2011年9月15日木曜日
やがて来たる者とは?
第二次大戦下の1944年。北イタリアの山村でナチによる住民大量虐殺事件“マルザボッドの虐殺”を描いたイタリア映画『やがて来たる者へ』(ジョルジョ・ディリッティ監督)を試写にて観賞。
イタリア国内では昨年ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(イタリアのアカデミー賞)16部門ノミネートという高い評価を得た作品だそうだ。
イタリア降伏後、かつての同盟国ドイツは征服者へと立場を変え、これに対抗するパルチザンとの戦いが恒常化する中で、住民の支援の中で山中に潜みゲリラ戦を展開する相手を根絶やしにするため、ナチは無差別に女性や子供、老人たちを含む一般農民を殺戮する。映画はこの史実をある一家にフォーカスを当て、奇跡的に生き延びた少女の目を通して表現していく。
このように設定は準備されているが、つまるところドイツ軍が進駐、パルチザンが襲撃、ドイツ軍の報復は住民皆殺しへ向かう。ストーリーは言うなればその過程を追うだけのことである。
人民の海に潜む対ゲリラ戦で疲弊すると、必ず起こるのがこの手のジェノサイトである。日中戦争やベトナム戦争しかり、最近のアフガンやユーゴ、イラクでもこの図式は変わらない。戦争が起き、民衆のレジスタンスが始まると一般市民が往々にして犠牲になってしまう。こうした悲劇は現在に至るまで世界のどこかで繰り返し起きてきた。結局はこの映画の訴えるところも、戦争における人間の愚かなる行為、国家や思想の枠組みの中で敵対するものにはいくらでも残虐になれる、淡々とその事実だけを訴えているかのようだ。ラストは幼子の弟と共に生き延びた少女の哀切な歌声でフェードアウトする。標題の“やがて来たる者”は果たして何を指すのかこの歌声と共に色々な解釈を示唆するのである。
ストーリー性よりもドキュメンタリータッチで史実を掘り起こす。戦後イタリア映画の記念碑的作品であったロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』から60年。映画による戦争犯罪告発は世界の紛争地域、ナショナリズム、民族、宗教と益々複雑化する今日的状況が一向に歯止めがかからない状況を鑑みれば、こうした作品は作られ続けていくのだろうし、作り続けるべきなのだろう。
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