2008年12月31日水曜日
週間呑みアルキスト12.15~12.31
●12月15日
新潟佐渡の酒蔵の入り婿社長H氏が上京、彼と仲の良い印刷会社A氏とともに神保町の中華料理『鐘楼』で食事会。H氏もA氏もかつては雑誌編集者だったが、現在は違った道を歩んでいるもののやはり会えば昔話から始まり雑誌の世界の話題になってしまう。2次会は『明治屋2nd』、新潟出身の常連さんがたまたま来ていてH氏の地元の“酒”の話で盛り上がる。
●12月17日
編集者かつ詩人のO氏が来社。以前O氏が主宰するオヤジロックの雑誌「40/60」の出版にちょっと協力したことのお礼ということで、お言葉に甘えて神保町の比内鶏の料理がおいしい『蘭奢待』でご馳走になる。創刊号の特集はニール・ヤング。なかなか渋い大人のロック雑誌だが2号目の発刊は創刊号の売れ行きしだいなのだとか。雑誌が元気のない時代だけに何とかがんばって次の雑誌を出して欲しいものである。
●12月18日
クラブワールドカップ準決勝の「マンU×ガンバ」戦を観戦しに横浜日産スタジアムへ。同行のaskさんと試合終了後に混雑を避けるべく早足で新横浜まで戻り、焼き鳥屋『もへじ』に陣取って試合評。ここの店はすっかり日産スタジアムに来たときの定番となってしまった。
●12月19日
K書店のハウスエージェンシーであるKM社のKB社長と編集プロダクションF社のY社長と神保町で忘年会。界隈はすでに忘年会シーズンでどこも混んでいたがすずらん通りの蕎麦屋『静邨』になんとか空席を見つける。KB社長とY氏とはかつての衛星ラジオ放送立ち上げ時の同志。厳しい時代だがかつてのような「熱」でもう一度面白い仕事を一緒やろうと盛り上がる。超満員の『明治屋2nd』で場所を空けてもらいハシゴ。
●12月21日
クラブワールドカップ決勝を、熱狂的CロナウドファンのS嬢とともに再び横浜日産スタジアムへ。気温はそれほどでもなかったが風が強く結構身体は冷えてきってしまったので、試合終了後やはり表彰式をパスして大急ぎでお約束の新横浜『もへじ』へ直行し暖を取る。毎年恒例だったこの大会だが来年から2年間はUAEへ開催が移管するのでこの試合後のパターンもしばし中断かもしれない。
●12月22日
スポーツカメラマンK氏と四谷の中華料理『こうや』で会食。スポーツの世界も不況の影響をもろにくらって仕事が激減したそうだ。そうはいうもののスポーツが金まみれのビジネス優先イベント化していたわけだから本来の姿に立ち戻るチャンスかもしれない。真剣勝負のスポーツ報道は廃れはしないと思うのだが。四谷でK氏のいきつけのBar『スリーサークル』にハシゴ。
●12月23日
わがサッカーチームの草創期のメンバーで早逝してしまったH君の没後10年ということでかつての仲間たちと西多磨霊園に墓参。帰りに昔試合のあとによくやったように車を連ねて立川駅近くの『ロイヤルホスト』に立ち寄って法事の会食。電車組の4名はさらに立川駅南口の『ジョン万次郎』へ移動して故人へ献杯することに。
●12月24日
某旅行会社のパンフレットデザインのプレゼンがあって、終了後デザイン会社M社のOG社長とデザイナーのN嬢とお疲れ様会を日比谷国際ビル地下のスペインバル『BAR ESPANOL LA BODEGA』へ。さすがにクリスマスイブということで店内はカップルや女性客でいっぱい。タパスをつまみながら仕事の成功を祈念してサルー!
●12月25日
お世話になっている漫画家のOKさんの紹介で仕事の相談をしているIT制作会社のSC社と忘年会。先方の会社に近い自由が丘の居酒屋『和旬』へ。若いスタッフの会社なので皆さんの食いっぷりが気持ちよい。この日は急な忘年会がダブルブッキングとなってしまいSC社の方々に途中抜けをあやまりつつ神保町へとんぼ返り。かつての同僚で退社後農業をやっていたSS氏が特別ゲストということでT出版O社長、デザイナーAkiさんのと合流しBar『クラインブルー』へ。
●12月26日
いつも立ち寄る『明治屋2nd』の常連さんによる忘年会が27日に行われるということだったが、27日は仕事がらみのライブ観賞の予定が入ったので個人的に1日早く忘年会ということにしてもらう。この日もけっこう常連の人たちが来ていたので結構店の忘年会っぽい気分であった。新宿の『T's Bar』にも年末の挨拶かたがた覗いてみるとaskさん、DONJUANさんが合流。終電ぎりぎりで帰宅。
●12月27日
広告会社D社のSM氏と恵比寿の『アート・カフェ・フレンズ』にフュージョンユニット和泉宏隆+鳥山雄司のライブに行く。お店はアートを名乗るだけに洋画のエッチングとかが多数掲げられたレストランだが、音響やライティングも装備されていて毎日のようにJAZZのライブが行われているとか。ライブ終了後帰り道が同方向なのでSM氏の地元の落合南長崎のBar『Eurasian』で遅い夕食をかねて飲むことに。
●12月28日
雑誌「40/60」を制作するO氏のZ社の忘年会に参加。場所は原宿キャットストリートのこじんまりしたBar『LoiteR』。大学生の頃はよく来ていたがとんとご無沙汰の原宿で飲むのはいったい何年ぶりだろうか。初めて会う人ばかりだったがそこは業界人の集まりだけに知り合いの知り合いみたいな人も多く、思わぬ人の名前が出てきたりで驚く。ゲストで関係者の友人の台湾青年がいたりしたので最後は英語、中国語が乱れ飛んでわけがわからない状態に。
●12月29日
今年レギュラーで仕事していたものの突然休刊になってしまったK誌のKN編集長と飲み会。世の中はもうすっかり休みモードなのでKN編集長の地元・東久留米の居酒屋『おちゃのこ菜々』でおでんをつつきながら来年の再出発のプランやアイデアを話し合う。お互いお先真っ暗な状況だが来年がいい年であるように頑張りましょう。
●12月30日
S新聞社のH嬢、デザイナーのF嬢と今年最後の仕事の打ち合わせをやった後食事へ。神保町界隈の店もすっかり休みに入っていて閑散としていたがたまたま開いていた中華料理屋の『酔仙飯店』へ。F嬢はこの日が初対面だったが、よく知っている出版社の仕事をしているので共通の知人も多いので驚く。暮れの暮れまで仕事の打ち合わせだったのでなんだか年末という感覚がしないが、この日でやっと仕事納めとなった。
●12月31日
妹と両親の墓参りをした後、石神井公園の蕎麦屋『稲田屋』で年越しそばを賞味。一年の呑みアルキの締めくくりは地元だったが振り返れば今年もよく呑んだ。100年に一度の不況で仕事的には暗くなる話ばかりだったが、こんな時期だからこそかえって憂さ晴らしも必要と割り切ることにしている。新しい年も懐はさびしくとも挫けず元気に笑って杯を重ねるべし。今年一年お付き合いいただいた皆様来年もよろしくお願いいたします。
2008年12月28日日曜日
今年最後のライブ
昨夜は仕事納めのあとお誘いがあって、恵比寿の「アート・カフェ・フレンズ」に和泉宏隆と鳥山雄司のジョイントライブを観に行ってきた。
会場は90人ほどのキャパのギャラリー・レストランなのだが天井が高く音がいいので、最近ではJAZZやシャンソン系のライブスポットとして人気のなかなか良い雰囲気のお店。年の瀬も押し迫った土曜の夜にもかかわらずほぼ満員の盛況で開演まじかに到着したわれわれだったが、なんとか補助の椅子で席を作ってもらう。
和泉宏隆(p)と鳥山雄司(g)は、高校・大学時代(慶応)の仲間元カシオペアの神保彰(dr)とともに「ピラミッド」というユニットを組んでいたのだが、神保は同じ時間に「スウィートベイジル」でやはりライブをやっているとかでこの日は和泉と鳥山にサポートベースが加わったメンバー構成。
フュージョンプレイヤーの第一人者であるお二人ゆえに曲も多彩で、もちろん和泉のオリジナルやピラミッド時代の曲もやるのだが、ミルトン・ナッシュメント、パット・メセニー、チック・コリヤあたりのカヴァーにはじまりエンニオ・モリコーネ、ミッシェル・ルグランといった大御所系から、はたまたドビュッシー、アース・ウインド&ファイアやスティービー・ワンダーまで、幅広い演奏を披露してくれた。
気がつけば休憩を挟んで2時間半を超えるロングライブだったがあっというまの楽しいひと時だった。
ライブを誘ってくれた広告会社のS氏が慶応の1級先輩にあたるので、終了後お二人に紹介していただいたが白髪の和泉氏が自分より二つ三つ若いので妙に自分が年食ったみたいな感覚になった。まあ、逆に歳の近い彼らがエネルギッシュな演奏を続けているわけだから、まだまだ大丈夫と無理やり自分を納得させたのだが。
会場は90人ほどのキャパのギャラリー・レストランなのだが天井が高く音がいいので、最近ではJAZZやシャンソン系のライブスポットとして人気のなかなか良い雰囲気のお店。年の瀬も押し迫った土曜の夜にもかかわらずほぼ満員の盛況で開演まじかに到着したわれわれだったが、なんとか補助の椅子で席を作ってもらう。
和泉宏隆(p)と鳥山雄司(g)は、高校・大学時代(慶応)の仲間元カシオペアの神保彰(dr)とともに「ピラミッド」というユニットを組んでいたのだが、神保は同じ時間に「スウィートベイジル」でやはりライブをやっているとかでこの日は和泉と鳥山にサポートベースが加わったメンバー構成。
フュージョンプレイヤーの第一人者であるお二人ゆえに曲も多彩で、もちろん和泉のオリジナルやピラミッド時代の曲もやるのだが、ミルトン・ナッシュメント、パット・メセニー、チック・コリヤあたりのカヴァーにはじまりエンニオ・モリコーネ、ミッシェル・ルグランといった大御所系から、はたまたドビュッシー、アース・ウインド&ファイアやスティービー・ワンダーまで、幅広い演奏を披露してくれた。
気がつけば休憩を挟んで2時間半を超えるロングライブだったがあっというまの楽しいひと時だった。
ライブを誘ってくれた広告会社のS氏が慶応の1級先輩にあたるので、終了後お二人に紹介していただいたが白髪の和泉氏が自分より二つ三つ若いので妙に自分が年食ったみたいな感覚になった。まあ、逆に歳の近い彼らがエネルギッシュな演奏を続けているわけだから、まだまだ大丈夫と無理やり自分を納得させたのだが。
2008年12月24日水曜日
東京タワーのお土産
東京タワーが出来て50周年なんだそうである。昨夜は様々なイベントが行われた由報道されていたが、確かに多くの人々がタワーに寄せる感慨、思い出があることだろう。
わが身に置き換えてみてもタワーが出来た当初(おそらく昭和35年頃だった)に一家で出かけた覚えがあり、展望台にのぼりその高さに身がすくむ思いをしたのを覚えている。一昨年亡くなった叔母がまだ20代で、ハイヒールをはいて幼児だった妹を抱きかかえ何百段も階段を下りたとその日のことを生前よく述懐していた。
20年ほど前に九州の田舎から中学生になった従兄弟が初めて一人で上京した際、東京見物に連れて行きお約束の東京タワーにも上ったことがある。彼が買った初めての東京のお土産は売店での東京タワーの置物だった。陳列されたケースを食い入るように見つめて両手いっぱいに大人から見ればガラクタにしか思えないお土産を抱えた坊主頭の田舎まるだしの中学生を見て、売店の売り子のオバさんが思わず売り物の紙袋を“これに入れなさい”と渡してくれて、つきそいとしてはすっかり恐縮してしまった。
その帰り路、東京タワーからつけ待ちのタクシーに乗って新宿まで都心を横断した。銀座や皇居、官庁街を窓の中からあれこれ教えてあげていると、今度は年配の運転手さんが“東京見物ですか。いやあ、自分が集団就職で上京したときのこと思い出しますなあ”とメーターをとめて、色々と遠回りをしてくれて思いつく名所に寄ってくれて更に恐縮した。
本当に口が重たい純朴な少年だったので、彼を見ているうちに売店のオバさんもタクシーの運転手さんも自身の「昭和」を投影させてしまったのかもしれない。
おそらく、幾千、幾万のこんな小さな思い出話が東京タワー50年の歴史にはあるのだろう。そんなことをニュース映像を見ながら思い出していた。
その中学生もその後、地元の大学を出て半導体輸出の会社の駐在員として現在イタリアに赴任しているそうである。彼もそのときの東京タワーの思い出をまだ覚えているだろうか?
2008年12月22日月曜日
マンU世界制覇
クラブワールドカップファイナルは結局<順当に>マンチェスターユナイテッドが1-0で南米代表のリガ・デ・キトを下した。
序盤から圧倒的に早いパス回しで試合の主導権を握ったマンUだったが、リガ・デ・キトのDF陣の“堅さ”とGKセバジョスの攻守もあってなかなか決定機をモノにできない。キト側もMFのアルゼンチン人プレイヤー、マンソがゲームをつくりカウンターを狙うもののいかんせん守備に費やす時間が長すぎる。なんとか0-0で折り返したが、後半に入ってすぐビディッチがもつれ合った後相手をひじで打ち一発退場になり、ゲームの流れが急に変わってしまう。マンソを起点にキトも攻勢に転じなんどか決定機を演出するが、これまたガンバ戦に3失点したGKのファンデルサールがファインセーブを連発しゴールを許さない。試合はなかなか見ごたえのある好ゲームへとなった。
しかし後半24分、ワントップに入っていたCロナウドがボールをキープし相手DFを二人ひきつけて左から走りこんだルーニーへ渡し、ルーニーは落ち着いてゴール右隅に狙い済ましたシュートを決め均衡を破った。まさに千両役者同士が演出した見事な得点だった。これを見るだけでも高い入場料を払ったかいがあったというものだ。
結局終わってみればマンUが手こずりはしたが順当に貫録勝ちしたということだろう。大陸別の代表戦というものの大陸に跨る多国籍スター軍団ゆえ勝つのが当たり前と言われればそれまでだが、南米代表も元々この大会にかけるモチベーションはより高いものがあるので、今回も根性は見せてくれたように思う。
特筆すべきは3位決定戦でメキシコのパチューカを破ったガンバ大阪の健闘ぶりだ。
おたがいすばやいパス回しの攻撃的なチームでガチで面白い試合を見せてくれた。日本の単独チームで世界の強豪相手にここまでやれるということを実証してくれたことに感慨深いものがあった。
さて来年から2年間、この大会はUAEへと会場を移すことになるのだが、3年後に再び日本に戻ってきたときトヨタがスポンサーをこのまま続けることが出来るのか、そんな事態になっていないことを願うばかりなのだが。
2008年12月19日金曜日
健闘は称えられるが
クラブワールドカップ準々決勝に“赤い悪魔”マンチェスターユナイテッド登場ということで、横浜国際競技場へ観に行く。この欧州チャンピオンに挑むのはACLを制したガンバ大阪。
実際レベルの差があるのは当然のこととして、どこまでくらいつけるかが焦点。昨年はレッズがミランに0-1で健闘したが、Cロナウド、ルーニー、テベス、ギグスといった破壊力はシャレにならないし、プレミアリーグは現在世界最高峰のリーグだ。さすがにどう考えてもガンバに勝ち目は無い。
ところが長旅の疲れもあるのか、立ち上がりマンUは意外とプレスをかけてこない。そこにボランチに入った遠藤を起点にサイドの安田が果敢に攻め上がり、また播戸の裏への飛出し動き出しも冴え、何度かチャンスをつかみ、惜しいシュートもあった。しかし、前半20分を過ぎだし徐々にエンジンがかかったマンU、Cロナウド、テベスが前を向いてボールを持つとガンバDF陣はあっという間に置いていかれてしまう。そしてセットプレーからあっという間に2点を献上してしまった。
“やっぱりねえ”
“虐殺開始か?”
スタジアム全体に諦めにも似たため息が漏れる。
しかしガンバは押されながらも反撃の機会を狙い続けた。後半29分、遠藤のスルーパスから橋本の折り返しを山崎がGKファンデルサールの壁を破った。
“お見事!”大会がトーナメント制になって以来初めて、準決で欧州のチームに失点させたのだ。
湧き上がるガンバサポーター席。
これに対して、試合を流しながら軽くプレーしていたマンUについに火がついた。ガンバの得点の余韻も冷めないうちにテベスに変わった真打ちルーニーがすぐさま驚異的なスピードで背後からのボールを胸で受けあっさり突き放すゴール。こうなるともう止まらない。その後、5分もしないうちにフレッチャー、ルーニーがガンバ守備陣を粉砕し加点してしまった。
これほどまでに差がつくとはと呆然とするガンバイレブンだったが、ここから彼らは「根性」を見せる。安田の切れ込みがネビルのハンドを誘いPKが与えられる。PK職人・遠藤がファンデルサールの指先を掠めて確実に決める。そしてロスタイムには橋本のミドルが飛び出し3点目をゲット。本気のマンUに対してひるむことなく2点差まで粘ったガンバの戦いぶりには正直よくやったと褒めていいだろう。観客も派手な点取り合戦にみな満足して帰路に着くことができた。
しかし5失点のすべての局面はいかんともしがたい失点で、まあ、このレベル差はどうしようもない。Cロナウド、テベス、ルーニーあたりがスピードに乗り出すとマーカーはついていけないし、枠にきっちり決めてくるシュートにGK藤ヶ谷は反応すら出来ない。セットプレーの高さ含めどれもこれもため息が出るような失点だった。試合後のファーガソン監督の賛辞に西野が社交辞令だろうと言ったのもよくわかる。現場としては完膚なきまでにやられたという意識の方が強いのだろう。
結果的にアジア代表としてまあ恥ずかしくない試合は出来たと言えるかもしれないが、この2点差を埋めるにはまだまだ遥かなる時間がかかる事を思い知らされた。
さて、決勝は日曜日。この日の戦いぶりを見る限りマンUの世界一は疑う余地は無いと思うのだが、ガンバよりははるかにレベルの高いディフェンス力を持つリガ・デ・キトがどこまで耐えられるか、今度は南米の誇りを見せてもらいたいものだ。
2008年12月15日月曜日
週間呑みアルキスト12.1~12.14
●12月2日
夕方打ち合わせのあと広告代理店D社のS氏、プランニング会社N氏と中野のJAZZバー『ZAZIE』で飲み会。早稲田通りに程近い路地にあるこの店はS氏の行きつけなのだが、お客さんたちも地元の常連さんが多くわきあいあいと飲んでいる。マスターが台湾の淡江大学に留学していたということで台湾にいた者同士盛り上り、よくよく話を聞いてみるとその後シンガポールで働いていたということで、まったく自分と同じルートをたどっていたのでさらにびっくり。しかもどうやら同じ頃に在住していたらしいということで日本人のよくたまっているお店の話題を振ってみるとなんと共通の知人が多く、お互い縁は異なものと驚いていた。そのやり取りを聞いていたお客さんの一人が、自分も会社でアジア担当だよと話に加わってきたので勤務先を聞くとN新聞社だという。“自分の兄が同じ会社だよ”と、またまたちょっとした偶然に笑って名刺交換すると、なんとなんと兄の直属の部下だということが判明!以後、深夜まで大騒ぎとあいなった。S氏と一緒じゃなければ絶対来ないであろう店でこんなにも偶然が重なる奇妙な夜であった。
●12月4日
編集制作会社FY社のY社長が打つあわせで来社、夕食を共にする。街はそろそろ忘年会も始まりつつあるのだろうか結構込んでいたので、会社のそばの和風ダイニングの大型店『鶏・旬菜・お酒 てけてけ神保町店』に入りなんとかカウンター席を確保。博多風の水炊きが店の自慢料理ということらしかったので注文してみたが、どうもしょっぱすぎて期待はずれ。店のデザイン等はけっこうこっているのに他の料理もおしなべてイマイチ。早々に切り上げる。
●12月6日
土曜出勤だったがある単行本企画のブレーンストーミングがあり大手町のS新聞社へ。S新聞発行のテレビ雑誌の編集長I氏はかつてライバル関係にあった雑誌の編集長だったこともありよく知っていたが、10年ぶりくらいの再会である。会議終了後I氏と部下のH嬢、TエージェンシーのY氏と大手町の地下鉄に連結したフードコートにある『ビストロ リヨン』で親睦をかねて軽く一杯。ここのシェフはフレンチの名店『三国』出身でなかなか料理もおいしいということで平日のランチタイムは行列ができるそうである。土曜のしかも午後遅い時間だったのでゆったりできたのだが、軽く一杯のつもりが結局ビールからワインへ変わって2本ほどボトルが空いてしまう。しかもせっかく料理に定評のある店だったにもかかわらず軽いつまみのみでひたすら飲んでいたのですっかり酔いが回ってしまい仕事にならず。『いもや 専大前店』で夕食。
●12月8日
編集プロダクションB社のY社長が来社。ここのところの出版不況に加えて景気の後退で先行き不透明なのは紙を主体にした会社ではどこも同じで愚痴のこぼしあいになる。以前Y社長のところの仕事をちょっと手伝ったのでお礼に夕食をおごってくれるということで、景気が悪い話の後で恐縮したが会社の近所のレストラン『SOUP DERI』でゴチになる。
●12月9日
T出版O社長が来社、食事に誘われ雨の中水道橋にほど近い路地にある知る人ぞ知る中華料理屋『大興』へ。安くてうまくて飲めるということで遠くからもわざわざ客が探してやってくるひそかに人気のある店である。
雨にもかかわらず店は込んでいたがなんとか空いていた2人席に座った。ところが隣が数人の大学生で酒が入って大騒ぎしているは煙草のけむりはもうもうと立ち込めているはで閉口する。安くてうまいを味わうにはそれなりの代償もあるが、安くてうまいに勝るものはないので多少のことは仕方がないか。
●12月11日
お世話になっているデザイン会社M社のOG社長と忘年会ということで、M社の女性デザイナー3名とT出版O社長が加わり四谷荒木町のスペイン料理『ラ・タペリア』へ。それにしてもアラフォー(失礼!)のデザイナー嬢たちは実によく食べ飲み、すっかり彼女たちのペースにはまってしまい次々とワインのボトルが空いていく。なかなか楽しく盛り上がった会だったがOG社長にはすっかり散在させてしまった。ごちそうさまでした。
2008年12月14日日曜日
牛のげっぷが問題といわれても
ポーランドのポズナニで開催されていたCOP14(気候変動枠組み条約締約国会議)が約2週間の協議をほぼ終了したが、京都議定書に続く地球温暖化対策の国際枠組み作りにほとんど進展はなかった。ほとんどの国が2020年までに25~40%の削減が必要との認識を持ちながらも途上国と先進国の溝は埋まることはないということのようだ。
今回特に事務局の報告書から明らかになったことのひとつが、農畜産業関連分野は工業や運輸部門に比べ削減対策が遅れており対策強化の急務が訴えられたこと。水田や畑などからは微生物の働きでCO2の20倍もの温室効果を持つメタンが発生することと、家畜の消化管で発生するガス=いわゆる牛のげっぷにも同様のメタンが含まれていて、さらには窒素肥料の利用でCO2の300倍の温室効果がある一酸化二窒素が発生するのだとか。驚くのは現在の農畜産分野での温室効果ガスの排出量は全体の10%相当に達していて、ここ十年で17%あまり増加しているという事実である。
当然この分野の排出は途上国がメイン(約75%)で、人口の増加、肉食の増加で排出は今後も増え続けてしまうのである。経済発展の途上にある国が先にその恩恵を甘受してきた先進国と同等の排出規制は不公平という理屈が国際的な枠組みを阻害しているのだが、途上国は今後の経済発展の工業部門の伸張ということだけではなく、すでに農業部門でも排出の増加が垂れ流されているわけだ。しかも先進国の食糧供給のためには途上国の農畜産業は前提でもあるゆえ、一概に対立の図式だけでは計れない。
以前民放の番組で、松村邦洋が牛のげっぷを吸い取るというオバカな企画をやっていたが、あながち的外れとはいえないところがかえって空恐ろしくなる。たかが牛のげっぷと笑い飛ばせない、事実、このニュースを伝えるロイター電の写真でメタンを集めるタンクを背負わされたアルゼンチンの牛の写真が掲載されていてびっくりした。
昨今のBSE問題で食の安全が問われたが、単に飼育されているだけで環境に悪影響を与えていると決め付けられては牛だって心外だろう。肥料の適正使用や、農地や飼料の改良で改善の道を探るしかないようだが、報告書では特に途上国への技術支援や排出量取引等の政策措置が重要と指摘しているそうである。
来年は丑年。
100年に一度の不況の嵐に見舞われている現在、少しは節制と環境問題も考え高い牛肉を控えてみるのも悪くないかもしれない。それでもお寒い懐具合のときは安くて早くてうまい吉野家は止めようがないけど。
2008年12月8日月曜日
現代史を描いた2本のドラマを観て感じたこと
週末2本のテレビドラマを観た。両方とも戦争をテーマに取って現代史を描いた長時間スペシャルドラマである。
一本目は6日土曜日にテレビ朝日で放送された『男装の麗人~川島芳子の生涯』。清朝の粛親王の王女として生を受け、日本人の大陸浪人・川島浪速の養女となり満州国建国の影で暗躍し、戦後漢奸として処刑された女スパイの一生を描いたもの。
原作は村松友視の同名著作で、村松の祖父にあたる作家・村松梢風が当時川島芳子との交友を通してしたためた実録風小説を題材にとり、彼女の数奇な運命をたどっていくという内容。主演は芳子役に黒木メイサ(晩年は真矢みき)。掘北真希(李香蘭)、仲村トオル(甘粕正彦)、中村雅敏、平幹二郎、高島政伸、吹越満といった豪華な配役である。現代史ものを制作する場合はオープンセット等に金がかかると聞いたことがあるが、日本、満州、上海と舞台が点々とするだけに、テレ朝もかなりの力を入れたのだろう。ただし、内容の方はなんだか駆け足で芳子の生涯を説明的にたどるのみで深みが全然感じられない。時代に翻弄される悲劇の女性の内面を描こうとするのだが、肝心の時代の描き方、雰囲気がちゃっちいので女性像自体も浅薄なものになってしまった感がある。
よもや会社の企業的な姿勢ということもないのだろうが、日本及び傀儡国家・満州国と中国との歴史認識が単純に一元化されてしまい、女真に端を発する清朝と漢民族国家としての中国の相克を日本対中国というようにごっちゃにしていて、川島の存在の意味が全く判然としない。まあ、民放のエンタテイメントにそこまで求めるのも酷かもしれないが、かつて民放でもテレビマンユニオンが手がけたように製作者としての理念、歴史の真相をできるだけ極めたいという熱みたいなものが無いと、現代史ものなんかやめておいたほうがいいだろう。まあ、黒木メイサのチャイナドレス姿は結構「萌え」るものがあったので、それなりにお楽しみはあったんだけどね。
もう一本は7日日曜のNHKスペシャル枠で放送された『最後の戦犯』。これは実際にBC級裁判の横浜法廷で最後の戦犯として裁かれた油山事件の被告・左田野修氏の手記を基にした小林弘忠著『逃亡<油山事件>戦犯告白録』をドラマ化したもの。戦犯ものは現在中居クンのリメイク映画『私は貝になりたい』の大宣伝で変な脚光の浴び方をしているが、個人的にはつい最近、帚木蓬生の長編小説『逃亡』を読んで圧倒されてしまっていたので、そういう意味では戦後の戦犯容疑者の潜伏事例にすごく関心がありタイムリーなものとなった。
主人公に最近の日本映画界で独特の存在感を放ち人気上昇中のARATAを起用したのだが、逃亡下のスリリングな緊迫感や焦燥感、心理的な葛藤や懊悩をよく演じきっていたように思う。超縦割りの日本の軍の命令系統で捕虜虐待の実行為者となった現場の兵を、勝った側が非人道行為を理由に一方的に裁くことができるのか?また、戦争に積極的に加担した日本の警察機構や一般の庶民が、戦犯とされた人間に対して手のひらを返す資格があるのか?ドラマは全編を通して常に問いかけ続けていく。東京裁判史観を右へ習え的なムードで批判する昨今の風潮の中でNHKの看板で正面から戦犯問題を取り組むにはなかなか根性が必要だっただろう。
さらには巣鴨プリズンの同房に朝鮮人戦犯を登場させ国家の狭間で浮かび上がった矛盾を提起するなど、製作者サイドの意欲的な取り組みは大いに評価できる。制作はNHK名古屋だが、ここの局は『中学生日記』や『ながらえば』とか、昔から社会派もので頑張っていたよなあ。
別に民放だからNHKだからと見方を変えるわけではないが、戦争に翻弄される人間像というテーマで見比べたときの質的な差は大きい。戦争の記憶が風化していく時間の経緯のなかでどれだけ現代史の実相に迫れるのか?作り手側の世代がぐっと若くなっていくなか、セットや配役に金を賭けるだけでは歴史が持つ意味まで表現はできない。膨大な資料、情報をこつこつとあたり、原作者やモデルとなった人間にどれだけ近づけるかという熱意、志というものが大前提なのだ。
一本目は6日土曜日にテレビ朝日で放送された『男装の麗人~川島芳子の生涯』。清朝の粛親王の王女として生を受け、日本人の大陸浪人・川島浪速の養女となり満州国建国の影で暗躍し、戦後漢奸として処刑された女スパイの一生を描いたもの。
原作は村松友視の同名著作で、村松の祖父にあたる作家・村松梢風が当時川島芳子との交友を通してしたためた実録風小説を題材にとり、彼女の数奇な運命をたどっていくという内容。主演は芳子役に黒木メイサ(晩年は真矢みき)。掘北真希(李香蘭)、仲村トオル(甘粕正彦)、中村雅敏、平幹二郎、高島政伸、吹越満といった豪華な配役である。現代史ものを制作する場合はオープンセット等に金がかかると聞いたことがあるが、日本、満州、上海と舞台が点々とするだけに、テレ朝もかなりの力を入れたのだろう。ただし、内容の方はなんだか駆け足で芳子の生涯を説明的にたどるのみで深みが全然感じられない。時代に翻弄される悲劇の女性の内面を描こうとするのだが、肝心の時代の描き方、雰囲気がちゃっちいので女性像自体も浅薄なものになってしまった感がある。
よもや会社の企業的な姿勢ということもないのだろうが、日本及び傀儡国家・満州国と中国との歴史認識が単純に一元化されてしまい、女真に端を発する清朝と漢民族国家としての中国の相克を日本対中国というようにごっちゃにしていて、川島の存在の意味が全く判然としない。まあ、民放のエンタテイメントにそこまで求めるのも酷かもしれないが、かつて民放でもテレビマンユニオンが手がけたように製作者としての理念、歴史の真相をできるだけ極めたいという熱みたいなものが無いと、現代史ものなんかやめておいたほうがいいだろう。まあ、黒木メイサのチャイナドレス姿は結構「萌え」るものがあったので、それなりにお楽しみはあったんだけどね。
もう一本は7日日曜のNHKスペシャル枠で放送された『最後の戦犯』。これは実際にBC級裁判の横浜法廷で最後の戦犯として裁かれた油山事件の被告・左田野修氏の手記を基にした小林弘忠著『逃亡<油山事件>戦犯告白録』をドラマ化したもの。戦犯ものは現在中居クンのリメイク映画『私は貝になりたい』の大宣伝で変な脚光の浴び方をしているが、個人的にはつい最近、帚木蓬生の長編小説『逃亡』を読んで圧倒されてしまっていたので、そういう意味では戦後の戦犯容疑者の潜伏事例にすごく関心がありタイムリーなものとなった。
主人公に最近の日本映画界で独特の存在感を放ち人気上昇中のARATAを起用したのだが、逃亡下のスリリングな緊迫感や焦燥感、心理的な葛藤や懊悩をよく演じきっていたように思う。超縦割りの日本の軍の命令系統で捕虜虐待の実行為者となった現場の兵を、勝った側が非人道行為を理由に一方的に裁くことができるのか?また、戦争に積極的に加担した日本の警察機構や一般の庶民が、戦犯とされた人間に対して手のひらを返す資格があるのか?ドラマは全編を通して常に問いかけ続けていく。東京裁判史観を右へ習え的なムードで批判する昨今の風潮の中でNHKの看板で正面から戦犯問題を取り組むにはなかなか根性が必要だっただろう。
さらには巣鴨プリズンの同房に朝鮮人戦犯を登場させ国家の狭間で浮かび上がった矛盾を提起するなど、製作者サイドの意欲的な取り組みは大いに評価できる。制作はNHK名古屋だが、ここの局は『中学生日記』や『ながらえば』とか、昔から社会派もので頑張っていたよなあ。
別に民放だからNHKだからと見方を変えるわけではないが、戦争に翻弄される人間像というテーマで見比べたときの質的な差は大きい。戦争の記憶が風化していく時間の経緯のなかでどれだけ現代史の実相に迫れるのか?作り手側の世代がぐっと若くなっていくなか、セットや配役に金を賭けるだけでは歴史が持つ意味まで表現はできない。膨大な資料、情報をこつこつとあたり、原作者やモデルとなった人間にどれだけ近づけるかという熱意、志というものが大前提なのだ。
2008年11月30日日曜日
週間呑みアルキスト11.17~11.30
●11月18日
デザイン会社M社のO社長と仕事の打ち合わせを兼ねて会食。M社のある曙橋・新坂の割烹『旬菜料理ほしの』で刺身をつまみながら焼酎を飲んでいるうちに仕事の話は何処かへ、結構酔っ払ってしまった。O社長はそのあと仕事に戻るとおっしゃっていたが大丈夫だったのだろうか?
●11月19日
旧知の編集制作会社F社のY氏が企画の相談で夕方に来社。まあ、机に座って企画を考えるよりは飲みながらのほうがいろいろとアイデアが湧くとばかり神保町の蕎麦屋『たかせ』に繰り出す。確かに飲むほどに饒舌になり面白いことを考え付く反面、すぐに忘れてしまうのが難点。“いや~、今日の話、あとでまとめておくわ”とほろ酔いで事務所に戻るが案の定、肝心の事柄の記憶はすっかりデリート状態。
●11月22日
キャロル・キングのコンサートで東京国際フォーラムへ。午後5時からの開演だったため終了時間がいつものコンサートよりは早めだったので、ご一緒したaskさんと有楽町界隈の店にあたりをつけて銀座インズ2Fの居酒屋『銀座 魚や旬』でコンサート評を語らいつつ飲むことに。ビルの中のごく普通の居酒屋だったが料理の値段はやや高め。焼酎のボトルを早々に飲み干して銀座8丁目まで歩きBAR『FAL』で飲み直し。
●11月25日
夕方、女性漫画家のOSさんが来社。仕事の話を少しした後に食事に行くが“餃子が食べたい!”との御所望で神保町『天鴻餃子房』へ。ここのパリパリの焼餃子はビールに実に良く合う。さらに『明治屋2nd』にハシゴ。
●11月27日
久しぶりに大手広告会社D社に勤めるS氏と会食。場所はS氏のホーム・沼袋。沼袋はわが自宅への帰り道にあるのでかえって好都合でもある。夕方早い時間から待ち合わせてS氏が最近家族ぐるみで常連となっているというお店『あきん』に案内される。一見割烹スタイルだが和洋折衷のメニューで家庭的な雰囲気のお店で料理もなかなかイケる。“A(本名)も呼んどいたよ”ということで途中からエッセイストとして活躍する泉麻人が合流。泉麻人は小生の以前勤めていた会社の後輩なのだが、実は泉氏とS氏とは小学校の同級生という関係でもある。このメンバーで飲むのは本当に久しぶりで夜中まで昔話で盛り上がった。泥酔した泉氏をタクシーに押し込んで帰ったが、こちらも翌朝ひどい二日酔い。考えてみれば7時間以上飲みっぱなしだった。
●11月28日
T出版O社長、デザイン会社SB社のAkiさん、S嬢と女性編集者のKBさん、KMさんの6人で食事に。そろそろ年末に近づいた金曜日ということで神保町の周辺のお店はどこも満員状態。白山通りの『台南坦仔麺』にやっとすべり込む。しかしながら隣の席がどうも合コンの真っ最中らしく大盛り上がりでうるさい限り。こちらも3対3の合コン形態ではあるのだが毒気を当てられどうも乗り切れず食事に専念。
●11月29日
土曜出社で仕事をした後、三の酉で賑わうの新宿花園神社を覗くが人のあまりの多さに身動きできない状態なのでほうほうの態で大群衆をかきわけ境内から脱出。そのまま新宿2丁目の『T’s Bar』に立ち寄る。あっというまにもう年の瀬である。お酉さまも終われば正月ももう間近だ。
2008年11月23日日曜日
OH! CAROLE
連休初日、東京国際フォーラムにキャロル・キングのコンサート「Welcome to My LivingRoom Tour」に行く。昨年、メアリー・J・ブライジ、ファーギーとともに17年ぶりに日本のファンの前に姿を見せたが、今回は待望の単独での公演である。
彼女は元夫のジェリー・ゴフィンとともに1960年代初頭から10代でソングライターとして活躍していたわけだが、もうすでに年齢は66歳を数える。“私のリビングルームにようこそ”というコンセプトで舞台上にはソファが置かれ、本人のピアノと二人のギターのサポートメンバーのみによる演奏だが、本当に大人の格調に満ちた落ち着いた雰囲気を醸し出していた。俄仕立ての日本語も交えたMCもハートウォームな人柄を感じさせる。さすがに既に数回の公演をこなしてきたので声は若干割れていたが、素晴らしい声量で70年代大ヒットとなった「Tapestry」の頃と変わらぬ年齢を感じさせないディーバぶりを披露してくれた。
席が2階席のかなり後方だったのでステージ自体はドームコンサート並みにしか見えなかったが、国際フォーラムの音響はコンサートをじっくり堪能するには申し分ない。20分の休憩を挟んでの約2時間、60年代からの彼女のヒット曲の数々に自分の生きた時代を投影させながら聴いていると思わず胸が熱くなってしまう。
まあ、年齢層が高いコンサートではあるが、“一緒に”と促された「A Natural Woman」での客の反応はいまひとつ遠慮がちだったもののアンコールで「So Far Awey」「You've Got a Friend」と続き、最後に「Locomotion」でしめくくったときには期せずして会場はスタンディングオベイション。いや~、実に胸に染み入る素晴らしいコンサートでした。
来月にはWOWOWでの中継があるとかで、もう一度彼女の“リビングルーム”へ招待される日が今から待ち遠しい。
2008年11月22日土曜日
2008年11月20日木曜日
勝ち点3ということでヨシとしよう
ワールドカップ予選の対カタール アウェイ戦。
日本のキープレイヤーの怪我による離脱によって、かなり不安視された戦いだったが終わってみれば3-0の快勝だった。因縁の地ドーハでのトラウマも微塵も感じさせなかったね。
立ち上がりこそ押し込まれたものの中盤を支配した日本は徐々にエンジンの回転を上げ、いつになく“人もボールもよく動く”。前半20分の先制弾も、長谷部の動き出しの早さにマークがずらされ達也が良く裏に飛び出した。
カタールはなぜか自慢の帰化選手を中心にした攻撃陣が鳴りを潜め、日本の不安材料だったDFにプレッシャーをかけることが出来ず、玉田のファインゴールで2点目をくらったあたりで戦意を喪失してしまったようだ。3点目の俊輔の狙い済ましたピンポイントクロスはお見事としか言いようが無い。
まあひとまず予選を通して前半のヤマを乗り切った感があるが、岡ちゃんも会見で言っていたように“まだなにも得たわけではない”。次戦年明けからの首位オーストラリアとの直接対決はじめ、今後も気を緩められる状況が無いことには変わりがないのは確かだろう。
今回ラッキーにもボロが出なかったDF陣に早く主力が復帰してもらいチームの底力を挙げていってもらいたいものだ。
達也が攻撃陣に加わるとやはり突破力が違う。森島なきあと、この手の読みの良い動きとドリブルで仕掛けられる選手は貴重だということを痛感(岡ちゃん、お願いだからまた壊さんでくれい)。長谷部の運動量も光った。若手も皆それなりに頑張っていたな。まあ、岡ちゃんのクビがつながったのは良かったのか悪かったのか、それでもアウェイの勝ち点3はいつだって最高の結果(byジーコ)ではあるのだが…。
2008年11月18日火曜日
週間呑みアルキスト 11.1~11.16
●11月4日
先月の台湾旅行をご一緒したH社U氏とデザイナーK氏と3人で旅行の打ち上げ。いつもの『明治屋2nd』にて待ち合わせの後、神保町で一押しの中華料理『源來軒』へ。神保町が長いU氏が店の裏メニュー“にんにくの丸ごと揚げ”を注文。油で揚げたパリパリの皮をはぐとホクホクの実が現れ食感、味とも絶妙。ホクホクにんにくを肴に甕だし紹興酒をあっというまにボトル2本あけてしまった。さらに靖国通りに面したアート装飾がお洒落な『クラインブルー』でウイスキーを飲んだ後、再び出発点の『明治屋2nd』に帰還。終電ぎりぎりまで呑んでしまったので荻窪経由でタクシー帰宅。秋も深く肌寒い気候ながらタクシーに乗ったとたん運転手さんが即窓を開けていたので、“にんにく丸ごと揚げ”の威力に遅まきながら気づく。『源來軒』以降接触した人、ごめんなさい。
●11月6日
K映画のA氏とK書店のI氏と久々の飲み会。お二人は大の格闘技ファンでたまに集合して格闘技談義で盛り上がっているのだが、今回の会場もやはりゆかりの『アントニオ猪木酒場 新宿店』。店内はもう全面ボンバイエモードでサラダを頼むと店員さんたちの元気コール“いち、にい、さん、(サラ)ダアー!!”が響き渡る。貴重な展示物も広い店内にところせまく感じるほど飾られておりアントニオ猪木のファンにとってはたまらない。料理もボリュームたっぷりで元気が出ること間違いなし。
●11月7日
ご近所のT出版O社長、デザイン会社S社Akiさん、カメラマンのN氏で最近発掘した“鉄人”出演店主のいる神保町『東方園』で食事。あやしい中国語を操るO社長はなぜかここのフロアのおばさんにすっかり気に入られていて注文外のサービス料理が何品も出てくる!ビール党のO社長に付き合っていると料理が佳境に入る前に決って腹が膨れ満腹になってしまうので追加のサービスも結構ツライ。
●11月10日
帰りがけいつものように『明治屋2nd』に立ち寄ろうと思ったら臨時休業。前日、日本シリーズで西武が優勝したので巨人ファンのマスターはショックで寝込んだのかもしれない。すっかり寒くなったこともあったので新宿2丁目のひいきのラーメン屋『博多天神』で腹ごなしをして、久々にすっかりご無沙汰の『T’s Bar』を覗くと、ここでもお客さんたちが前日の野球の話題で持ちきり。いよいよ野球のシーズンも終わりが近づいた。
●11月11日
T出版O社長、デザイン会社S社Akiさんといういつものメンバーで小川町の『大連飯店』で食事。大連を標榜する中華料理店も珍しいが、海鮮中心の料理はどれもなかなか美味しかった。食後は神保町に戻り、八重山出身のお姉さんが切り盛りするダイニング『東京アチコーコー』へ。記念写真を撮ってもらったらさっそくお店のブログに掲載されてしまう。
●11月13日
今シーズンのプロ野球の最後を飾るアジアシリーズを観戦しに東京ドームへ。日本チャンピオンの西武はけが人続出と外国人帰国のため韓国のSKワイバーンズに苦しい戦いを強いられ、疑惑の判定もあって惜敗。盛り上がらないスタジアムにすっかり気分も暗くなって球場を後にしたが、水道橋の中華料理『鐘楼 水道橋駅前店』で気分を直して激辛の火鍋に挑戦。2色に分かれたスープの辛い方は、鷹のつめがびっしり表面を覆い見るからに汗が吹き出そうになるが、肉や野菜を入れて食すると意外とまろやかで食べやすい。調子に乗ってぱくついたが明日の朝のトイレタイムが思いやられる。
●11月14日
前日に続きO社長と、それにAkiさんが加わって東京ドームに台湾統一ライオンズ戦を観に行く。試合は日本シリーズMVPの岸の好投と、台湾のエースの投手戦でスリリングな展開となるが、なんとか2-1の勝利。台湾応援団の楽しい応援もあって前日とはうって変わっていい気分で野球観戦をエンジョイできた。試合後はやはり水道橋で中華料理。チェーン展開している『香港食彩酒房 桂園』へ。このメンバーで中華を食べるのはこの週3回目。仲が良いのか、他に芸がないというか、なん“ちゅうか”である…。
素晴らしき台湾野球“球迷”隊
アジア各国のプロ野球チャンピオンチーム同士で競う『アジアシリーズ』は、結局埼玉西武ライオンズが優勝し、この大会日本勢の4連覇となった。渡辺監督はリーグ、クライマックス、日本シリーズとあわせて4度宙に舞ったことになる。
決勝までの道をたどると、西武は韓国のSKワイバーンズに3-4で敗れたものの、台湾の統一ライオンズを2-1で破った後、中国の天津ライオンズに16-2で大勝した。SKが統一に4-10で敗れる波乱があったため3チームが2勝1敗で並んだが失点率で西武と統一が決勝に進んだのであった。
決勝は統一の健闘と西武の貧打で投手戦となり9回裏まで0-0という緊迫(?)の試合となったが、二死一塁から佐藤の中前安打で、一塁ランナーの石井が長躯ホームインしサヨナラ勝ちという劇的な幕切れとなった。
西武の偉業達成に別にケチをつけるわけではないが、けが人や外国人選手の帰国でスタメンのうち3人だけしかレギュラーがいないというシャビーなメンバーで戦わざるを得なかったことは、罰ゲームとさえ言われる過密日程という面では同情する部分も多々あるかもしれないものの観るものにとって極めて興を削ぐことになったのは残念な限りである。さすがに、岸、湧井のエース級の投手力は素晴らしかったが、実力で差がある中国を除き、韓国には力負けし、統一にも辛勝という結果にもかかわらず優勝できたのはラッキーとしか言いようがない。
そんなベストの力で臨むべくもない事情もあってだろう、毎年、観客動員も視聴率も取れないので、今大会から冠スポンサーのコナミが降りてしまいテレビ中継もCS局のJスポーツのみ ということで大会の存続そのものを疑問視する論調がにわかに聞こえ出したのもいたしかたがないのだろう。
それでも台湾や韓国からの(特に台湾の)熱心な応援は毎回本当に感心する。日本のパターナイズされた応援コールや歌に比して本当に終始一生懸命にかつ、めちゃくちゃエンジョイしている彼らの応援風景を見ていると微笑ましくなってくる。野球観戦を“楽しむ”原点を逆に教えてくれるようで、毎年彼らのベンチサイドで一緒に応援するのを楽しみにしていて今年も楽しませてもらった。
彼らの熱い応援がある限り、日本側のモチベーションがいかに低かろうがこの大会の存続する意義は大きいと個人的には確信している。
台湾は今年、再び八百長スキャンダルに見舞われ来季からついに4球団でリーグの覇を競うことになっってしまった。むしろこちらのほうのリーグ存続のほうが心配である。
実力的にも日本とアジアの差は縮まり試合自体もスリリングとなってきた。
大会のレギュレーションややり方しだいではまだまだ盛り上がる方策はあるのではないだろうか?
なんといっても悲願の初優勝に向け来年も底抜けに明るい応援席の彼らに再会したいものである。
辛苦了
再見!
2008年11月14日金曜日
シリア戦の成果は?
昨夜のテストマッチの対シリア戦は、野球のアジアシリーズを観にいったためVTRでの観戦。
全般的な感想で言えば3点とって勝った結果はともかく、シリアのコンディションが悪すぎてあまりカタール戦への参考にはならなかったことかな。まあ、もともと中東でくくっただけで同じアラブといってもシリアやヨルダンのプレースタイルとガルフ諸国のスタイルは全然違うし、アフリカ系の帰化選手が多いガルフ諸国の身体的な特性も全然異なる。まあそんなことに目をつぶったとしてもシリアから遠路連れてきて満足に調整が行われないまま試合に借り出された相手では、実戦的なシュミレーションを行おうとしても不可能だ。
岡田も会見でその点を質問され“(カタール戦で)何も保証してくれるものではない”と言っていたのでまあ重々承知なのだろうが…。
それでも前半日本はよく前線でプレスをかけていたし、長友のサイドからの果敢な攻めによる早い時間での得点は良かった。中村憲剛も相手のマークが緩かったのでかなり好きにプレーが出来た。中澤の怪我によってテストの最大の注目点だったセンターバックのコンビネーションは、ちょっと対応の遅さに不安が残る。寺田は高さはあるので上がったときの武器にはなるかもしれないがディフェンスではイマイチ。高木はまだまだ真剣勝負の代表戦では荷が重い。カタールは、早いカウンターと日本の背後の嫌らしい位置に長いロングパスを通してくることになるだろうから、闘莉王が上がったときのマークの受け渡しとかも徹底する必要がある。カタールの気温40度近い環境では後半までプレスをかけられ続けることは出来ないだろうし、相当攻め込まれることは覚悟しなければならないだろう。
カタールは過去勝ったことが無く苦手な相手だが、ここで勝ち点を落とすと本大会出場は相当厳しくなるのは言うまでもない。灼熱の中東でのアウェイ戦はここを乗り切れば無くなリ年明けからの戦いを計算できるようにもなるはず。今度の戦いを正念場と踏んで苦しい状況を凌ぎきってもらいたい。
大久保もモリシに捧げる飛行機ポーズは本番で見せて欲しいぜ。頼むよ、ホント。
2008年11月10日月曜日
頑張れナベQ
プロ野球日本シリーズは若き埼玉西武ライオンズが大接戦の末、読売ジャイアンツを下した。
西鉄ライオンズファンとしては、福岡から球団を奪った現在の埼玉西武にはそんなに思い入れは無いのだが(西武沿線に住んでいても好きになれないんだなあ)、幼少時から身に染み付いている筋金入りのアンチジャイアンツの習性から、やはりライオンズに肩入れしていた。
西武のスタメン全員の年俸を足しても李スンヨブ一人に負けてしまうという超金権球団を相手に、若い選手たちがはつらつと戦って勝利したことは誠にもって嬉しい限りだ。
一夜明けて、ナベQこと渡辺正信監督の采配が称賛されている報道を見るにつけ、確かにシリーズ通して選手起用といい、強気の戦術といい、見事な指揮官ぶりだった。
本人は「こんな1年目の駄目監督」と卑下していたが、なんのなんの1999年に台湾の年代勇士隊にコーチ兼任投手として渡って大活躍して以来、西武の二軍コーチ、監督として現場で長く指導者の道を歩んでいた経験は実は相当修羅場を経ていると言ってよい。望めば他球団の4番やエースでも金で買い揃えてくれる球団の監督の鼻を明かしてくれて本当に溜飲を下げさせてもらった。
なんといっても渡辺監督は台湾で同時期に駐在し“仕事”で苦労をした人だし、それに“髪型”(!)だって他人とは思えない。個人的には妙に親近感が沸いてしまうのである。
本来ならWBCの指揮も執るべきだと思うが先ずは来週からのアジアシリーズだ。奇しくも4チーム中3チームまでがライオンズになってしまったが(天津獅子隊、統一獅子隊)、是非とも薄きたてがみを振り乱しつつアジアの頂点に立つべく頑張って欲しい。
西鉄ライオンズファンとしては、福岡から球団を奪った現在の埼玉西武にはそんなに思い入れは無いのだが(西武沿線に住んでいても好きになれないんだなあ)、幼少時から身に染み付いている筋金入りのアンチジャイアンツの習性から、やはりライオンズに肩入れしていた。
西武のスタメン全員の年俸を足しても李スンヨブ一人に負けてしまうという超金権球団を相手に、若い選手たちがはつらつと戦って勝利したことは誠にもって嬉しい限りだ。
一夜明けて、ナベQこと渡辺正信監督の采配が称賛されている報道を見るにつけ、確かにシリーズ通して選手起用といい、強気の戦術といい、見事な指揮官ぶりだった。
本人は「こんな1年目の駄目監督」と卑下していたが、なんのなんの1999年に台湾の年代勇士隊にコーチ兼任投手として渡って大活躍して以来、西武の二軍コーチ、監督として現場で長く指導者の道を歩んでいた経験は実は相当修羅場を経ていると言ってよい。望めば他球団の4番やエースでも金で買い揃えてくれる球団の監督の鼻を明かしてくれて本当に溜飲を下げさせてもらった。
なんといっても渡辺監督は台湾で同時期に駐在し“仕事”で苦労をした人だし、それに“髪型”(!)だって他人とは思えない。個人的には妙に親近感が沸いてしまうのである。
本来ならWBCの指揮も執るべきだと思うが先ずは来週からのアジアシリーズだ。奇しくも4チーム中3チームまでがライオンズになってしまったが(天津獅子隊、統一獅子隊)、是非とも薄きたてがみを振り乱しつつアジアの頂点に立つべく頑張って欲しい。
2008年11月7日金曜日
筑紫さんの思い出
筑紫哲也さんががんとの闘病の末、7日、亡くなられた。享年73歳。
筑紫さんにはテレビ情報誌の編集者時代に一度、対談に出ていただいた。もう20年は昔のことでまだANBの「日曜夕刊こちらデスクです」のキャスターの頃だったと思う。当時NTVの「久米宏のTVスクランブル」でコメンテーターをやっていた福富達さんと銀座の三笠会館で「テレビジャーナリズム論」をテーマに語ってもらった。
お互いに早大の同窓で、読売と朝日の政治部の先輩後輩とあって激論とを交わすというよりは、新聞とテレビの報道スタンスの違いのようなものを経験談を交えて和気藹々と楽しく語っていただいた覚えがある。
その時の筑紫さんは、歯切れがよくぽんぽんと語る日本橋生まれの福富氏に対し、3年後輩ということもあったのか遠慮がちに与えられたテーマを言葉を選びながら訥々と語られていた。それはあたかも読売と朝日の出自が色濃く出ているようで面白かったし、なによりもすごく真面目な人だったという印象が強い。
その後の長きにわたるTBS「NEWS23」での活躍はテレビジャーナリズムの一つのスタイルを確立したし、その意味でも日本の放送史の一頁を書き加えたといってよいかもしれない。ご自身が目指していたウォルター・クロンカイトに比しても決して恥ずかしくない業績を残されたのではないだろうか。
そのリベラルな政治的立場と白黒をはっきり断じない論調から批判の声も多かったが、昨今の報道の芸能化や右旋回したコメンテーターがもてはやされる時代に、歯がゆいほど真面目に報道に向き合っていた筑紫さんの存在意義を今になって貴重に思ったりもする。
ご冥福をお祈りしたい。
筑紫さんにはテレビ情報誌の編集者時代に一度、対談に出ていただいた。もう20年は昔のことでまだANBの「日曜夕刊こちらデスクです」のキャスターの頃だったと思う。当時NTVの「久米宏のTVスクランブル」でコメンテーターをやっていた福富達さんと銀座の三笠会館で「テレビジャーナリズム論」をテーマに語ってもらった。
お互いに早大の同窓で、読売と朝日の政治部の先輩後輩とあって激論とを交わすというよりは、新聞とテレビの報道スタンスの違いのようなものを経験談を交えて和気藹々と楽しく語っていただいた覚えがある。
その時の筑紫さんは、歯切れがよくぽんぽんと語る日本橋生まれの福富氏に対し、3年後輩ということもあったのか遠慮がちに与えられたテーマを言葉を選びながら訥々と語られていた。それはあたかも読売と朝日の出自が色濃く出ているようで面白かったし、なによりもすごく真面目な人だったという印象が強い。
その後の長きにわたるTBS「NEWS23」での活躍はテレビジャーナリズムの一つのスタイルを確立したし、その意味でも日本の放送史の一頁を書き加えたといってよいかもしれない。ご自身が目指していたウォルター・クロンカイトに比しても決して恥ずかしくない業績を残されたのではないだろうか。
そのリベラルな政治的立場と白黒をはっきり断じない論調から批判の声も多かったが、昨今の報道の芸能化や右旋回したコメンテーターがもてはやされる時代に、歯がゆいほど真面目に報道に向き合っていた筑紫さんの存在意義を今になって貴重に思ったりもする。
ご冥福をお祈りしたい。
2008年11月2日日曜日
週間呑みアルキスト 10.17~10.31
●10月17日
JL657便で高雄へ。同行は大手出版社S社のOBで現在はS社の関連会社の役員をされているU氏と、グラフックデザイナーのK氏。高雄到着が夜の10時過ぎとあって早速、高雄最大の六合夜市へ出向き屋台を冷やかしながら台南担仔麺の店で麺や小菜をつまみに台湾ビールでまずはのどを潤す。帰りに熱々の胡椒餅を食べて腹いっぱいに。
●10月18日
日中は高雄市内を観光。昼食は高雄港の沖合いの半島・旗津へフェリーで渡り海鮮料理街へ。活魚の入った水槽を並べ軒を連ねる海鮮レストランを一通り見て歩き、水槽の魚介類が一番充実していた『冠洲活海産』という店に決定。伊勢海老を刺身と味噌汁にしてもらい、石斑魚(ハタの一種)の清蒸、蛤のホイル焼き、A菜(青菜)炒め、炒飯を注文。伊勢海老を刺身で食べる贅沢!至福の時間である。昼から三人で台湾ビール3本に紹興酒1本空ける。
夕方、新幹線で台中へ移動。ホテルにチェックインした後夕食へ。成都路にあるオールド上海のイメージで人気のレストラン『上海新楽園餐廰』で東坡肉、上海湯包、蝦焼売、鶏と茸のスープ、糸瓜炒め、炒飯と昼に続き食べまくる。ここでも台湾ビールを2本に紹興酒1本を鯨飲。
腹ごなしに日本時代の古民家を改造した茶芸館『無為草堂』で高山茶を飲みながら油を落とす。
●10月19日
朝から車をチャーターし古都・鹿港を訪れる。台湾最大級の馬祖廟(天后宮)に参拝し九曲巷と呼ばれる古い煉瓦の路地を見学。結構歩いたところで昼食。お店はドライバー推薦の店『木生小吃部魚翅専売店』という問屋のような海鮮料理屋。鼠ハタの清蒸と味噌汁、ボイルした海老、とこぶしのステーキ、蛤炒め、焼きそばで満腹に。再び午後いっぱい鹿港観光後台中へ戻り、新幹線で台北へ。
台北のホテルチェックイン後、ちょっと遅めの夕食。超有名店『鼎泰豊』は日曜日とあって黒山の人だかりだったので同じ永康街の小龍包の名店のひとつ『群香品』に入る。小龍包に蟹粉焼売、蒸し餃子に鶏のスープ、豚耳、キャベツ炒めに炒飯を選ぶ。食後は台北の茶芸館の老舗『紫藤廬』へ。やはり古い日本家屋を改造した店で畳の部屋で和みながら凍頂烏龍茶でこの日も内臓の油落としに専念。さらに深夜までやっている永康街のBar『CUBE』で飲んだくれる。
●10月20日
午前中、故宮博物院を見学した後、昼食は圓山大飯店の広東料理『金龍餐廰』で飲茶。午後は基隆と九份まで足を伸ばす。九份でも『阿妹茶楼』で高山茶を賞味。台湾旅行もこの日が最後の夜。夕食は台北に来るたびに一度は訪れるごひいきの江浙料理『秀蘭小吃』へ。蒸し鶏の冷製、糸瓜と蛤の清炒、無錫排骨(甘辛煮のスペアリブ)、白菜獅子頭(ロール白菜の肉団子)、剥き小エビの炒め物と平らげ、お店の名物の菜飯(青菜まぶしご飯)を締めで頼むと残念ながらこの日は出来ないとのことで白飯で代用したが、おおむね満足。食後はマッサージでじっくりもまれた後、林森北路(日本人クラブ街)で打ち上げ。駐在時代からいきつけの『麻美』で台湾美人に囲まれカラオケ大会、気がつくとシーバスのボトルが軽く空いてしまっていた。
●10月21日
JL648便にて帰国。桃園国際空港の点心ショップにて台湾ビールで最後の乾杯。思えばよく食い飲んだ4日間であった。成田到着後、仕事の連絡が沢山入っていたので会社に立ち寄りメール連絡をした後、『明治屋2nd』に顔を出して帰国報告。
●10月24日
『明治屋2nd』で台湾に同行したお二人と反省会。お二人とも“すごく楽しかったし美味しかった”十分に満喫できたと感謝される。
●10月27日
横浜みなとみらいでの取材終了後、同行したライターのraku氏と『ハードロックカフェ』で軽く一杯。世界中に展開するロックファン向きのお店ということなのだが(店内装飾とか)、なんか雰囲気が健全すぎて不良オヤジロッカーとしてはいまひとつ落ち着かない。
●10月30日
品川での打ち合わせの後、T通信NM氏、HR氏と品川駅高輪口のパチンコ屋の地下=秀和品川ビルの居酒屋街でちょい飲み(店名は失念)。開発著しい品川でここは昭和から時間が止まったように小さな居酒屋がひしめいていて、安サラリーマンのオジサンたちのサンクチュアリとなっている。ハッピーアワーの生ビール中ジョッキで200円は安い!銀杏、エイヒレ、ポテトサラダをつまみにちょいと一杯が二杯に、三杯に。
●10月31日
この秋休刊となった雑誌「カイラス」編集部の中締めのお疲れ様会に参加。場所はおしゃれな雑誌らしく六本木の隠れ家的ワインバーの『祥瑞』。お店が選んでくれたワインも食事もすごく美味しかった(茹でたイベリコ豚は絶品!)。突然の休刊でバタバタしていたのも一段落ついたのか皆さん意外と晴れやかで、不景気な話はぶっ飛ばせとばかり2次会のBar『狼屋』で店においてあるドラムセットとギターで久々深夜まで大騒ぎ。お疲れ様でした。
2008年10月26日日曜日
東京国際映画祭
毎年、新しいアジア映画の上映を楽しみにしている東京国際映画祭だが、今年は開催期間前半が台湾旅行中だったためと、仕事の雑事が重なってしまったため、スケジュールを縫ってやっと2本だけ観ることができた。
一本は台湾の高校生たちの青春群像劇の『九月の風』(原題『九隆風』)。香港の名優・曾志偉が中・香・台でプロデュースした青春映画3部作の台湾編で、彼曰く一番よくできているということから単独での東京映画祭出品となった作品だ。1996年の台湾・新竹の高校が舞台。ちょっとワルだが皆仲良くつるんでいる9人組のほろ苦い人生の旅立ちを描いてゆくのだが、1996年という設定は台湾のプロ野球界で八百長事件が発覚し一大スキャンダルとなった年でもあり、主人公の少年たちも当時の台湾が野球人気が最高潮だった背景から全員が人気球団の時報イーグルス(その後、事件の余波で消滅する)のファンである。彼らの輝かしい青春の日々に影を指すようにドラマの進行とともに、実際のニュース映像で八百長事件がクローズアップされ、彼らの青春の終焉を暗示させるのである。監督は新鋭の林書字。新竹は監督の出身地であり、いわばルーカスの『アメリカングラフィティ』にも共通する原体験の映像化といえるのだろう。主役の台英混血の鳳小岳はじめ、張捷、王柏傑らの台流スターたちが等身大の高校生を熱演、こちらも皆良い感じにキャラが立っていてそれぞれに感情移入できる。また彼らを取り巻く初家晴ら女生徒たちも皆、大人への背伸びの反面揺れる心を内包する演技が本当に可愛く魅力的だ。
折から台湾では再び米迪亜T・REXという新球団の八百長事件が勃発しており、皮肉にもこの映画に妙なリアリティをもって観ることができた。
もう一本はマレーシア映画の『ポケットの花』(原題『口袋的花』)。マレーシアの公立小学校に通う中華系の兄弟にフォーカスを当てて、マレー人との民族融和の中で暮らしている子供たちのほのぼのとした日常を描いたもの。監督も中華系の若手監督・劉城達(リュウ・セン・タック)。いわばマレーシア版の『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』といった感じの作品で、子供たちの周囲のさまざまな民族の大人たちがまた皆どこかネジが緩んだ人ばかりで可笑しい。決して幸せな環境ではない子供たちなのだが、彼らの行く末にあまり不安を感じさせないところが、マレーシアというおおらかな東南アジア的な国柄も感じさせる。映画的にはさしたるドラマは起こらないものの見終わったとき心が和む、そんな小品である。
今年は残念ながら2本だけしか観ることができなかったが、それは何もこちらのスケジュールの問題だけではない。映画祭の「アジアの風」部門のキュレーターが従来の暉峻創三氏が変わってしまったせいか、香港、台湾の作品がぐっと減ってしまったことも一因ともいえる。出品国のバラエティが富んだのは良いが、韓国映画偏重のきらいもあり、このあたりは台湾・香港映画ファンとしてはいただけない。それからメーン会場を六本木ヒルズに移して3年余りたつが相変わらず映画祭ムードが皆無の一体感の無さ、寒々しさは何とかならないのだろうか?
一本は台湾の高校生たちの青春群像劇の『九月の風』(原題『九隆風』)。香港の名優・曾志偉が中・香・台でプロデュースした青春映画3部作の台湾編で、彼曰く一番よくできているということから単独での東京映画祭出品となった作品だ。1996年の台湾・新竹の高校が舞台。ちょっとワルだが皆仲良くつるんでいる9人組のほろ苦い人生の旅立ちを描いてゆくのだが、1996年という設定は台湾のプロ野球界で八百長事件が発覚し一大スキャンダルとなった年でもあり、主人公の少年たちも当時の台湾が野球人気が最高潮だった背景から全員が人気球団の時報イーグルス(その後、事件の余波で消滅する)のファンである。彼らの輝かしい青春の日々に影を指すようにドラマの進行とともに、実際のニュース映像で八百長事件がクローズアップされ、彼らの青春の終焉を暗示させるのである。監督は新鋭の林書字。新竹は監督の出身地であり、いわばルーカスの『アメリカングラフィティ』にも共通する原体験の映像化といえるのだろう。主役の台英混血の鳳小岳はじめ、張捷、王柏傑らの台流スターたちが等身大の高校生を熱演、こちらも皆良い感じにキャラが立っていてそれぞれに感情移入できる。また彼らを取り巻く初家晴ら女生徒たちも皆、大人への背伸びの反面揺れる心を内包する演技が本当に可愛く魅力的だ。
折から台湾では再び米迪亜T・REXという新球団の八百長事件が勃発しており、皮肉にもこの映画に妙なリアリティをもって観ることができた。
もう一本はマレーシア映画の『ポケットの花』(原題『口袋的花』)。マレーシアの公立小学校に通う中華系の兄弟にフォーカスを当てて、マレー人との民族融和の中で暮らしている子供たちのほのぼのとした日常を描いたもの。監督も中華系の若手監督・劉城達(リュウ・セン・タック)。いわばマレーシア版の『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』といった感じの作品で、子供たちの周囲のさまざまな民族の大人たちがまた皆どこかネジが緩んだ人ばかりで可笑しい。決して幸せな環境ではない子供たちなのだが、彼らの行く末にあまり不安を感じさせないところが、マレーシアというおおらかな東南アジア的な国柄も感じさせる。映画的にはさしたるドラマは起こらないものの見終わったとき心が和む、そんな小品である。
今年は残念ながら2本だけしか観ることができなかったが、それは何もこちらのスケジュールの問題だけではない。映画祭の「アジアの風」部門のキュレーターが従来の暉峻創三氏が変わってしまったせいか、香港、台湾の作品がぐっと減ってしまったことも一因ともいえる。出品国のバラエティが富んだのは良いが、韓国映画偏重のきらいもあり、このあたりは台湾・香港映画ファンとしてはいただけない。それからメーン会場を六本木ヒルズに移して3年余りたつが相変わらず映画祭ムードが皆無の一体感の無さ、寒々しさは何とかならないのだろうか?
2008年10月23日木曜日
台湾への旅
先週末から久々に台湾へ行ってきた。
今回の旅行は高雄から入って北上し、台中、鹿港、台北と新幹線で移動した。
台中は昨年末に野球の北京五輪予選で訪れたが、南部の高雄や鹿港を訪れるのは5年ぶりだ。
詳細についてはおいおい「亜洲南洋倶楽部」の方で書いていこうと思っているが、天候にも恵まれ時間をかけて古都・鹿港を散策できたのもよかったし、自分にとって第二の故郷的な懐かしさと居心地の良さを味わうことができた。
印象的だったのは高雄や鹿港に日本人観光客の姿が極めて少ないのは昔から変わらないが、その分、台北には日本人であふれかえっていたこと。故宮や台北101、鼎泰豊といった定番や最近人気の九份あたりではどこでも日本語が飛び交っていた。円高差益はさほど感じないが、むしろ景気の悪化や燃油サーチャージの上乗せで遠い欧米を避け近場を選ぶ傾向が顕著になったということなのだろうか。
中国本土の観光客受け入れを公約にした馬英九政権だったが、こちらのほうは手続きの煩雑さや景気の悪化なども影響したのかあまり成果が上がらず、やはり日本人観光客誘致がより実効性が上がると受け入れ側もシフトを変えているようにも聞いている。
反面、駐在員御用達の飲み屋やレストランはガラガラで、駐在員はどんどん減る一方と昔のなじみの店で嘆かれた。さらに中南部の観光地は逆に海外旅行を控える台湾人の国内観光客でどこもいっぱいだったのもちょっと気になったところだ。
ともあれ、美味いものをたらふく食べまくり、体重増加を気にしつつもリフレッシュできたのはなにより。世界中が景気の悪化に動きが取れなくなってきている中、じっとしていても展望が開くわけでもないしね。
2008年10月17日金曜日
週間呑みアルキスト 10.5~10.16
●10月7日
KS社のK部長が夕方来社しているところに、かつてK社時代の先輩M氏が偶然にも顔を出してくれたので、こうなりゃ共通の知人で近所に会社を構えるT出版のO社長も呼び出しちまえ、ということで事務所の隣の『明治屋2nd』の開店と同時に元K社のOB会が始まる。この日は別口で、名古屋からK社時代の後輩が訪ねてくる予定もあり(後に事務所で合流)、夜遅くまでK社デーとなってしまう。
●10月8日
前日に引き続き、旧K社の女性誌のスタッフだったT嬢とI嬢が来社、やはり夕方早い時間からの飲み会となってしまう。まだ周辺の飲み屋が開いていないのでビアホールの『ランチョン』でウェイティングビール。その後、居酒屋の『名舌亭』へ移動。T嬢は声が大きくその上大はしゃぎするので案の定お店に迷惑をかける。なかなか気炎が収まらず、更に『明治屋2nd』へ移動しハイテンションの夜は続く。
●10月10日
例のごとく仕事の後に『明治屋2nd』に顔を出すと、近所のデザイナーK氏、H社のU氏が既に呑んでいた。お二人とは翌週末から台湾へご一緒させていただくので、事前学習にと『台南担仔麺』へ移動し台湾料理と紹興酒で予習に勤める。
●10月11日
K誌K編集長と2週連続の土曜打ち合わせ。その後、神保町『たかせ』にて日本酒と蕎麦の夕食。さらに帰りの方角が同じなので新宿2丁目の『T's Bar』に付き合わせる。
●10月15日
久々にサッカー日本代表の応援で浦和美園の埼玉スタジアムへ。手痛い引き分けの結果に消耗しきって東京方向へ即帰り。同行のask氏と神楽坂の蕎麦割烹『まろうど』で遅い夕食兼呑み。カウンターの背後のテーブル席で聞きなれた声がしたので振り返ると、K社の販売部の人たちが宴もたけなわで、しばし近況報告を交わす。先に店を出て行く際にボトルで入れた蕎麦焼酎を進呈されたので有難く頂戴した。
●10月16日
仕事後『明治屋2nd』で軽く呑んでいると、T出版のO社長が通りかかりお相伴させる。翌日から台湾なので深酒はしないよと断ったが、O社長も沖縄出張だそうで、この面子では珍しく軽く切り上げる。帰りに池袋駅の火災事故に巻き込まれ大幅にダイヤが乱れ、披露困憊の帰宅となってしまう。慣れないことはするもんじゃない。
2008年10月16日木曜日
駒も気迫も物足りない!
ワールドカップアジア最終予選のホーム初戦、対ウズベキスタン戦は痛すぎるドローに終わった。
当日埼玉スタジアムに向かう電車はホームに人があふれているという理由で何度か時間調整で止まった。試合前、久々に5万5千の大観衆でスタジアムは埋めつくされヒリヒリするような真剣勝負への期待が否が応でも高まる。
しかしながらカタール、オーストラリアに連敗した手負いのウズベキスタンはなかなかに手ごわい相手だった。立ち上がりからすばやい攻め上がりとスピードで日本陣内にパワフルに攻め込んできた。そんな勢いに呑まれたのかつまらないミスを繰り返す日本の隙をついて、あれよあれよという間に先制点を決められてしまった。
その後日本も立ち直り、ポゼッションを支配したが、またぞろ決定機に点が取れない。得意の早い玉回しで大久保から玉田に渡って同点にした時は、これで吹っ切れて逆転のゴールは時間の問題と思ったが、ウズベキスタンのGKがファインセーブを連発し、彼らのDFは何度もピンチをしのぎ機を見てカウンターを仕掛け、結局日本はチャンスを何度も創出するものの1-1でタイムアップの笛が鳴ってしまった。
これまでウズベキスタンがカタールやオーストラリアと星のつぶしあいをしていてくれたらまだ良かったのだが、今回2連敗のチームに引き分けたことは、日本は先の対戦相手を考えると非常に痛い引き分けといわざるを得ない。
大健闘のウズベキスタンだったが彼らを葬れなかったことで次のアウェイのカタール戦は文字通り勝たなければいけない試合になってしまった。
報道では今更基本的なシュート練習を課せられていたらしいが、決定力に欠けることもそうなのだが、マイボールになった後も後方でパスの出しどころを探すだけで、誰もアグレッシブに動き回ってボールを呼び込もうとしないことが、それ以上に問題であるような気がする。
岡田によって起用された若い香川や内田、岡崎あたりはやはり経験不足が目に付いたし、そもそもが代表の器なのだろうか。
選手起用も含め、結果が出せない日本代表。岡田は“仕方がないが、まだ問題ではない”と強気のコメントを崩さないものの、南アフリカへの道のりは険しくなっていく一方だ。
2008年10月10日金曜日
どうにも止まらない
“いまだかつて見たことの無い下げ”
“下値予想はまったくの無駄”
“バケツの底が抜けたよう”
“山の上からブレーキが壊れたトラックが落ちてくる”
見出しが躍る。
メルトダウンが止まらない。
前日のNY株式市場6日連続急落、ダウ9000ドル割れという事態を受け、10日の東証の日経平均も8276円43銭と7日連続で暴落してしまった。
1日のうちに、不動産投信のニューシティ・レジデンス投資法人破綻、大和生命の破綻と2つもでっかい悪条件が揃えば落下スパイラルに拍車がかかるのも当然だろう。
なけなしのわが資産の含み損も広がる一方、この2週間で座っていただけで既に40%ほど消え去ってしまった。調子の良かった豪ドル建て債権、勢いのあったブラジルレアル立て債権、バランス型投信すべて基準価格は毎日毎日下がり続ける。世界中の個人投資家がなにもできずに損失を抱えているわけで、こっちだってどうしようもないし、あきらめてただただもう笑って右肩下がりの曲線を見守るしかない。もう損切りはとっくに手遅れとなり今後何年か塩漬けするしかない状況だが本当にこれから再び上昇することはあるんだろうか?
しかし事の発端であるアメリカ経済の混迷が単に金融機関や企業業績の悪化ということではなく、経済構造の本質的な崩壊と見て取れるだけに事はそう簡単ではない。逆に今がチャンスという投機筋の反発への胆力が沸かないのも、この1ヶ月のアメリカ政府の迷走振りと無策振りが見切られているからなのだろう。
ただ1920年代の世界恐慌とは情報のスピードも社会構造も異なっているわけで、少なくとも恐慌から戦争へ向かった当時のような破滅的なシナリオになっていくことはない、と思いたい。週末のG7で各国の叡智によってこの危機をなんとか解決に導く糸口が見出せるのか、注目される。
日本市場は週末から3日間の休み。
とりあえずは酒飲んで、美味い肴でもつまみつつ、テレビでも見てるしかねえな。
阪神はもうアカンし、MLBかプレミアリーグか…。
え、プレミアリーグが世界同時株安で経営危機だって???
駄目だこりゃ。
“下値予想はまったくの無駄”
“バケツの底が抜けたよう”
“山の上からブレーキが壊れたトラックが落ちてくる”
見出しが躍る。
メルトダウンが止まらない。
前日のNY株式市場6日連続急落、ダウ9000ドル割れという事態を受け、10日の東証の日経平均も8276円43銭と7日連続で暴落してしまった。
1日のうちに、不動産投信のニューシティ・レジデンス投資法人破綻、大和生命の破綻と2つもでっかい悪条件が揃えば落下スパイラルに拍車がかかるのも当然だろう。
なけなしのわが資産の含み損も広がる一方、この2週間で座っていただけで既に40%ほど消え去ってしまった。調子の良かった豪ドル建て債権、勢いのあったブラジルレアル立て債権、バランス型投信すべて基準価格は毎日毎日下がり続ける。世界中の個人投資家がなにもできずに損失を抱えているわけで、こっちだってどうしようもないし、あきらめてただただもう笑って右肩下がりの曲線を見守るしかない。もう損切りはとっくに手遅れとなり今後何年か塩漬けするしかない状況だが本当にこれから再び上昇することはあるんだろうか?
しかし事の発端であるアメリカ経済の混迷が単に金融機関や企業業績の悪化ということではなく、経済構造の本質的な崩壊と見て取れるだけに事はそう簡単ではない。逆に今がチャンスという投機筋の反発への胆力が沸かないのも、この1ヶ月のアメリカ政府の迷走振りと無策振りが見切られているからなのだろう。
ただ1920年代の世界恐慌とは情報のスピードも社会構造も異なっているわけで、少なくとも恐慌から戦争へ向かった当時のような破滅的なシナリオになっていくことはない、と思いたい。週末のG7で各国の叡智によってこの危機をなんとか解決に導く糸口が見出せるのか、注目される。
日本市場は週末から3日間の休み。
とりあえずは酒飲んで、美味い肴でもつまみつつ、テレビでも見てるしかねえな。
阪神はもうアカンし、MLBかプレミアリーグか…。
え、プレミアリーグが世界同時株安で経営危機だって???
駄目だこりゃ。
2008年10月9日木曜日
偉大なテレビマンの思い出
緒形拳の訃報に先立つ5日前の9月30日、元NHKディレクターだった吉田直哉さんがひっそりと亡くなられた。
吉田さんは日本のテレビドキュメンタリーの草分けとなった『日本の素顔』を制作し、65年、66年に大河ドラマ『太閤記』、『源義経』で緒形拳を起用した人でもある。
時をほぼ同じくして鬼籍に入られたお二人のことを考えると何とも不思議な縁を感じてしまう。吉田氏死すのニュースもおそらくは緒形の耳にも届いていたとは思うが、その時緒形も自らの余命いくばくか感じていたのだろうか…。
吉田さんとは1983年、「ザテレビジョン」誌のテレビ放送開始35周年記念企画でテレビマンユニオンの今野勉氏と対談していただいた時に初めてお目にかかった。草創期のテレビ製作の思い出話がメインだったが、温厚ではあるが内に秘めた製作者魂というか、時間がたつのを忘れ熱くテレビの現場を語っておられたのをつい昨日の様に覚えている。
その後もNHKの番組取材では大変お世話になって、広報を通さない現場取材でも嫌な顔ひとつされず丁寧に応対していただき当時まだ実験段階だったコンピュータグラフィックスで描く『銀河鉄道の夜』や84年の大型ドキュメンタリー企画『21世紀は警告する』の特集記事も書かせていただいた。そのときのCGスタッフに吉成真由美さんという若い気鋭の女性ディレクターが加わっていて、実の娘さんのように目を細めて見守られていた(吉成さんはその後科学ライターへ転ぜられ『21世紀は警告する』で知り合ったノーベル賞を受賞した利根川進博士と結婚する)。当時30代になりたてだった自分自身にとっても大変に勉強になったし、今なお当時の取材の経験があってこそ今の自分があるのだと思っている。
NHK退職後武蔵野美術大学で教鞭をとられ多くの著書も表しているが、NHKというか日本のテレビ製作の先達だった吉田さんの足跡は、映像史のみならず現代史的に見ても非常に大きい功績を遺したのではないかと思う。
映画と違ってあまりテレビ製作者個人の偉業にスポットが当たることは少ないが、そのたかがテレビに賭けた吉田さんの遺したものの大きさを、緒形拳の死を伝えるニュースとともに改めて考えさせられている。
謹んで御冥福をお祈りいたしたい。
吉田さんは日本のテレビドキュメンタリーの草分けとなった『日本の素顔』を制作し、65年、66年に大河ドラマ『太閤記』、『源義経』で緒形拳を起用した人でもある。
時をほぼ同じくして鬼籍に入られたお二人のことを考えると何とも不思議な縁を感じてしまう。吉田氏死すのニュースもおそらくは緒形の耳にも届いていたとは思うが、その時緒形も自らの余命いくばくか感じていたのだろうか…。
吉田さんとは1983年、「ザテレビジョン」誌のテレビ放送開始35周年記念企画でテレビマンユニオンの今野勉氏と対談していただいた時に初めてお目にかかった。草創期のテレビ製作の思い出話がメインだったが、温厚ではあるが内に秘めた製作者魂というか、時間がたつのを忘れ熱くテレビの現場を語っておられたのをつい昨日の様に覚えている。
その後もNHKの番組取材では大変お世話になって、広報を通さない現場取材でも嫌な顔ひとつされず丁寧に応対していただき当時まだ実験段階だったコンピュータグラフィックスで描く『銀河鉄道の夜』や84年の大型ドキュメンタリー企画『21世紀は警告する』の特集記事も書かせていただいた。そのときのCGスタッフに吉成真由美さんという若い気鋭の女性ディレクターが加わっていて、実の娘さんのように目を細めて見守られていた(吉成さんはその後科学ライターへ転ぜられ『21世紀は警告する』で知り合ったノーベル賞を受賞した利根川進博士と結婚する)。当時30代になりたてだった自分自身にとっても大変に勉強になったし、今なお当時の取材の経験があってこそ今の自分があるのだと思っている。
NHK退職後武蔵野美術大学で教鞭をとられ多くの著書も表しているが、NHKというか日本のテレビ製作の先達だった吉田さんの足跡は、映像史のみならず現代史的に見ても非常に大きい功績を遺したのではないかと思う。
映画と違ってあまりテレビ製作者個人の偉業にスポットが当たることは少ないが、そのたかがテレビに賭けた吉田さんの遺したものの大きさを、緒形拳の死を伝えるニュースとともに改めて考えさせられている。
謹んで御冥福をお祈りいたしたい。
2008年10月5日日曜日
週間呑みアルキスト 9・26~10・4
以前mixiの日記で書いていた呑み歩き日記の復活でございます。
●9月26日
マイミクメンバーのask氏とDONJUAN氏のお誘いで門前仲町の居酒屋『だるま』へ。下町居酒屋としては有名繁盛店で知られ、なぎら健壱ら下町呑みアルキストの御用達である。DONJUAN氏はつつじヶ丘に引っ越したとのことで早めに帰還したので、地元のask氏と門仲には珍しいおしゃれなBar『オーパ』に流れる。バーテンさんが3人ほど長いカウンター内に立っていてみなイケメン揃い。心なしか女性客が多いような気もする。呑み足らなそうなask氏だったが、遠距離のタクシー帰宅は避けたく辞去し何とか終電に飛び乗る。
●9月29日
20年来のお付き合いのデザイナーO氏の還暦祝いで、新宿三丁目は末広亭となりの『魚河岸ごはん 築地とときち』に集合。O氏の会社M社と仕事先のK社のOB・現役たち総勢15人ほどが出席。現在はイギリスに在住しているかつてのデザイナー仲間も遠路駆けつけ、久々の再開で盛り上がる。2次会は近所の本格的ブリティッシュバーの『EORNA』へ。60歳を迎えなお元気なO氏にモルトウィスキーをつきあっているうちにすっかり酔っ払ってしまい久々に深夜タクシー帰宅。団塊の世代はなかなかに手ごわい。
●9月30日
H企画のU氏、デザイナーのK氏と今月行くことになった台湾旅行の打ち合わせ。いったん解散した後、事務所の隣の『明治屋2nd』に再集結。『明治屋』は普段からイベリコ豚の生ハムを出したりスペインのバル風のお店なのだが、この週はカスティーリヤ・レオン州のキャンペーンイベントで本格的なタパス&ワインを振舞っている。さっそく州原産のTOROの白ワインを賞味。なかなかに辛口かつフルーティーなワインでついつい杯を重ねてしまう。
●10月2日
T出版のO社長とデザイナーAki氏、カメラマンN氏と専大前交差点そばのビル地下にある中華料理『東方園』で食事。O社長は何日か前にこの店で傘を借りたので義理堅く返却しに再訪とのことだった。これが効いたのかやたらサービスがよく何品か料理を追加で出してくれる。数軒飲食店が入っているビルなのだが比較的開店から間もないのか今日までその存在に気がつかなかったもののなかなか料理はいける。と思ったら店の入り口には「料理の鉄人」に出演しこの店の老板と陳健一が一緒に写ったパネルが飾られていた。ちなみに結果を聞いたら勝負には負けたそうであるw 2軒目に寄った『シャルルボイル』で旧知のライターK嬢とばったり。同席していたS社の女性誌P誌のスタッフにも紹介してもらうが女性誌も以前の勢いはなくて大変なんだそうだ。K嬢は以前シンガポールに駐在していたときに遊びに来てくれたこともあるのだがしばらく音信がなかった。“今は結婚して名前が変わっちゃってます”とのこと。まあ元気そうでなによりである。
●10月3日
T出版のO社長が神宮球場の野球のチケットをもらったと前夜に続きお誘いがあって、ラッキーにも優勝争いのデッドヒートを繰り広げているわがタイガースの対ヤクルト3連戦の緒戦を観れることになった。この日のタイガースは先発の安藤が好投し7回まで5-0でリード、楽勝ムードで肌寒さを忘れビールが美味い。六甲おろしを気分よく歌ったところまでは良かったのだが、その後継投の久保田、ウィリアムス、アッチソンがことごとく打たれ急に雲行きが怪しくなってきた。8回から守護神・藤川まで投入したが痛恨の逆転打を浴びてしまった。信じられない結末に言葉を失うが、気を取り直してゲン直しに新宿二丁目の『T's Bar』に出向く。すると近所の居酒屋『かり屋』の店主で無類の阪神ファンのTさんが来ていたので、ついつい愚痴の言い合いになってしまった。すきっ腹に呑んだのと精神的ショックですっかり悪酔いしてしまうorz
●10月4日
友人であるK誌のKN編集長と久々に呑む。神楽坂で待ち合わせたのだが土曜にもかかわらず結構な人出であった。古いたたずまいの残る神楽坂は最近すっかり観光地化してしまったようだ。季節的に鍋料理とかが良かろうと本田横丁から津久戸町方向へ抜けたところにある『葱屋みらくる』という店へ。ここは鍋料理のメニューだけで20種以上も選べるのだが、日本酒「吉野杉」をちびりちびり遣りながらつついたもつ鍋はヘルシーですごく美味かった。K誌は親会社の倒産で現在宙ぶらりん状態が続いているが、KN編集長も残務処理がようやく一段落したようで今後の対策含めいろいろと話を聞いてあげた。K誌はなかなかグレードの高い素敵な雑誌だったのでなんとか復刊できればいいのだが。それはそうと関西出身のKN氏も奇遇にも昨夜は神宮に阪神の応援に行っていたというので、最後は不景気な仕事の話は忘れ連夜の愚痴大会で盛り上がって(下がって?)しまったw
2008年9月28日日曜日
天の誰かに愛された男
ポール・ニューマン死去のニュース。
末期がんで入院先の病院から家に戻り、愛妻のジョアン・ウッドワードはじめ家族に看取られながら息を引き取ったそうである。83歳だった。
ニュースでは『明日に向かって撃て』(1969)や『スティング』(1973)でおなじみの、というように紹介されていたが大俳優になってからより、60年代初期のぎらぎらしていた青年時代の演技が個人的には深い印象がある。
アクターズスタジオで同期だったジェームス・ディーン、マーロン・ブランドが先にセンセーショナルなデビューを飾ったため、彼らの亜流のような扱われ方に嫌気がさしていたところ、ディーンの急死で代役として起用された56年『傷だらけの栄光』で一躍脚光を浴びることになる。相手役もディーンの恋人だったピア・アンジェリというのも皮肉だが、ナイーブさを秘めたマッチョという役どころではディーンよりはるかにハマリ役だった。58年の『熱いトタン屋根の猫』、61年の『ハスラー』、63年の『ハッド』、67年『暴力脱獄』とオスカー主演男優に4度ノミネートされたそれぞれの作品はすべて彼のこのナイーブさゆえに懊悩するという役どころで彼の真骨頂だったように思う。
特にロバート・ロッセン監督の『ハスラー』で、社会の裏側でうごめく男たちの中で(ジョージ・C・スコット、ジャッキー・グリースンの存在感も凄い)彼が演じた主人公エディの金と勝負の世界しか信じない凄絶な生き様は忘れがたい。足に障害を抱える女子学生パイパー・ローリーとの明日の見えない愛もなんともやるせなかった。
彼のレフティな政治的立場ゆえか当時はアカデミー賞には縁がなかったものの85年に名誉賞、86年に『ハスラー2』でとってつけたように主演男優賞を受賞したが、どうでもいいような続編で功労賞的に輝いたのも彼自身も内心苦笑していたかもしれない(『ハスラー2』の監督、マーティン・スコセッシもどうでもいい『ディパーテッド』で監督賞もらってたけど)。
晩年は事業で成功した莫大な収入を熱心にチャリティに寄付していたのはよく知られている。
そのきっかけは長男の麻薬中毒死だったという悲劇もあるものの、多くの人間に愛されたニューマンの人となりは称えられてしかるべきだろう。
彼の出世作だった『傷だらけの栄光』の原題は『Somebody Up There Likes Me』。その通りの人生であった。
2008年9月24日水曜日
アジアの歌姫
アジアの歌姫・アーメイ(張恵妹)の日本初ライブを観てきた。
会場は赤坂ACTシアター。今年59公演を果たした『トゥーランドット』のスタートとなった東京会場という思い入れのある小屋が初ライブにあてられたわけだが、上海ではスタジアムに8万人集めた中華圏の大スターにしては実にこじんまりしたキャパのホールである。これも日本での知名度を考えればいた仕方がないが、逆にファンにとっては近くで彼女のステージが観れるわけだからこんなにラッキーなことはない。
客層的には日本在住の華人を中心に、『トゥーランドット』で彼女を知った女性を中心にしたミュージカルファン、そしてそれほど多くはないが熱狂的なC-popファンといったところなのだろうか。
朝日新聞のインタビューでも語っていたが“まずは私のことを知ってもらいたい”ということで、現在行われている世界ツアー「STAR TOUR」の内容をちょっと変えて特に日本用に構成した演目になっている。
で、肝心のライブはというとオープニングからパワー全開。彼女の抜群のリズム感に乗せたダンスナンバーでいきなり場内を盛り上げた後は、最新アルバムのナンバーはもちろん、バラード系の昔のヒット曲、テレサ・テンや会場にも観に来ていた王陽菲菲など日本で活躍した先人へのリスペクトをこめた日本語でのカバー、原住民の出自を強調した民族曲や沖縄の曲までバラエティにとんだ内容で約2時間半のステージをエネルギッシュに踊り、熱唱した。
個人的には、アーメイのデビューから時間を置かずに台湾、シンガポールに駐在していたので、大スターへと成長していく彼女の姿を横目で見ながら日々過ごしていたこともあって、台湾でも果たせなかったナマのステージを観ることができただけで大満足。「聴海」「解脱」といった当時耳に親しんだ曲は思わず一緒に口ずさんでいたくらいだ。
さて、名実ともにアジアナンバーワンのシンガーが、果たして日本でもこれから活躍できる余地があるのだろうか?もとより原住民の出自ということで家族的にも幼い頃から日本語は耳に親しんできた言語とあって日本語に関してはもう少し練習さえすれば問題はないと思うが(いまでも聞いて意味は理解できるようだ)、演歌以外で活躍できた例が少ないだけに、アジアの大スターとはいえなかなか前途は厳しいものがあるのも事実。
今回のライブは2日間限定だが、彼女の実力に魅了された日本のファンが今後も少しでも増えていくことを願ってやまない。
我們熱烈支持,愛你阿妹!
2008年9月21日日曜日
彼岸の頃に
最近、1ヶ月の物故者
8.24 島村麻里/ライター 51歳 『地球の笑い方』『ロマンチックウィルス』の著者
8.25 深浦加奈子/女優 48歳 第三エロチカを経てフリー。映画『ナースのお仕事』『私の青空』など
8.27 内海カッパ/コメディアン 66歳 今宮えびすとコンビ。吉本新喜劇、OSミュージック等で活躍
8.28 フィル・ヒル/レーサー 81歳 1961年度のF1年間チャンピオン
8.30 キラー・コワルスキー/プロレスラー 81歳 力道山時代のヒール。ジャンピングニードロップの鬼
9.1 ジェリー・リード/歌手/俳優 71歳 グラミー賞歌手 映画『トランザム7000』などに出演
9.6 寺内大吉/作家、僧侶 86歳 『はぐれ念仏』で61年度直木賞受賞
9.7 グレゴリー・マクドナルド/作家 71歳 『フレッチ』シリーズなど。E・Aポー賞を二度受賞
9.9 草柳文恵/キャスター 54歳 『草柳文恵のさわやかトーク』など
9.9 日野てる子/歌手 63歳 65年『夏の日の思い出』が大ヒット。65~67年3年連続で紅白出場
9.12 デイビット・フォスター・ウォレス/作家 46歳 『奇妙な髪の少女』など
9.13 楠田浩之/撮影監督 78歳 松竹・木下組の撮影を担当。55年『野菊の如き君なりき』で毎日映画賞
9.14 小島直記/作家 89歳 『小説三井物産』『福沢山脈』など
9.15 リチャード・ライト/キーボード奏者 65歳 ピンクフロイドのオリジナルメンバー
9.16 ジェームズ・クラムリー/作家 68歳 『我ひとり永遠に行進す』『さらば甘き口づけ』など
9.17 阿部克自/写真家 78歳 JAZZ演奏家の撮影で知られる。ミルト・ヒントン賞受賞
9.17 ウンベルト・ソラス/映画監督 キューバ映画界の鬼才。68年『ルシア』86年『成功した男』など
9.19 アール・パーマー/ドラマー 83歳 F.ドミノ、T.ターナーらとセッション。2000年ロックの殿堂入り
9.19 市川準/映画監督,CMディレクター 59歳 『BU・SU』『病院で死ぬということ』『トキワ荘の青春』
キラー・コワルスキーは本当に怖かった。ユーコン・エリックの耳を削いだ伝説は当時の子供たちに語り継がれたよなあ。
草柳さんは大学の先輩、みんなの憧れでした。
日野てる子さんの、長い黒髪に挿したハイビスカスは今でも思い出深いです。
市川監督は以前ゆうばり映画祭でお会いしたことがあります。最新作『by a suit スーツを買う』編集中での悲報、出品が予定されていた東京国際映画祭での追悼上映を希望したい。
合掌
8.24 島村麻里/ライター 51歳 『地球の笑い方』『ロマンチックウィルス』の著者
8.25 深浦加奈子/女優 48歳 第三エロチカを経てフリー。映画『ナースのお仕事』『私の青空』など
8.27 内海カッパ/コメディアン 66歳 今宮えびすとコンビ。吉本新喜劇、OSミュージック等で活躍
8.28 フィル・ヒル/レーサー 81歳 1961年度のF1年間チャンピオン
8.30 キラー・コワルスキー/プロレスラー 81歳 力道山時代のヒール。ジャンピングニードロップの鬼
9.1 ジェリー・リード/歌手/俳優 71歳 グラミー賞歌手 映画『トランザム7000』などに出演
9.6 寺内大吉/作家、僧侶 86歳 『はぐれ念仏』で61年度直木賞受賞
9.7 グレゴリー・マクドナルド/作家 71歳 『フレッチ』シリーズなど。E・Aポー賞を二度受賞
9.9 草柳文恵/キャスター 54歳 『草柳文恵のさわやかトーク』など
9.9 日野てる子/歌手 63歳 65年『夏の日の思い出』が大ヒット。65~67年3年連続で紅白出場
9.12 デイビット・フォスター・ウォレス/作家 46歳 『奇妙な髪の少女』など
9.13 楠田浩之/撮影監督 78歳 松竹・木下組の撮影を担当。55年『野菊の如き君なりき』で毎日映画賞
9.14 小島直記/作家 89歳 『小説三井物産』『福沢山脈』など
9.15 リチャード・ライト/キーボード奏者 65歳 ピンクフロイドのオリジナルメンバー
9.16 ジェームズ・クラムリー/作家 68歳 『我ひとり永遠に行進す』『さらば甘き口づけ』など
9.17 阿部克自/写真家 78歳 JAZZ演奏家の撮影で知られる。ミルト・ヒントン賞受賞
9.17 ウンベルト・ソラス/映画監督 キューバ映画界の鬼才。68年『ルシア』86年『成功した男』など
9.19 アール・パーマー/ドラマー 83歳 F.ドミノ、T.ターナーらとセッション。2000年ロックの殿堂入り
9.19 市川準/映画監督,CMディレクター 59歳 『BU・SU』『病院で死ぬということ』『トキワ荘の青春』
キラー・コワルスキーは本当に怖かった。ユーコン・エリックの耳を削いだ伝説は当時の子供たちに語り継がれたよなあ。
草柳さんは大学の先輩、みんなの憧れでした。
日野てる子さんの、長い黒髪に挿したハイビスカスは今でも思い出深いです。
市川監督は以前ゆうばり映画祭でお会いしたことがあります。最新作『by a suit スーツを買う』編集中での悲報、出品が予定されていた東京国際映画祭での追悼上映を希望したい。
合掌
2008年9月19日金曜日
青い鳥
14歳の頃の自分は何を考えていたんだろう?
クラブ活動のこと異性のこと、この時期の少年にありがちな悩みは当然人並みに抱えていた。
当時は社会情勢が緊迫していたこともあって、ベトナム戦争や社会的貧困、教育の選別体制、内包する矛盾への疑問みたいなことも日々みつめながら学校へ通っていた。
しかし今の14歳の子供たちのガラスのように壊れやすいナイーブさは当時ほとんど無かったように思えるのだが。
11月公開の映画『青い鳥』の試写を観た。
直木賞作家・重松清の短編シリーズの映画化。中学生のいじめをテーマに吃音の代理教師と子供たちが向かい合う内容なのだが、観ていて終始感じていたのが、自分たちの頃の14歳と現在の14歳の中学生たちの抱えている悩みのあまりの質的な差異だった。一言で言えば、幼い。教室の中で展開されている子供たちの行動や発言を観ているとなにか小学校時代を想起させるレベルとしか思えなかった。
もちろん作り事の映画の中の世界なので実態はこんなものではないとは思うが、日々、報道される教育現場の混乱やモンスターペアレントに代表される保護者たち、みんなひっくるめて甘えの中で自己中心的な正当さを主張しているようにしか思えない。
映画で描かれている中学校が抱えているような問題が今日的な教育現場の共通の問題であるならば、これも時代が変わってしまった現実なのだと、理解するしかないのだろうか?
まあ、保身を図り体面を保つため見当違いの平穏さの復活に一生懸命な学校側の対応とかは、まったく普遍なのでこちらのほうはあまりの変わりようの無さに苦笑してしまった。
主演の阿部寛は吃音の教師役を好演、言葉を超えた表情の演技が光る。職員室で孤立する阿部に唯一理解を示すお約束の女教師役の伊藤歩もなかなか魅力的、もう少し出番があっても良かったんじゃないだろうか。
監督は灘高―東大出身という教育ものにうってつけの?経歴を持つ中西健二。原田眞人、吉田喜重、長崎俊一らの助監督につきながら、マキノ雅彦の話題の新作『次郎長三国志』の監督補を経て、この作品が劇場映画の監督デビュー作となった。
2008年9月16日火曜日
リーマン破綻
リーマン・ブラザース破綻でリーマン真っ青…
なんてしゃれてる場合じゃない orz
本日の日経平均は605円安で年初最安値更新。為替は104円台に急伸。
昨年来の世界株安でもう何があっても驚かないが、わがポートフォリオを構成する投信も一時のドツボから少しずつ戻していたところにきて、積み木をまたひっくり返されてしまった感じだ。損切りできないままずるずる引きずってしまったが、もはやいかんともしがたい。特に外貨建てなので為替が円高にふれるのが何とも痛い。しかもアメリカがこんなていたらくでは円高基調は当分続きそうだ
昔、株取引でならした友人がこれからは東京にいてもいいことないと現在は長野の田舎に引っ越してしまい
“いやあ、金使わなくていいぞお”と先日嬉しそうに報告があった。
彼の後追って田舎に引っ込んで釣竿かついで鯉鰻兄弟にでもなるか、
ってしゃれてる場合じゃ本当にないんだって(涙)
なんてしゃれてる場合じゃない orz
本日の日経平均は605円安で年初最安値更新。為替は104円台に急伸。
昨年来の世界株安でもう何があっても驚かないが、わがポートフォリオを構成する投信も一時のドツボから少しずつ戻していたところにきて、積み木をまたひっくり返されてしまった感じだ。損切りできないままずるずる引きずってしまったが、もはやいかんともしがたい。特に外貨建てなので為替が円高にふれるのが何とも痛い。しかもアメリカがこんなていたらくでは円高基調は当分続きそうだ
昔、株取引でならした友人がこれからは東京にいてもいいことないと現在は長野の田舎に引っ越してしまい
“いやあ、金使わなくていいぞお”と先日嬉しそうに報告があった。
彼の後追って田舎に引っ込んで釣竿かついで鯉鰻兄弟にでもなるか、
ってしゃれてる場合じゃ本当にないんだって(涙)
2008年9月9日火曜日
秋山家の秋
週末、実家に立ち寄ると今年も庭のすだちの木に実がたわわになっていたので、秋の到来を実感しつつ早速収穫することにした。
昨年初めて発見したのだが庭にすだちがあるなんて亡くなった両親からも聞かされていなかったのでびっくりしたが、さすがに格好はよくないし、種も多いので市販のレベルというわけには行かないものの正真正銘の天然無農薬産品である。
昨年調子に乗ってもいだせいなのか、木が少し伸びたこともあるのか、脚立じゃないととどかない高いところに多く実をつけているので、木の幹や枝に実をとられまいと突き出している鋭いとげと格闘しながら植木バサミを延ばし大汗かきかき刈り取った。
一人ではとても消化できないので会社の隣の立ち飲み屋『明治屋』に半分おすそ分け。聞けばすだちは買うと結構高いそうですごく喜んでもらった。
このやりとりを聞きつけた常連さんたちがさっそく焼酎とかスピリッツに入れたいと所望するので、いくつか切ってもらったのだが、なんともいい香りが店中に広がった。
しかし自分の分だがどうしようか? 秋刀魚にかけて食べるくらいならなかなかなくならないので、ホワイトリカーで漬け込んですだち酒でも作るかと思いたったが、その矢先の故障米の流通問題発生。毒性の強いカビがどうも焼酎に紛れ込んだのではということらしいのですだち酒は断念。
当分おかずは秋刀魚が続きそうである。
2008年9月7日日曜日
不安払拭できない勝ち点3
2010年のワールドカップ南アフリカ大会のアジア最終予選がいよいよ始まった。昨夜マナマでのアウェイのバーレーン戦の初戦を日本はからくも3-2で勝利し、なんとか勝ち点3をとってのスタートとなった。
バーレーンはくじ運の妙でここ何年か“またかよ”とあきるほど対戦しているが、日本とはいつも接戦にもつれ込むいやな相手だ。相手のマチャラ監督がなかなか曲者で日本の弱点をうまくついてくる。実は岡田の変わりはマチャラの招聘がいいのではと思わせる敵将ではある。そのバーレーン相手のアウェイ戦がしょっぱなとあって、しかも直前の練習試合で大学生に負けたチームコンディションだけに大いに不安だった。
そんな不安を忘れさせたのが前半早々の俊輔のビューティフルFKだった。立ち上がりの入り方は田中、玉田のホビットコンビのスピードと前からボールをとりに行くFWディフェンスが利いて素晴らしかったし、2点目のPKもその効果で前半終了時点でバーレーン守備陣は既に疲労困憊していた。後半相手は焦ってファウルをせざるを得なくなり累積警告で一人減った後の憲剛の3点目で足は止まりまったく戦意を失ってしまっていた。
おお、いつになく危なげなく難敵を葬ったかと思いきや、試合終了までの10分間で相手にみすみす2点を献上するって、ありえねえだろうフツー。
息を吹き返した相手にあわてながらもなんとかタイムアップまでしのいだが、終わってみれば楽勝は薄氷の勝利へと変わり試合前感じていた不安が帳消しになることはなかった。
だいたい日本は試合の終わらせ方が下手なのはドーハ以来わかっているが、相変わらずずるさの経験値が反映されていない。得点力のなさと土壇場での集中力の欠如はこうなりゃ立派なお家芸といいたくなる。
しかしまあ今までも自国開催を除いては楽に勝てたためしはなく、酷暑や長距離移動含めアジアの頂点に立つのはなかなか難しい。この過酷なまでの連戦だからこそ、夜中にひりひりしながら観るワールドカップ予選の醍醐味がある。そう思えば勝ち点3という事実は最良であることに変わりはない。
次回はホームでのウズベキスタン戦。相手はカタールに0-3と土をつけられているだけに次を落とすと相当厳しくなるだけに必死こいてくるはずだが、ここで連勝すると星勘定が立てるようになるので最初の正念場と踏んで戦ってもらいたいものだ。
2008年9月4日木曜日
ROADSHOW お前もか
先日、某出版社幹部の友人を訪問したとき、今年の雑誌の売り上げデータを見せていただいたのだが、グラフは軒並み下降線を示していて本当に出版不況を実感した。友人によると特にこの3ヶ月来の売り上げが株価の暴落のように落ち込んでいるとため息をついた。
そんな矢先、何誌かの雑誌廃刊のニュースが相次ぎ、それも出版社にとっては歴史のある看板雑誌的なものも多く改めて友人の嘆きがリアリティをもってくる。
今年になって休・廃刊になった(なる予定の)雑誌をちょっと調べて見たら、
・NIKITA(主婦と生活社)・TITLE(文藝春秋)・BOON(祥伝社)・SESAME(角川SSコミュニケーション)
・Zino(KI&Company)・広告批評(マドラ出版)・Log-in(エンターブレイン)・主婦の友(主婦の友社)
・Gauguin(東京ニュース通信社)・ランティエ(角川春樹事務所)・Bagle(学研)・駱駝(小学館)・週刊ヤングサンデー(小学館)・REINA(KKベストセラーズ)・論座(朝日新聞出版)・KING(講談社)・Style(講談社)・PLAYBOY日本版(集英社)・ROADSHOW(集英社)・月刊現代(講談社)・BOAO(マガジンハウス)・GRACE(世界文化社)・マガジンZ(講談社)
と、ざっとあげたところだけでもこれだけの雑誌が無くなってしまう(しまった)。
なかでも個人的には老舗の映画誌『ROADSHOW』が11月発売号を持って休刊するニュースを聞いて感慨深いものがある。90年から4年間にわたって映画雑誌の編集長をしていたことがあっていわばライバル関係にある雑誌だった。その頃はすでにかつての勢いは無かったがそれでも『ROADSHOW』は類誌ではナンバー1の部数でわれわれの目標でもあった。というかなによりも中学生の頃、洋画にはまりだして『ROADSHOW』のキャサリン・ロスやジョアンナ・シムカスのピンナップ欲しさにずいぶんと買わせていただいてきた思い出の雑誌である。
昨今の原油の高騰にともなう紙代、運送コストの大幅な値上げ、世界的な景気の後退感による広告減、雑誌が立ち行かなくなる要因はいくつか挙げられようが、やはり若い世代(そうじゃなくても)の活字離れによる部数の落ち込みが根底にあるのだろう。特に『ROADSHOW』のような雑誌はネットやモバイルなど情報の環境そのものが時代とともに大きく変化した部分が大きいのかもしれない。こうなってくると『ROADSHOW』に限らず情報系の雑誌の切り口は本当に難しくなる。
時代のせいといったら簡単なのだが活字を飯の種にしている身としては問題は切実である。
また、広告収入だけに頼って安易な企画で理念の無い企画を通してきた作り手の責任もあるはずである。
雑誌の休刊を惜しんだり感傷的になったり、仕事の減少を嘆く前にまず、今の時代に何が必要とされ、どんなものに共感を得られるのか、この不景気の中お金を出してまで欲しくなる情報は何なのか、個人的にもいまいちど気合を入れて考えなければならないだろう。雑誌の休刊は実際に何誌か潰してしまった過去の自戒の念も含め本当に他人事ではない。
2008年8月28日木曜日
2008年8月25日月曜日
30年の思い出とともに
反町および星野ジャパンの惨敗だけが印象に残った北京五輪もいよいよフィナーレ、そんな五輪の閉会式を誰が見てやるか、つーか、この日はサザンオールスターズ「真夏の大感謝祭」30周年記念ライブ最終日の中継だろうやっぱ。というわけで6.00PMから独占生中継のWOWOWにかじりついておりました。
会場の横浜スタジアムは涙雨、7万人の観客席は立錐の余地無く埋め尽くされ北京の鳥の巣なんぞにひけはとらない。
みんなそれぞれ一曲一曲に思い入れがあるのだろう、熱気にあふれながらもノリノリというよりどこか聴きに入っているような感じだ。
テレビ参加の我々も感慨は同じである。特に同世代の青学OBにとって見れば、相手がOBと知ると桑田の何級上か下かで相手の年齢を諮るのが習慣になっている位で、サザン結成30年の歴史は桑田とほぼ同じ歳の私にとっても社会人として歩んできた歴史とまんまダブるのである。
しかも選んだ仕事柄、サザンは日常的にいつも近しいところにあった。
レコードからCDへと変わる端境期にデビューし、最初に出現した弁当箱型のカセットテープのウォークマンにも当然サザンは選曲されていた。「ふぞろいの林檎たち」の特集記事を書いたときは“いとしのエリー”漬けになったっけ。T誌の表紙で特集が「夏の甲子園」だったのでメンバー全員に高校野球のユニフォーム姿で登場してもらったこともある。台湾に駐在していた時分は“TSUNAMI”が日本人駐在員のカラオケの定番だった。シンガポールのKTVでマレー系のホステス嬢キャサリンがへたくそな日本語で“真夏の果実”を歌ってくれたよなあ、彼女今どうしているんだろう…。
ああ、思い出せばきりがない。
MCで桑田本人も音楽活動やめたわけではなく、一区切りであることを強調していたが、30年も走り続けてきたら立ち止まりたくなるのも無理は無い。その気持ちは時代をともにしてきた身としては僭越だがよくわかる。それぞれの次にやりたい道もあるのだろう、今後のチャレンジを楽しみにしたい。
それでもハラボーの涙の挨拶に思わずこちらもウルウル来てしまった。
溢れ出る思い出とともに、これからもよろしく。そしてまたいつの日か。
セットリストは以下のとおり
・YOU
・ミス・ブランニュー・デイ
・LOVE AFFAIR~秘密のデート
・女呼んでブギ
・いとしのフィート
・お願いD.J.
・奥歯を食いしばれ
・ラチエン通りのシスター
・TO YOU
・C調言葉に御用心
・働けロック・バンド
・松田の子守唄
・Hello My Love
・朝方ムーンライト
・思い出のスター・ダスト
・夏をあきらめて
・Oh!クラウディア
・東京シャッフル
・そんなヒロシに騙されて
・あっという間の夢のTONIGHT
・メリケン情緒は涙のカラー
・顔
・Bye Bye My Love
・メロディ
・愛の言霊
・シュラバ★ラ★バンバ
・爆笑アイランド
・ごめんよ僕が馬鹿だった
・ロックンロール・スーパーマン
・涙のキッス
・チャコの海岸物語
・夕陽に別れを告げて
・いとしのエリー
・真夏の果実
・TSUNAMI
・I AM YOUR SINGAR
・希望の轍
・OH!SUMMER QUEEN
・エロティカ・セブン
・HOTEL PACIFIC
・ボディ・スペシャルⅡ
・マンピーのG★スポット
~アンコール
・夕方HOLD ON
・みんなのうた
・勝手にシンドバッド
・Ya Ya あの時代を忘れない
2008年8月18日月曜日
気が晴れなきゃ太鼓を叩け
友人の訃報もあって気が晴れぬ中、ご招待いただいたこともあり天王洲の銀河劇場に『ドラムストラック』の公演を観に行った。
『ドラムストラック』は1997年南アフリカのヨハネスブルグで初演、幕を開けるやいなや大ブレイクし世界ツアーでオーストラリアやアジア各国を回った後、2005年にNY進出。オフブロードウェイで18ヶ月のロングランを記録する成功を収めた。
この舞台の特徴は観客席すべてにアフリカの打楽器ジェンベが置いてあり、舞台上で繰り広げられるアフリカンビートの歌やダンスにあわせて、観客が太鼓を叩くという参加型のパフォーマンスであること。今までブッシュ大統領、ネルソン・マンデラ元南ア大統領、エリザベス女王をはじめニコール・キッドマン、ウィル・スミス、エルトン・ジョンと多くのVIPたちも観客席でともに太鼓を叩いたそうである。
夏休みということで親子連れも多かったが、年齢や性別関係なく、また人種や言語も関係なくリズムに合わせて太鼓を叩くうちに心がつながってくるのは本当に楽しい。アフリカの未開の部族の中には太鼓によって意思疎通を図る種族もいたように聞いたことがある。元々太鼓の音はコミュニケーションの伝達手段としての役割も果たしていたのだろう。
舞台自体は特にストーリー性があるわけではないが、舞台上の演技者の音頭につられていくうちに会場中のリズムはひとつになった時はちょっとした感動でもある。
アフリカの灼熱の大地を思わせるリズムの中に身をおきながら、頭を空っぽにして太鼓を叩き、軽い疲労感とともに舞台を見終わった後、心地よい爽快感に包まれた。
個人的にブルーな気分にいかばかりかの心の薬になったようだ。
2008年8月15日金曜日
喪失する日常
連休中で都内は比較的空いているが、気温は尋常ではなく上がっている。
外を歩くと汗は噴出し、午後の照りつけるような日差しに気が遠くなりそうだ。
15日は、終戦記念日ということなのだろう右翼の街宣車がフルボリュームでアジ演説をがなり立てている。
何もこんな日に、気分はささくれ立ち苛立つ。
街が陽炎のように揺らめき、風景は霞んでくる。
涙が流れるほど悲しい気分なのに、心は沈むものの涙は乾ききっている。
K君が亡くなった。
長い闘病生活だったから、いつかこの日を迎えるとは覚悟はしていた。
だからこそ、昨夜電話で連絡をもらってからことさら冷静は保とうとするのだが、やはり心の空白は埋めようがない。昨年の春先だったか見舞いに行ってから気にはなっていたが、この日が来ることを恐れて、考えなければ忌避できるとばかりに、考えないようにしてもいた。
K君とは前の会社で初めて雑誌を立ち上げたときにともに仕事をすることになった、そのつき合いはもう26年にもなる。当時25歳だったから彼の後半生を共有したことになるわけだ。
人懐こく、優しかった。
下北沢の街をこよなく愛し、1日とあかず立ち寄っていたよな。
ビールはサッポロ以外は飲まない酒飲みだった。
クレージーキャッツが好きで、酔うと良く歌ったね。
漢詩を諳んじるような意外な教養もあったけど
嫌なことは駄洒落で笑い飛ばし、よく人の世話をやく男だったっけ。
思い浮かべれば昨日の様にどんどん時間が甦ってくる。
私が会社をやめた後も、君がいれば会社とつながっていけた。
だって26年も必ずそこに居たじゃないか。
ニコニコ笑いながらいつも迎えてくれたよな。
これからはそんな当たり前の日常が、ぷっつりと無くなってしまう。
今は実感がないが、きっと君の不在を意識するたびに耐え難い寂寥感を感じるんだろう。
そんなことは考えたくない。
そんなことは考えられない。
そんなことは考えようもない。
外を歩くと汗は噴出し、午後の照りつけるような日差しに気が遠くなりそうだ。
15日は、終戦記念日ということなのだろう右翼の街宣車がフルボリュームでアジ演説をがなり立てている。
何もこんな日に、気分はささくれ立ち苛立つ。
街が陽炎のように揺らめき、風景は霞んでくる。
涙が流れるほど悲しい気分なのに、心は沈むものの涙は乾ききっている。
K君が亡くなった。
長い闘病生活だったから、いつかこの日を迎えるとは覚悟はしていた。
だからこそ、昨夜電話で連絡をもらってからことさら冷静は保とうとするのだが、やはり心の空白は埋めようがない。昨年の春先だったか見舞いに行ってから気にはなっていたが、この日が来ることを恐れて、考えなければ忌避できるとばかりに、考えないようにしてもいた。
K君とは前の会社で初めて雑誌を立ち上げたときにともに仕事をすることになった、そのつき合いはもう26年にもなる。当時25歳だったから彼の後半生を共有したことになるわけだ。
人懐こく、優しかった。
下北沢の街をこよなく愛し、1日とあかず立ち寄っていたよな。
ビールはサッポロ以外は飲まない酒飲みだった。
クレージーキャッツが好きで、酔うと良く歌ったね。
漢詩を諳んじるような意外な教養もあったけど
嫌なことは駄洒落で笑い飛ばし、よく人の世話をやく男だったっけ。
思い浮かべれば昨日の様にどんどん時間が甦ってくる。
私が会社をやめた後も、君がいれば会社とつながっていけた。
だって26年も必ずそこに居たじゃないか。
ニコニコ笑いながらいつも迎えてくれたよな。
これからはそんな当たり前の日常が、ぷっつりと無くなってしまう。
今は実感がないが、きっと君の不在を意識するたびに耐え難い寂寥感を感じるんだろう。
そんなことは考えたくない。
そんなことは考えられない。
そんなことは考えようもない。
2008年8月14日木曜日
覆水は盆にカイラスだって
前の日記をアップしたばかりで飛び込んできたのは雑誌『カイラス』の発行元アーバンコーポレイションの倒産のニュース!総額2558億の負債で今年一番の大型倒産らしい。不動産不況がたたったということらしいがここ何ヶ月かの株価の動きも変だったので大丈夫かなと心配はしていたのだが。
旧知の仲でもあるKN編集長から電話をいただいたのだが、いつもニヒルなKN氏もさすがに焦っていた。そりゃそうだろう。
せっかく第3号目の作業に入っていたのだが、雑誌自体の存続は決まってはいないものの多分難しいだろうなあとのこと。こっちにとっても取材や原稿発注も済ませていたので迷惑をかけてしまう関係者も多い、あるライター氏からは“覆水盆にカイラス”と笑わせてもらったが、こちらとしても仕事がなくなってしまうのはなんとも痛いので本当は笑い事ではない(涙)。たまたま昨日も別口の取材先(クライアント)で景気の悪さを嘆きあったばかりなのだが実際直接的にこんな形で体感させられるとは思わなかった。
与謝野経済相がここのところの景気後退を「対外的要因だから楽観的に考えるほうが正解ではないか」などと脳波がおかしいんじゃないかとしか思えない危機感ゼロの発言してたが、この倒産劇とかどう思うんだコラ。なんだか本当に嫌な時代になって行きそうだ。
『カイラス』は金がかかったスカした雑誌だったけど、地球環境にテーマを置いた骨太さも持ち合わせていた。これで終わらせてしまうには本当に残念のきわみだ。どこかで発行元変わって継続できないものだろうかと切に思う。
2008年8月13日水曜日
ターセム監督インタビュー
雑誌『カイラス』の仕事で、9月公開の映画『落下の王国』のターセム・シン監督のインタビューに立ち会う。インタビューに先立って先日試写も観て来たのだが、映像の美しさに関しては近年まれに見るというか今まで見たこともないような心揺さぶられるシーンのオンパレードに終了後もしばらく声も出なかった。
ターセムは1961年生まれの47歳、インド・パンジャブ地方出身で、イランの寄宿学校で学び24歳で渡米。CMやMTVの仕事で才能を開花させ、91年R.E.MのミュージックビデオでMTV最優秀ビデオ賞を受賞。ナイキの“Good vs Evil"などのCMで一躍映像の魔術師と謳われるまでになる。2000年にジェニファー・ロペス主演の『ザ・セル』で映画デビューした。この作品が第2作目だが構想自体は20代の頃から暖めてきたもので24カ国以上のロケ地で(うち世界遺産13箇所)4年間にわたって撮影が続けられたそうである。しかも過去のCM製作で稼いだ個人資産のほとんどすべてをこの映画につぎ込んで、執念で完成させた作品なのである。
都内のホテルの一室でインタビューは行われたのだが、挨拶の後、“素晴らしい映像美に感動しました”と我々が言うと、“本当に?やったね!”とガッツポーズしたのにまず驚かされた。映画監督によくある気難しさや芸術家肌を気取ることもない、なんとなくMTV出身の出自を感じさせるいい意味でのノリのよさが伝わってくる。わずか30分の短い持ち時間だったが、ひとつの質問にインド訛りの英語で延々としゃべるしゃべる。こちらは聞きたいことはたくさんあるのにといささかはらはらさせられたが、よほどこの作品に対して話すのが好きなのだということは本当によくわかる。
ストーリーは草創期のサイレント映画のスタントマンの青年が撮影中の事故で大怪我を負い、さらに恋人を失い生きる望みを失う。入院中に知り合った5歳の少女患者に創作した物語を語ることをだしにモルヒネを盗ませようとする、しかし少女の純真無垢な気持ちにいつしか自らが癒されていくという物語。想像上のファンタジーの世界が石岡暎子の幻想的な衣装とあいまって極彩色であるのに対して現実世界がモノクロームというまあそれほど新しい手法ではないのかもしれないが、主役のルーマニア人少女カティンカ・アントルーの瑞々しい演技がモノクロームの画面を逆にリアルな時間軸をつむぎだしていく。
“映像を学び始めたときブライアン・イーノの講義で非常に感銘を受けたんだ。いわくレコードのような記録メディアが出来る前の音楽家は聴衆に応じて演奏を変えた、ストーリーテリングもそれと同じで本来は聞いている相手によって語り方を変えていくのが物語ることのもっともプリミティブな形だというわけだ。ましてや相手がイノセントな子供なら誤解やズレも生まれ、それが逆に話す側の物語に思わぬ影響を与えていくと思うんだ。だから聴衆の反応を見ながら音楽のトーンやムードを変えていく、そういった語り口に、僕は映画という表現方法でトライしてみたかったんだよ”
“とにかく自分に正直に、やりたいことを撮って行ったんだ。弟(共同製作者)には家を売るまでになったら教えてくれといったんだけど、本当に重要なのはとにかくこの映画を作ったという事実。途中であきらめていたら本当に後悔しただろうな。映画は人生そのものなんだからね”
機関銃のように言葉が飛び出してくる濃密なインタビューの時間が終わると“試写には来てくれたの?”と逆に聞かれた。もちろんですと答えると“それは良かった。だってDVDで観るのとスクリーンを通してみるのとではやはり手作り感が伝わらないからね”CGをほとんど使わず(唯一タージマハルのロケ中に映りこんだ観光客と世界遺産の場所に観光用につけられた手すりを消した)ひとつひとつのシーンに金と情熱をつぎ込んだ映画バカの快心の笑顔がそこにあった。
映画『落下の王国』は9月6日、シネスイッチ銀座ほかで公開。
2008年8月11日月曜日
五輪も観ずに
北京五輪を完全にスルー、と日記に書いてしまったこともあって(意地になることもないけど)
日曜日は所沢に『埼玉西武×北海道日ハム』を観にいく。
というのもこの日はクラシックライオンズデー。西鉄のユニフォームの復活した姿だけが観たくて、いまや愛着ゼロの埼玉西武の本拠地に出向いたのであった。
試合前に西鉄ゆかりの記念グッズを仕入れ、西日本スポーツの昭和33年の日本シリーズ優勝号外の復刻コピーももらったのでもうすっかり満足して(子供かよ!)帰ろうかと思ったが、せっかくだから試合も観ることにした。
試合自体は埼玉西武の打棒爆発と先発帆足の好投で11-1で圧勝。まあ西鉄×東映といえばかつての黄金カードだったけど、少しは昔の記憶も甦ってくるかなと思いきや、ナイキ製の西鉄のユニフォームはスリムすぎてまったく別モンに見えてしまう。だいたい帆足みたいに長髪なびかせている選手なんかあのシンプルなユニフォームじゃ絵にならない。
応援団も当たり前だけどガキばかりで、外野席はむしろ青い現在のユニフォームで埋まっていたし青いジェット風船も阪神の真似でオリジナリティのかけらも無い。西鉄応援団は<炭坑節>に決まってるたい!
唯一、イニングの変わり目にスクリーンに映し出されていた稲尾様の映像だけが涙出るくらいに嬉しかった。
さて北京五輪は柔道で内柴が初の金(おめでたうさん)。反町ジャパンはグループリーグ敗退で北京五輪なのに北京に行けずじまい。オグシオの初戦はハラハラしたけど何とか初戦突破。まあスルーと言ったけど始まったら始まったでやっぱり結構観てしまう。
2008年8月7日木曜日
こうなるんじゃないかと
北京五輪の開幕を前に、サッカー五輪代表が男女ともいち早く戦いをスタートさせた。
なでしこジャパンはニュージーランドに痛い引き分け。2点のビハインドを背負い敗色濃厚だった試合を粘って何とか引き分けに持ち込んだ。続く男子の初戦はアメリカ、前半試合を支配しながら好機を決めきれず、後半逆に足が止まりかけたところをつかれて失点し試合を落としてしまった。
男女ともいわゆる死の組。ともに初戦は一番勝チャンスがある相手だったが勝ち点3は獲れずじまい。
女子の残る対戦はともに世界タイトルを取ったことがある強豪アメリカ、ノルウェー。男子はいわずと知れたナイジェリア、オランダ。はやくもグループ突破に黄信号がともった。
まあ、女子はともかく男子はあまり期待していなかったので別に驚くこともないが。
なでしこジャパンはニュージーランドに痛い引き分け。2点のビハインドを背負い敗色濃厚だった試合を粘って何とか引き分けに持ち込んだ。続く男子の初戦はアメリカ、前半試合を支配しながら好機を決めきれず、後半逆に足が止まりかけたところをつかれて失点し試合を落としてしまった。
男女ともいわゆる死の組。ともに初戦は一番勝チャンスがある相手だったが勝ち点3は獲れずじまい。
女子の残る対戦はともに世界タイトルを取ったことがある強豪アメリカ、ノルウェー。男子はいわずと知れたナイジェリア、オランダ。はやくもグループ突破に黄信号がともった。
まあ、女子はともかく男子はあまり期待していなかったので別に驚くこともないが。
2008年8月3日日曜日
シェーの時代の思い出
赤塚不二夫氏死す。
享年72歳。
『少年サンデー』で『おそ松くん』の連載が始まったのが昭和37年。
悲しいことがあったときはいつも、『おそ松くん』で嫌なことを笑って忘れた。
ノートの端にはイヤミやちび太の絵を真似して書いたっけ。
おでんの買い食いをみつかって先生に怒られ、写真を撮られる時は必ず皆でシェーのポーズをとった。
畏友・泉麻人の『シェーの時代』(文春新書)で描かれた昭和子供社会の当事者としては、赤塚作品はすべて時代を共有した宝石のようだった。
今頃は手塚治虫先生をはじめ、寺田ヒロオ、石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄、森安なおや諸氏ら先に逝ったトキワ荘の面々に迎えられていることだろう。
思い出と感謝の気持ちとともに
合掌
2008年8月2日土曜日
スルー決定
北京五輪の開幕目前。日本大使館が中国当局の勧告を受けて発表した注意事項のなかで、サッカーの応援に鳴り物はもとより“頑張れニッポン”の横断幕や選手の名前を書いたボード、さらには揃いのユニフォームを着ての応援も禁止なのだそうだ。
おそらく当然にして日章旗、旭日旗の類も駄目だろう。
中国の試合にも同様の措置が取られるのだろうか見ものだが、しかしいかに治安維持が目的とはいえ、この露骨な全体主義にもうあきれて言葉も出ない。これならいっそのこと全試合無観客試合にしてしまえばいいのに。
建国以来初めて世界に対して国際イベントのホストカントリーとしてかつてない数の外国人観光客が訪れることになるのに、これでは世界に向けて後進性をあらわにしてしまうことに他ならない。
反町ジャパンにはたいして期待しているわけではないが、こんなところさっさと負けて帰ってこいよとも言いたくなる。こんなに興味のわかないオリンピックもまたとない。
おそらく当然にして日章旗、旭日旗の類も駄目だろう。
中国の試合にも同様の措置が取られるのだろうか見ものだが、しかしいかに治安維持が目的とはいえ、この露骨な全体主義にもうあきれて言葉も出ない。これならいっそのこと全試合無観客試合にしてしまえばいいのに。
建国以来初めて世界に対して国際イベントのホストカントリーとしてかつてない数の外国人観光客が訪れることになるのに、これでは世界に向けて後進性をあらわにしてしまうことに他ならない。
反町ジャパンにはたいして期待しているわけではないが、こんなところさっさと負けて帰ってこいよとも言いたくなる。こんなに興味のわかないオリンピックもまたとない。
2008年7月31日木曜日
本屋がなくなるなんて
出版不況が身にしみる今日この頃、辛いのは何も作り手の側だけのことではない。売り手のほうも大変なのである。
青山ブックセンターがピンチらしい。一度、親会社の不動産部門の失敗で窮地に陥ったが、取次ぎの洋販の支援で何とか破産を免れていた。今回はその洋販が負債額65億円で破産宣告したそうである。青山ブックセンター自体の業績が悪いわけではないので何ともツイていない。洋販は流水書房も傘下にしているのでこちらもヤバイのだろうか。
やはりネットで書籍を注文する時代になって、リアルショップはどこでも辛くなっているのだろう。
青山ブックセンターはデザイン系の書籍の宝庫だし、朝までやっているし、店員さんのPOPは凄く参考になるし、無くなったら困るなあとは思うものの、神保町にいると六本木に行くことだって(飲みは別だけど)そうそう頻繁にあるわけではないので、お前が売り上げに貢献したかというと何も言えない。
確かにネットは便利だし、レイ・ブラッドベリの『華氏451』みたいに活字がなくなってしまうわけではないので、流通形態が時代とともに変わっていくのはある程度やむをえないのかもしれないが、ビブリオマニアとしては書店という居心地の良い空間が失われてしまうのは耐え難いものがある。『シネマと書店とスタジアム』という沢木耕太郎の書籍が出版されたとき、“まさに自分のフィールド”と共感したものだ。
大型書店でも倒産の憂き目に会う時代に、ましてや個人経営の街の本屋さんが店を畳んでしまうのはもう止められないことなのかもしれない。そんなことを思いながらたまたま所用で出かけた新井薬師駅の商店街を歩いていたら、典型的な小さな街の本屋さんを見かけた。しかも2軒。何かとっても懐かしい気分で引き戸を開けておじさんがレジにぽつんと座る店内に入ってみた。長居をするとハタキをかけられるかもしれないので、いつもはあまり買わない週刊誌を選んで買って出た。果たしていつまでこの店も頑張れるのだろうか。
よし!明日は、六本木まで足を伸ばしてみるか。神保町にも当然というか書店には困らないのだが、やはり気持ちだけでも連帯を示したい。あ、それと八王子の啓文堂にも行ってあげなければね。交通費かかるなあ。
2008年7月27日日曜日
完全アウェイの夜
土曜日、野球観戦のお誘いを受け東京ドームへ「巨人×ヤクルト」戦を観にいった。
私は生来のアンチ巨人なので、こと巨人戦に限っては東京ドームの一塁側席にはめったに行くことは無い。巨人戦を一塁側で観たのは、もう30年くらい前のやはり招待を受けて行った時のこと。確か太平洋から移籍したばかりの加藤初が先発だった。
今回の席は、一塁側内野席だがほぼ右翼外野席に近くいわゆる応援団席の一端である。当然にして周囲は巨人のユニフォームをまとった連中だらけで、居心地悪いことこの上ない。私にしてみれば最悪といってよい環境である。完全アウェイとはこのことだ。
しかしいつもと違う目線で周囲を見るのは新鮮といえば新鮮だった。
まず一塁側の指定席にビールを売りに来る売り子さんは、なぜか綺麗な子が多い気がする(あまり根拠は無いが)。応援に関しても、3桁~4桁の背番号をつけてるユニフォームをまとった連中が何人もいたので聞くと、ファンクラブの企画で自分の名前と希望の番号(抽選らしい)をつけられるキャンペーンがあるそうだ。これなんか阪神でやってくれればすぐ応募したいぞ。小笠原の打席では小笠原諸島の親善大使をつとめることに敬意を表してか皆でイルカの人形を振って応援したり(日ハム時代から継続しているそうだ)、選手に対してのコールも趣向を凝らしていてなかなか洗練されている。巨人の応援といえばダッグアウトの上に登った関谷某とかいう柄の悪いデブのおっさんが三三七拍子を強要していた時代から見れば隔世の感がある(っていつの時代だよ)。
試合は、先発・増渕の好投もあってヤクルトが5回まで4-0とリードしていたので、声には出さないが秘かにほくそえんでいた。二軍から昇格したばかりの李承燁は全く振れていないし、話題の人・ニ岡もやはりまだ立ち直っていないのか全く精彩を欠いていて、唯一注意しなければいけなかったのはラミレスくらい。こりゃ、ビールも美味いというもんだ。
増渕は5回を過ぎ勝ち投手の権利をつかむと、後続に託しお役御免になった。しかしその後がいけなかった。
中継ぎ陣が次々と滅多打ちされあっさり逆転。終わってみれば12点取られて大敗していた。
アンチ巨人にとってはくそ面白くも無い野球観戦だったが、この試合でまあ敵ながら良かったと思ったのは上原の復活。中継ぎで登板し1回を三者凡退に切ってとった。今まではいかにも腕が振れていない感じがしたが速球も自信を持って投げ込んでいたし、変化球の切れもよく気合の入った久々にいい投球だった。
この時期の上原の復調は間近に迫った北京五輪の代表チームにはこのうえない朗報である。昼間、IBAFの突然の延長ターンオーバー制採用に激怒していた星野監督も少しは機嫌を直したはずだ。
ちょっとまてよ、日本代表の主将でもあるヤクルト宮本が、すべては代表に良かれと思ってわざと花を持たせた…、なんてことはないよな、やっぱり。
2008年7月23日水曜日
暑いが美味い
しかし暑い。
梅雨明けとともに異常な暑さの日が続く。今日は東京も38度を超えた。
日本は確実に亜熱帯になってしまった。
確かに地球の将来が不安になる今日この頃である。
だがしかし、暑けりゃ暑いほどビールが美味く感じるのは、地球に対して後ろめたくはあるが仕方が無い。酒呑みの悲しいサガなのである。
昨日は仕事で世話になっているOSさん、KGさんという女性二人を引き連れ品川港南口に5月にオープンした『タイムシャワーブリュアリー』というビヤホールに飛び込んだ。以前夕刊紙で記事が載っていたのでめぼしをつけていたのだが、ベルギー&ドイツビールを中心に約50種のビールが楽しめる店だ。特にヒューガルテンのホワイトビールの生が味わえるのが嬉しい。しかも料理も芝浦の食肉市場に隣接している地の利を生かし、新鮮な肉類の鉄板焼きがなんとも美味い。
そういやこの近辺は食肉工場に勤める人たち相手の立ち飲み屋とかも多かった場所だが、品川駅ビルの大変貌とインテリジェントビルの大林立で街自体がビジネスピープルのたまり場と化してしまった感があり、この店のコンセプトなんざ、ウォール街にあってもおかしくない様相だぜ。
オヤジサラリーマンのサンクチュアリ=新橋とは明らかに種族を異にするネクタイ族で店内はいつしか満員になっていた。
2008年7月21日月曜日
あるプロカメラマンを偲ぶ
以前在籍していた会社の写真部のNカメラマンが心筋梗塞で急逝されてしまった。
休日に長らく会っていない昔の会社の人から自宅に電話がかかってくると、往々にしてあまりいい話ではないが、今回も嫌な予感は的中してしまった。
Nカメラマンは数歳年上の先輩で、「明星」「平凡」華やかし頃から芸能畑専門で活躍されて来たベテランである。仕事ではあまりシャッターをバシャバシャ切らず、こちらがちょっと心配になるくらいだったが出来上がりは確かな職人肌の人だった。仕事以外でも麻雀やゴルフで業界の人と親しく付き合い顔も広く、それ以上にいつも笑顔を絶やさない人柄で若い記者からも慕われる人だったように思う。以前大病をしてしまったが、好きだった酒もタバコもやめて最近はすっかり元気になったと人づてに聞いていただけに、突然の悲報に声も出なかった。
とりもなおさず昨夜お通夜に駆けつけた。会場が自宅から歩いていける近くのお寺の会館だったので時間通りに行くと、すでに大勢の人が焼香の列に並んでいて故人の人柄が偲ばれた。祭壇の遺影はいつもの笑顔でわざわざありがとうと語りかけてくるようで泣けてしまった。撮る側のプロは撮られる写真の顔も素敵だった。
30年以上にわたる雑誌の仕事で、作品で名を成すことも無く個展や個人の写真集を出すことも無かったが、最近、子供番組の戦隊もののスターたちのムック本を出したのが唯一の著作物となった。しかしながら彼は、ファインダーを通し1970年代からの芸能やスポーツの現場にいつも立会い、その時代の一端を切り取り続けてきたのだ。彼が撮った無数の写真は幾多の雑誌を通し、それこそ膨大な数の人の目に触れ続けてきたのである。そのプロフェッショナルな仕事の評価は決して貶められることは無い。
Nさん、長い間お疲れ様でした。これからも笑顔のイメージを胸に抱き続けていきます。
どうかやすらかに、ご冥福をお祈りいたします。
合掌。
休日に長らく会っていない昔の会社の人から自宅に電話がかかってくると、往々にしてあまりいい話ではないが、今回も嫌な予感は的中してしまった。
Nカメラマンは数歳年上の先輩で、「明星」「平凡」華やかし頃から芸能畑専門で活躍されて来たベテランである。仕事ではあまりシャッターをバシャバシャ切らず、こちらがちょっと心配になるくらいだったが出来上がりは確かな職人肌の人だった。仕事以外でも麻雀やゴルフで業界の人と親しく付き合い顔も広く、それ以上にいつも笑顔を絶やさない人柄で若い記者からも慕われる人だったように思う。以前大病をしてしまったが、好きだった酒もタバコもやめて最近はすっかり元気になったと人づてに聞いていただけに、突然の悲報に声も出なかった。
とりもなおさず昨夜お通夜に駆けつけた。会場が自宅から歩いていける近くのお寺の会館だったので時間通りに行くと、すでに大勢の人が焼香の列に並んでいて故人の人柄が偲ばれた。祭壇の遺影はいつもの笑顔でわざわざありがとうと語りかけてくるようで泣けてしまった。撮る側のプロは撮られる写真の顔も素敵だった。
30年以上にわたる雑誌の仕事で、作品で名を成すことも無く個展や個人の写真集を出すことも無かったが、最近、子供番組の戦隊もののスターたちのムック本を出したのが唯一の著作物となった。しかしながら彼は、ファインダーを通し1970年代からの芸能やスポーツの現場にいつも立会い、その時代の一端を切り取り続けてきたのだ。彼が撮った無数の写真は幾多の雑誌を通し、それこそ膨大な数の人の目に触れ続けてきたのである。そのプロフェッショナルな仕事の評価は決して貶められることは無い。
Nさん、長い間お疲れ様でした。これからも笑顔のイメージを胸に抱き続けていきます。
どうかやすらかに、ご冥福をお祈りいたします。
合掌。
2008年7月19日土曜日
スペインユーロ優勝記念食事会
スポーツカメラマンの北川外志広さんと久しぶりに食事をした。北川さんは河口湖に自宅があってしばらく東京の仕事場を離れて自宅に戻っていたそうで、すっかり日焼けしていた。
北川さんとは昨年末台湾で行われた野球の北京五輪最終予選に同行させていただいた。本大会はフリーのカメラマンには取材パスは出ないので、日本でテレビ観戦するそうだ。陸上競技、特にマラソンでは日本有数の人なのにもったいない話である。
四谷三丁目で待ち合わせて、荒木町のスペイン料理「La Taperia」へ出向く。先月観にいったeuro2008の話を聞かせて欲しいということだったので、優勝国にちなんでのチョイスだったが、店のオーナーシェフのカルロスもさぞかし機嫌がいいだろう(いつもだが)と踏んでのことである。
案の定、マドリッド出身のカルロスは“うーん、いつも駄目だったからほんと珍しいよ”と言いつつもやはり嬉しそう。44年ぶりのタイトルは阪神ファンにも似た屈折した歓喜なのかもしれない。
お店のほうは連休前の週末とあって満員状態。予約をしていなかったのであやうく入れないところだったが、2人だけなのでなんとか席をつくってもらう。ここのタパス(小皿料理)は定評があって在日スペイン人も多くやってくる。まずはホワイトアスパラガスのアンチョビサラダをオードブルにし、ハモン入りのコロッケやイカの墨煮、トリッパと豆のトマトソース煮などを試したが、どれも素晴らしくパエージャを注文する前に腹が一杯になってしまった。しかもセルべッサ、リオハワインのフルボトルを頼んで一人頭6000円はリーズナブルだろう。
北川さんとは昨年末台湾で行われた野球の北京五輪最終予選に同行させていただいた。本大会はフリーのカメラマンには取材パスは出ないので、日本でテレビ観戦するそうだ。陸上競技、特にマラソンでは日本有数の人なのにもったいない話である。
四谷三丁目で待ち合わせて、荒木町のスペイン料理「La Taperia」へ出向く。先月観にいったeuro2008の話を聞かせて欲しいということだったので、優勝国にちなんでのチョイスだったが、店のオーナーシェフのカルロスもさぞかし機嫌がいいだろう(いつもだが)と踏んでのことである。
案の定、マドリッド出身のカルロスは“うーん、いつも駄目だったからほんと珍しいよ”と言いつつもやはり嬉しそう。44年ぶりのタイトルは阪神ファンにも似た屈折した歓喜なのかもしれない。
お店のほうは連休前の週末とあって満員状態。予約をしていなかったのであやうく入れないところだったが、2人だけなのでなんとか席をつくってもらう。ここのタパス(小皿料理)は定評があって在日スペイン人も多くやってくる。まずはホワイトアスパラガスのアンチョビサラダをオードブルにし、ハモン入りのコロッケやイカの墨煮、トリッパと豆のトマトソース煮などを試したが、どれも素晴らしくパエージャを注文する前に腹が一杯になってしまった。しかもセルべッサ、リオハワインのフルボトルを頼んで一人頭6000円はリーズナブルだろう。
北川さんのいつもながらのスポーツ界の裏話も聞けて本当に楽しい一夜となった。
2008年7月18日金曜日
消え行くコマ劇場でシャウトする 劇団新感線
昨夜は久々芝居を観にいく。
ずいぶんと前に、演劇好きの若いライターの女性のお誘いもあって前売りを買ってもらっておいたのだが確かに前評判が高く、一部の当日券(見切り席)を除いてキャパ2千のコマ劇場にもかかわらずすぐにソールドアウトだったそうである。
観にいったのは劇団☆新感線の『五右衛門ロック』。主演の古田新太に加え、松雪泰子、江口洋介、北大路欣也、川平慈英、濱田マリ、森山未來といった豪華客演陣を迎えての4時間にわたる(20分の休憩はさむ)一大音楽劇である。
4時間という長丁場は相当身体にこたえるかなと心配していたが、なんの、歌あり、踊りあり、活劇あり、笑いありーので、息つく間もない。まあ、あまり考えないで済むエンタテインメントとしては充分楽しめた。
豪華キャストの見所をこれでもかと用意しているだけあって、主役の古田新太の五右衛門の存在感が希薄になってしまうほどだったのだが川平慈英と右近健一扮するイスパニア商人の怪演振りはなかなか笑かした。江口洋介や松雪泰子の三のセンも結構良い味を出していたし歌が上手いのも驚きだった。
席が前から3列目という舞台の至近距離だったので、役者の表情がよく判るのは良いのだが、コマ劇場の名前の由来となる巨大な回転式円筒状のせりあがりも舞台に近すぎて視界からはずれてしまうし、客席の通路を使う演出も多かったので振り返って追わなければならなかったのが難といえば難だったかもしれない。
アフターステージは芝居系ということもあって、同行のお嬢さん方3人をお連れして三丁目の『かり屋』に空腹を満たしに行ったのだが、両手に余る花というよりも傍から見れば女子大生を引率するセクハラ教授ぽい構図なのかもしれん。こちとら新感線も初めてでハナから最近の演劇の話題なんぞにゃ付いていけるわけもなし、いきおいテラヤマだの第七病棟だのと、いにしえの昔話をついついカタッテしまうというオヤジの本領発揮。これも悲しい年寄りのサガゆえどうか堪忍してくだされ。
ずいぶんと前に、演劇好きの若いライターの女性のお誘いもあって前売りを買ってもらっておいたのだが確かに前評判が高く、一部の当日券(見切り席)を除いてキャパ2千のコマ劇場にもかかわらずすぐにソールドアウトだったそうである。
観にいったのは劇団☆新感線の『五右衛門ロック』。主演の古田新太に加え、松雪泰子、江口洋介、北大路欣也、川平慈英、濱田マリ、森山未來といった豪華客演陣を迎えての4時間にわたる(20分の休憩はさむ)一大音楽劇である。
4時間という長丁場は相当身体にこたえるかなと心配していたが、なんの、歌あり、踊りあり、活劇あり、笑いありーので、息つく間もない。まあ、あまり考えないで済むエンタテインメントとしては充分楽しめた。
豪華キャストの見所をこれでもかと用意しているだけあって、主役の古田新太の五右衛門の存在感が希薄になってしまうほどだったのだが川平慈英と右近健一扮するイスパニア商人の怪演振りはなかなか笑かした。江口洋介や松雪泰子の三のセンも結構良い味を出していたし歌が上手いのも驚きだった。
席が前から3列目という舞台の至近距離だったので、役者の表情がよく判るのは良いのだが、コマ劇場の名前の由来となる巨大な回転式円筒状のせりあがりも舞台に近すぎて視界からはずれてしまうし、客席の通路を使う演出も多かったので振り返って追わなければならなかったのが難といえば難だったかもしれない。
アフターステージは芝居系ということもあって、同行のお嬢さん方3人をお連れして三丁目の『かり屋』に空腹を満たしに行ったのだが、両手に余る花というよりも傍から見れば女子大生を引率するセクハラ教授ぽい構図なのかもしれん。こちとら新感線も初めてでハナから最近の演劇の話題なんぞにゃ付いていけるわけもなし、いきおいテラヤマだの第七病棟だのと、いにしえの昔話をついついカタッテしまうというオヤジの本領発揮。これも悲しい年寄りのサガゆえどうか堪忍してくだされ。
いきなり鬱
ブログ開設にあたって日記のネタ探しているまさにその最中に、仕事のクレームが発生。
刷り上ったばっかりのH紙の広告タイアップページで痛恨の表記ミス発見。クライアントは激怒りで平身低頭するも久々に語気荒く怒られまくってしまったorz
本当に単純な表記ミスだが、それだけに申し開きも出来ない。前号もミスがあったので気をつけてはいたのだが、こんどは大丈夫だろうと思っていた部分で魔が差したように誤表記を見過ごしてしまった。
来週早々、朝一番で先方にスタッフ一同雁首揃えて土下座しに行かねばならなくなった。
当然謝罪と賠償ということになるかもしれない。
謝罪と賠償=実に嫌な言葉だ。
戦後延々と言われ続けて政府関係者に少しシンパシーを感じてしまった。
でもまあ、何とかならなかった例はないぜ、をモットーにここ何日かは忍の一字である。
刷り上ったばっかりのH紙の広告タイアップページで痛恨の表記ミス発見。クライアントは激怒りで平身低頭するも久々に語気荒く怒られまくってしまったorz
本当に単純な表記ミスだが、それだけに申し開きも出来ない。前号もミスがあったので気をつけてはいたのだが、こんどは大丈夫だろうと思っていた部分で魔が差したように誤表記を見過ごしてしまった。
来週早々、朝一番で先方にスタッフ一同雁首揃えて土下座しに行かねばならなくなった。
当然謝罪と賠償ということになるかもしれない。
謝罪と賠償=実に嫌な言葉だ。
戦後延々と言われ続けて政府関係者に少しシンパシーを感じてしまった。
でもまあ、何とかならなかった例はないぜ、をモットーにここ何日かは忍の一字である。
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