2010年8月9日月曜日

8月に思う


6日は広島、今日9日は長崎の平和祈念式典。
週末からテレビでもNHKを中心に原爆関連、戦争関連の多くの番組が放送された。
今年は65周年ということもあり、またNHKもBS,BS-hiとチャンネルも増えたせいか例年に増して気合の入った“夏ジャーナリズム”特別編成のように思う。どの番組もテーマは多岐にわたるが、もはや風化しつつある戦争の記憶を掘り起こし、平和の尊さを訴える力作ばかりであった。

自分が初めて広島を取材したのは1983年。当時働いていたテレビ雑誌の特集記事のため38年目の広島を訪ね、現地で原爆の実相を伝えるために寝食を忘れてドキュメンタリー制作に従事するテレビマンたちの仕事ぶりを伝える旅だった。その前年に山口放送が制作し後世に残る衝撃的な番組となった「聞こえるよ、母さんの声が~原爆の子百合子」のプロデューサーだった磯野恭子さん(現岩国市教育長)を取材する機会があったのが発端だった。ヒロシマを報道し続けることへの火が出るような執念に接し深く感銘を受けたことから、一般商業誌では地味で重いテーマではあったが、現地で戦うテレビ制作者たちを読者に紹介することがせめてもの自分に課せられた責務ではないかと思い、立っての希望でなんとか編集会議でページを作ってもらったのであった。

この「38年目のヒロシマを歩く」と題された4Pにわたる特集記事は、自ら爆心地を歩き、資料館を訪ね、殉職した職員の碑が局舎の柱になっていたNHK広島放送局、そして広島テレビの平和公園の取材現場でスタッフたちと行動をともにした貴重な経験を、まだ若くつたなかったがわれながら精いっぱい書いたつもりであった。
発売直後、中国放送の若いディレクターから“なんでうちらのことを取材してくれなかったのか”と猛烈な抗議が来て、電話をはさんで何時間も討論するという思わぬ副産物もあった。雑誌の販売上、全国編成の番組に限らせてもらったことを謝罪すると先方もキー局の編成制作の無理解を嘆き、テレビジャーナリズムの成果と限界を時間を忘れて語りあったのを昨日のように覚えている。

そんな反響もあってか、思えばいわばこの特集記事がまだ若かった自分のジャーナリズムの末席を汚す仕事の原点であったのではないだろうか、そんな思いで今でもこの時期が来るとボロボロになった掲載号を引っ張り出してきてページをめくってみるのである。

記事を読むと当時すでに戦争体験の風化を危ぶんでいるが、あれからまた27年もの歳月がたってしまった。
記憶の風化どころか、生存者自体が例年少なくなっていく現実に慄然とする。
27年前の8月にお会いした人々は、その後どういう人生を歩んでおられるのだろうか?いまなお、原爆の悲劇を今に伝える戦いを続けておられるのだろうか?あの、電話で食ってかかってきたディレクターもいまだに制作に編成に苦闘しているのだろうか?

週末からテレビを見ながらあの夏会った人たちの顔をひとりひとり思い浮かべている。

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