2011年12月30日金曜日

台湾虎尾感傷時間旅行


12月23日からの3連休を利用して台湾で一人旅をしてきた。貯まったマイレージの残存期間が終わるため早いうちからこの時期の航空券に変えていたためでもある。
ということで、特に目的もなく訪台するのもめったにないことなので仕事関係の知人は最終日の夜に1件アポイントをとるのみにとどめた。聖誕節(クリスマス)で賑わう台北を離れて普段あまり行く機会がない田舎をのんびり回ってみるかなどと思い、東海岸や南部の温泉地も良かったのだがいつかは行きたかったのだがなかなか機会を持てなかった父親の戦時中の赴任地・虎尾を訪問を思い立った。桃園空港から台北を素通りしいきなり新幹線で嘉義に入れば、嘉義を起点に台湾中西部に位置する雲林県虎尾鎮まで足を延ばせる。ちょっとした感傷旅行もたまにはいいだろう。

虎尾というのは明治期に大日本製糖(戦後は台湾製糖)の工場が進出し開拓され発展した町で、戦時中は海軍の虎尾航空隊の基地があった場所である。虎尾空は九三式中間練習機(いわゆる赤トンボ)による訓練部隊で、予科練の甲飛十三期と学徒出陣組の三重空で教育課程を終えた一期飛行予備生徒(第14期飛行予備学生と同期で大学予科在学組)を中心に実戦教育がおこなわれていた。虎尾空自体は昭和20年の2月に解隊となったが、その後もシンガポールから転戦してきた航空隊が、残存していた布張り複葉の赤トンボに250Kg爆弾を装着して特攻出撃を敢行した悲劇の舞台でもあった。

予備生徒だったわが父は昭和19年に赴任、10月の台湾沖航空戦まで在隊しその後、本土決戦の特攻要員として百里原空へ転任し終戦を迎えた。在隊時は猛訓練に明け暮れていたものの兵舎内は完全に自治を任され同期の戦友たちと星を眺めながら青春の日々を語り合ったということのようだ。そのため特に思い出深い日々であったらしく、生前はよく再訪したいと言いつづけていたが、高度経済期の企業戦士とあってはなかなか行く機会がとれないままその希望は果たせなかった。同期生たちのなかにはやはり青春の記憶を辿り戦後戦跡を回っていた人もいて、父親の葬儀の際は当時台湾駐在だった小生に、「台湾にいるのに行かなければ親父が浮かばれんぞ」と叱責する方もいたので、今回67年を経てやっと50をとうに過ぎた愚息が変わって父親の思いを辿ることになったという次第である。

虎尾基地は戦後2.28事件の際に、武装蜂起した台湾青年たちが鎮圧部隊と激戦を展開し二度目の悲劇の舞台になるという運命を辿り、その後、中華民国空軍に接収されて当時の兵舎はそのまま彼らの宿舎として利用されていた。80年代に入って部隊移転で民間に払い下げられたが、その後住む人も少なく建物は朽ち果てたが地元として眷村(軍人村)文化の保護が訴えられているそうである。滑走路の跡は一面の畑になっているという話は聞いていたので、戦跡と言ってもそれを示す様な資料がないので、果たして言葉も大してしゃべれない自分が一人で辿りつけるか不安もあったのだが、旧海軍時代の部隊の見取り図をたまたま予科練の虎尾空会が自費出版した本の中から見つけ、現在の地図と照らし合わせながら行けば何とかなるだろうと、とりあえず宿泊先の嘉義からタクシーを1日チャーターしおっとり刀で虎尾へ向けて出発した。

ホテルで紹介されたタクシーのドライバーは坂上二郎似の典型的な台湾のおっさんだった。怪しげな北京語で虎尾行きを交渉すると1日回って全部で5000NT$だというので、往復の距離(東京―横浜くらい)を考えると日本円にして2万円しないのは安いと判断しあっさり妥結した。市内観光とあわせて行きたい眷村のあるあたりを指し示すと、妙な顔をしながら「おまえは何人か?」と問うので日本人だと答えると「え、日本人か?大体この辺に来る日本人は日月潭か阿里山に鉄道旅行するって限られているのに、何故眷村なんかに行くんだ」と不思議そうに言うので、「父親がかつて海軍の飛行基地にいたので、その足跡をたどるんだ」となんとか判らせると、林さんという名のこのおっさん、やにわに張り切り出し無線指令室やら友だちやらに色々電話で尋ねながら車を走らせる。大体、この手の台湾の田舎の人は総じて親切なのだが、台湾語交じりの北京語の理解が難しく言ってることの6割くらいしか判らないのが玉に瑕。でもまあおかげで錆びた北京語のブラッシュアップも兼ねて片言会話で道中退屈はしなかった。

旧大日本製糖の跡やら砂糖搬出鉄道の鉄橋跡やら旧郡守官舎などの日本時代の建物をひととおり観た後、いよいよ基地の跡があった虎尾の郊外へ向かう。街道筋は一面の畑でのどかな風景が広がる。虎尾空の見取り図であるイ地区(兵舎は滑走路を囲んでイ~ホまである)の周辺の小路を行くと、あるわあるわ朽ち果てた日本式の建物が軒を並べている。無人の家も多いがなかにはいまだに人が住んでいる家もある。この棟のどこかに親父も暮らしていたのだろうか?車を止めて畑を見まわすと、ところどころのうっそうとした竹林に掩蔽壕や防空壕の跡が姿を現す。やにわに視界に入って来た高角砲台跡と思われる筒状のコンクリートの塔が弾痕だらけの痛々しい姿をさらしていた(写真上)。滑走路があったと思われるあたりは畑と化しているが、やはりところどころに当時を偲ばせる遺構があるものだ。父親の戦友で訓練中に殉職した伊藤猛少尉(名古屋高商)の御霊に父に変わって合掌し、さらにこの基地から特攻出撃した隊員を思いしばし黙とうをささげた。ドライバーの林さんもこの時ばかりは神妙な顔で待っていてくれた。
しばらく周囲を散策し、眷村独特の大陸反攻のスローガンが書きなぐられた廃屋を巡っていると、やはり時の流れを感じさせる。感傷的な気分でなかなか立ち去りがたかったが日も傾いてきたので、虎尾の田園風景を後にして嘉義の新幹線駅に向って車を飛ばしてもらった。

台湾高鐡の新幹線で台北まで約1時間、確かにこの新幹線の開通は台湾の地方都市への移動時間を劇的に短縮した。面積にして九州くらいの台湾だがいまだに訪れたことがない場所はたくさんあり、今後はこういう楽しみ方もできるということを体感しただけでも大きな収穫があった。台北へ戻ると街は若いカップルが大勢くり出し日曜日のクリスマスを楽しんでいる。屈託がない幸せそうな“今風”の彼らを見ているとなんとなくタイムマシンで帰って来たような感覚になるが、台湾も日本統治時代を知る世代がそろそろ消えようとしている。それはそれで仕方がないことなのかもしれないが、過去の悲惨な歴史が将来にわたって再び繰り返されることがないように願うばかりである。

2012年がすべての人にとって良い年でありますように。




かつての兵舎

畑の中に残る掩蔽壕

防空壕跡

これも防空用の壕なのだろうか

戦後、台湾空軍が接収。大陸反攻や反共愛国スローガンが目立つ

滑走路があったと思しき場所、一面の畑

のどかな田舎。なんとなく懐かしさを感じる

2 件のコメント:

コッコ さんのコメント...

突然のコメント失礼します。
私の祖父が戦時中、台湾の虎尾で暮らしていたと話していたことを思い出し、祖父が亡くなり2年経った今、虎尾について調べていたらブログに出会うことが出来ました。
(祖父が導いてくれたのかと思います)

なかなか簡単に虎尾には行けませんし、私は北京語も台湾語も話せませんが、いつか祖父が暮らしていた場所に行ってみたいと思いました!!!

写真を拝見し『祖父が暮らしていた場所かも』などと考え、祖父を近くに感じる事ができました。
ありがとうございました!

秋山光次 さんのコメント...

コメントありがとうございます!
しばらく前の日記読んでいなかったので、いままで気づきませんでした。
レス遅くなって申し訳ありません。

虎尾はのどかな田舎町で時間がゆったり過ぎる感じでとてもいいところでした。
確かに若干行きづらい場所ですが、いつか行かれるといいですよ。きっとお祖父さまのことがすごく身近に思えてくるはずです。

私も近いうちに再訪したいと思っています。