2011年10月29日土曜日

欧州社会の困惑を照射するカツアゲ映画


東京国際映画祭4作品目になるスウェーデンのコンペ作品『PLAY』を鑑賞。たまたま行けなくなった知人からチケットが回ってきたもので全く見る予定の無かった作品だったが、なかなか興味深く考えさせられる映画であった。
スウェーデンはここ20年、ソマリアや東欧、中近東から積極的に移民を受け入れてきたのだが、それによって多民族文化国家になるとともに治安の悪化が憂慮される事態に陥っている。
この作品も実際にあったソマリア移民の少年たちによる連続恐喝事件をモチーフにし、多民族国家へと変貌したスウェーデン社会の困惑を描いたものである。

黒人少年たちに引き回され脅され携帯電話や金を巻き上げられる白人及び裕福(?)なアジア系の少年たちのざらついた怯えや恐怖感、焦燥感は観ていて胸が苦しくなるし、周囲の大人たちの困惑、混乱も皮肉なタッチで問題提起される映像表現もなかなかうならせる。固定カメラを多用した撮影手法も(小津的?)も観客にジャッジメントを預けるような視覚効果を与える。
恐喝事件と関係が無いようなシークエンスも唐突に挿入されるが、それがスウェーデン語が通じずに英語で車内アナウンスせざるを得ない列車内の話や、中南米のストリートミュージシャンたちの演奏シーン、それらすべてがこの国の現状を訴えかけている仕組みだ。

恐喝された少年の親が犯人の黒人の少年から携帯電話を奪い返すシーンで、居合わせた人権派の女性たちの批難と被害者家族の言いあう姿は、高度な教育が施された福祉国家だった白人社会の混乱を皮肉に浮き彫りにしているようだった。

映画終了後の質疑応答で、マイノリティ系の記者から「映画人は作品制作に社会的な責任があるし、この作品は勢いを増す欧州の右翼の主張寄りで不愉快だ」と切って捨てる意見も飛び出したが、このような批判が出ることもあえて折込んだ制作意図を持っているのだろう。この批判に映画の女性プロデューサーからは「様々な意見を受けたいし、それがこの映画の目的である」と答えていた。

ノルウェーのテロの記憶も新しいが、子供たちの恐喝事件という小さな犯罪を描きながら、じつは欧州全体に、否、先進国全体に蔓延する移民問題の根源を描いた、非常に重いテーマを内包した作品だと言えるだろう。日本もこの先遠からず直面する(すでにしている)問題でもある。

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