っていてくれた。
しばらく周囲を散策し、眷村独特の大陸反攻のスローガンが書きなぐられた廃屋を巡っていると、やはり時の流れを感じさせる。感傷的な気分でなかなか立ち去りがたかったが日も傾いてきたので、虎尾の田園風景を後にして嘉義の新幹線駅に向って車を飛ばしてもらった。

台湾高鐡の新幹線で台北まで約1時間、確かにこの新幹線の開通は台湾の地方都市への移動時間を劇的に短縮した。面積にして九州くらいの台湾だがいまだに訪れたことがない場所はたくさんあり、今後はこういう楽しみ方もできるということを体感しただけでも大きな収穫があった。台北へ戻ると街は若いカップルが大勢くり出し日曜日のクリスマスを楽しんでいる。屈託がない幸せそうな“今風”の彼らを見ているとなんとなくタイムマシンで帰って来たような感覚になるが、台湾も日本統治時代を知る世代がそろそろ消えようとしている。それはそれで仕方がないことなのかもしれないが、過去の悲惨な歴史が将来にわたって再び繰り返されることがないように願うばかりである。

2012年がすべての人にとって良い年でありますように。




かつての兵舎

畑の中に残る掩蔽壕

防空壕跡

これも防空用の壕なのだろうか

戦後、台湾空軍が接収。大陸反攻や反共愛国スローガンが目立つ

滑走路があったと思しき場所、一面の畑

のどかな田舎。なんとなく懐かしさを感じる

2011年12月20日火曜日

二人の指導者の死


北朝鮮の金正日総書記死亡のニュース一色の日。奇しくもチェコのビロード革命の立役者だったヴァツラフ・ハベル前大統領も時を同じくして逝去。
かたや共産主義を私物化し、かたや共産主義を解体させた指導者であった。


私物化していた主を失った独裁国家の今後がどうなっていくのか?
まがりなりにも国民に権力を移譲した民主国家の指導者を追慕する人々の悲しみと、明日がまったく見えなくなった国民の悲しみが、こんなにも質的に異なっているのも皮肉なものである。


2012年は金正日体制の重石の取れた独裁国家が、中東を席巻したアラブの春に続き、22年前に東欧で人々が味わった自由を甘受できるようになるのか?
願わくば、次の国民の涙が喜びの涙とならんことを。

2011年12月16日金曜日

5000年前のことの嘘実が分かるはずもないが


ドキュメンタリー映画『ピラミッド 5000年の嘘』の試写へ。
会場でメディアに対して記事書くときネタバレに配慮してと、わざわざお断りが配られたぐらいだからきっとさぞかし驚愕の新説が出るのではと期待は膨らむ。
ネタばれしない程度に内容を記すと、エジプトのクフ王ピラミッドを37年に渡り、考古学の観点からだけでなく建築、数学、、天文学、気象学等様々な観点から分析、解明した結果たどりついた常識を覆す新事実を提示する、ということになろうか。

科学的に考えて5000年前のエジプト人が作ったにしては説明のつかないことが多すぎ、円周率が3.14どころではないくらい小数点が必要になるほど精密な円形の連鎖による設計や、ヒエログリフや紋章の不可思議さとか、さんざん定説の矛盾を例に挙げられた上で導かれる結論はちょっと恐ろしいが、いままで知らなかったピラミッドの答えの出せない不思議の数々と、他の古代遺跡との共通項に純粋に驚かされた。エジプト学の権威でおなじみの吉村作治先生も来場されていて、終了後お仲間に“いや面白かったね”と盛んにほめていらっしゃったので、それなりにトンでも説ではないのかもしれない。

ただし根っから文系のおいらにゃすんなり理解できない部分もあって、ついウトウト。またディスカバリーチャンネルを思わせる抑揚のないナレーションが妙に耳障りがよく途中30分は夢の中でTINTINのごとくエジプト探検していたorz

2011年12月13日火曜日

週刊呑みアルキスト11.21~12.11


●11月21日
A誌の校了作業で編集のSM嬢と打ち合わせかたがた神保町の老舗ビアレストラン『ランチョン』で食事。毎回ぎりぎりまで駆け込み入稿で印刷所からも怒られてばかりだが、今回は何とか締め切りには間に合った。ことさらうまいビールで一気に酔いがまわり、今日こそは早く帰ろうと思っていたのに事務所に戻ってうとうとしてしまい、結局終電で帰る羽目に。

●11月23日
祝日を休日として家でのんびりできるのも今年になって何回あっただろうか。昼はラグビーの早慶戦、夜はサッカー五輪予選の対バーレーン戦と、ひさしぶりにだらだら昼から飲みながらのテレビ観戦三昧。ちょっとした解放感に浸る。

●11月24日
友人のHT氏が来社。ひさしぶりに会社関係以外の人間と呑みに行く。事務所の隣の焼き鳥ダイニング『ぼんちゃん』で仕事を忘れてサッカーや映画の話を喋りまくる。『明治屋2nd』にハシゴ。

●11月26日
午前中は健康診断。メタボ指導の甲斐もなく連日の夜遅くまでの入稿作業ですっかり不節制し、数値の悪化は避けられまい。午後にA誌の見本誌が刷り上がり、クライアントに届けるべく編集のSM嬢が受け取りに来社。
神保町のオーガニックダイニング『東京アチコーコー』でプチ打ち上げ。

●12月2日
友人のHT誌と市ヶ谷の日本蕎麦屋『大川や』で食事。前回会った際に話題になり譲り受けることになった英国人作家フィリップ・カーの新作『変わらざるもの』を受け取る。10年ほど前に新潮文庫で3部作として戦中戦後のベルリンを舞台にした私立探偵ベルンハルト・グンターシリーズの久々の続編であるが、3部作も今や絶版。今回は訳者も変わりPHP文庫から発刊されたが、パラパラつまみ読みしてハードボイルドな世界は相変わらず健在。これからしばらくは通勤の読書が楽しみになりそうだ。HT氏との会食の流れで四谷に移動、今年いっぱいで店を閉めることになった四谷の『3Circle』に顔を出す。

●12月6日
旅行作家でもあり編集者でもあるKN氏に誘われ、ハルビン出身の中国語ネイティブSH嬢の語学レッスンに参加する。レッスンといっても食事をしながら簡単な会話で中国語を喋る機会を持つという気楽な授業である。待ち合わせ場所の高田馬場の中華レストラン『平大将』で、いい歳こいたオヤジ二人が怪しげな中国語で若い中国娘と談笑する姿ははたで見ていても絶対格好いいものではないが、錆びついた中国語をブラッシュアップするのには多少なりとも役立ちそうではある。次回が楽しみ。

●12月9日
寒い一日。会社帰りに無性にラーメンが食べたくなり新宿三丁目で下車し『博多天神』へ。その足で久しぶりの『t’s bar』で一杯ひっかけて終電にて帰宅。

●12月11日
ちょっとした経理処理で事務所に出ていたが、帰宅時に石神井公園駅にて古巣のK社の後輩YN氏とバッタリ。彼が同じ町内に住んでいるのは聞いていたが会うのは初めて。さっそく誘い合わせて駅前のスナック『SHAKUSHAKU』で一杯。

2011年12月11日日曜日

どっと疲れる映画


先日試写で観た園子温監督の『ヒミズ』に触発されて、現在公開中の『恋の罪』を観に行く。
1997年に渋谷で起きた東電OL殺人事件にインスパイアされたということだが、内容は場所が円山町というだけであまり実際の事件との関連性はない。大学教授の女性が夜は売春婦に変貌するというシチュエーションこそ類似しているが、主テーマは日常生活の中に押し隠されている様々な女性の抑圧からの解放の手法を不特定の男性とのSEXに求めていくという心象に置き、強烈な映像とともに性の地獄への途行きを描いて行く。
ただし、大学教授と貞淑な人妻がともに滅んでいく表現に力が入り過ぎて、肝心の猟奇殺人のサスペンス性やストーリー展開が平板になったり辻褄が合わなかったりというきらいがあり、その分、『ヒミズ』の方がより完成度は高い気はする。

一番印象に残ったのは神楽坂恵の壊れっぷり。グラドル出身で女優としての素養があるわけではないのだが、墜ちていく女の変貌ぶりを鬼気迫る体当たりの演技で表現し、凄い存在感を示している。まあこの撮影の後に監督と結婚したというのもわかるというか、彼女自身の存在をこれだけ意のままにされりゃ一緒にならざるを得ないわな。また大学教授の富樫真も2面性を表現するという意味ではこちらも負けじと熱演している。二人ともこんな役柄をやっちゃった以上、次にどういう役を演ずるのか難しいかもしれない。
主演ということになっている水野美紀も頑張っているんだが、役自体はあまり見せ場もなく、こちらも濡れ場シーンで熱演しているのだがちょっと可哀そう。

しかしなかなか映画を観終わってどっと疲れを感じさせる。
園子温の世界に付き合うのは見る側もなかなか根性がいるのは確かだ。

2011年12月3日土曜日

次の時代を生きる子供たちへ


『愛のむき出し』『冷たい熱帯魚』と話題作を発表し続け注目の園子温監督の新作『ヒミズ』を試写にて鑑賞。
古谷実の原作のダークで暴力的な世界に撮影準備中に発生した3.11東日本大震災の荒涼たる背景を加えることによって、次の日本の世代が背負わざるを得ない困難な状況が胸に迫ってくる。この映画に登場する大人たちはどいつもこいつもロクでもない奴ばかり。クソくだらない世の中の落とし前をつけられない大人たちに対するアンチテーゼのような生き方を模索する主人公の中学生・住田こそが、絶望の中にわずかに灯る希望のように映る。ラストの「ガンバレ、住田」の連呼は聞いているうちに実に心に響いてきた。

園子温は評判通りの力量の持ち主であることがこの作品でもよくわかる。いまだ未見の公開中の前作『恋の罪』も観に行かねばなるまい。