2009年9月4日金曜日

祖父の著書発見


古本のネットを検索していて、偶然にも祖父・秋山光清の著書『山鹿兵藤次秀遠』を発見し早速購入してみた。
福岡県飯塚市の古書店の出品で昭和7年7月10日に発行されたもの。当然にしてシミだらけでボロボロ、綴じの針は錆びて開くと粉になってこぼれて落ちてしまった。
発行は山鹿秀遠顕彰會という団体の名になっていて、爺さんの地元の福岡県遠賀郡芦屋町の住所が記してあるので本人の自費出版に近いのではないだろうか。しかしよく残っていたものだ。定価金参拾銭というのが歴史を感じさせる。

爺さんは歌人にして郷土史家だったそうで、地元の城山公園には歌碑があるので昔は地元ではちょっと知られた文化人だったのだろう。城山公園はかつての山鹿城の跡にできた城祉公園であり、平安末期その山鹿城を築城した主がこの本のタイトルとなった山鹿兵藤次秀遠という武将である。

この山鹿秀遠は百足退治の逸話で知られ平将門を討った俵藤太の弟・藤次の末裔で、源平合戦の際、九州まで逃げてきた安徳天皇と平氏一門を山鹿城に匿い、さらには壇ノ浦で松浦党とともに自ら水軍を率い平家軍の主力として奮戦したものの、武運恵まれず源義経に敗れる。熊野のほうに落ち延びたが所領は奪われ一族は四散した。

本の内容はこの地元の英雄・山鹿秀遠の出自から源平の合戦での猛戦ぶりを研究したもので、さらにその17代後の元和年間に生まれ、会津出身の天才軍学者として知られた山鹿素行との縁戚関係、その弟子たる大石内蔵助との関係(山鹿流陣太鼓を叩いて討ち入りしたのでおなじみ)、さらには思想的に影響を与えた吉田松陰との関係、その吉田を師と仰いだ乃木希典との関係まで書き連ねている。

爺さんがこれほどまでに山鹿秀遠、及び山鹿素行に入れ込んだのは、実は自分の女房(私の祖母)を秀遠の後孫にあたり代々神官であった波多野氏から娶ったからだと思われる。ということは私も山鹿秀遠の血を引いているということなのか?
秀遠滅亡の後に頼朝の命により城主に取って代わったのが麻生家なので、どおりで麻生太郎は本能的にいけすかない奴だと思っていたのに合点がいった。そうかわが血脈の仇敵だったわけだな奴は。ザマミロ。

ちなみに婆ちゃんの実家・波多野氏には婆ちゃんの従兄にあたる右翼の実業家・波多野春房氏という人物がいて、その女房で女性編集者だった波多野秋子さんが文豪・有島武郎と情死してしまい、歴史上の有名人となってしまった。この事件を扱った映画『華の乱』で故・成田三樹夫が春房氏を演じて、すげー悪者にされていたっけ。一族の名誉をかけて言えば、実際の春房氏は有島を強請ったりするような人物ではなくすごく教養のある紳士だったとのこと(伯父の一人が婆ちゃんから聴いたことがあるそうだ)。

爺さんの山鹿マニアぶりには念が入り、自分の次男・光世(私の伯父ですな)を長崎県平戸市(素行は会津から赤穂を経て松浦藩にヘッドハンティングされた)で女系家族で血統が絶えかかっていた山鹿家に婿入りさせ、かろうじて血脈をつないだほどである。山鹿姓となった光世伯父はその後、県会議員になったり平戸市長を何期か務める平戸のボスになった。この伯父にも『山鹿素行』(錦正社刊)という著作がある。そういやこの伯父が源平時の鎧かぶとを着装し悦に入っている写真を見たことがあるが、こういう血脈を偲んでのことだったのかw

誰がどうなっているのかややこしくてよくわからなくなってきたが、爺さんの本を読んでいると(旧仮名使いで難解だが)、きめ細かい家系図を多用し(本当かどうかわからないが)、歴史上の伝説の人を掘り起こす読み物としてはなかなか面白く、興味深い。
祖父の面影はごく幼いころの記憶の片隅にしかなくあまり覚えてはいない。郷土史家にして歌人という仕事だか趣味だかよくわからない生業で人生を全うしたわけで、こういう気性の方が自分に似ていてなんだか血筋を意識してしまうが、少なくとも自分の名前でこういう研究書を世に残したわけだから、私には比ぶべきもない立派な業績を残しているといえよう。ボロボロの本を見ながら、負けずに頑張らなきゃとなんとなく厳粛な気分になって襟を正してしまった。

歳をとると自分のルーツに興味がわくという定説があるが、本当に最近、自分のルーツがどこから来たのか気になるようになってきた。父親方はこのようになんとなく面白い話があるが、一貫して庶民だった母親方はどういうルーツを持つのだろうか。話は派手な方が面白いのだろうが、戦時下植民地朝鮮で一旗揚げ、何もかも失って帰国した波乱の生涯を送った母方・吉浦家の祖父の人生も興味深い。どちらの血筋も親戚はどんどん減ってしまっていて昔のことを語れる人は本当に少なくなってしまった。核家族化であまり親せき付き合いしてこなかったが、いまなお生存している数少ない伯父、伯母たちに無性に話を聞いてみたい今日この頃である。

28 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すごい血脈ですね。
その血をひいてる感じします。

ルーツを探りに九州を旅したいと言ってた先日の電話に納得がいきました。

秋山光次 さんのコメント...

それは浮世離れしてるってことですかw

でもなあ、どんな人だって先祖をたどっていけば源氏や平家に行き着くって言われますからね~、ましてや俵藤太までさかのぼればほとんど神話の世界、爺さんには悪いけど眉につばつけておいたほうがいいんでしょう。

ルーツ探りもそうですが、天正少年使節オタとしては、九州各地に所縁の土地があってそっちのハンティングもしてみたいです。

yamaga さんのコメント...

「山鹿素行の祖父」で検索してここにたどり着きました。山鹿素行の祖父は、亀山にいたとのこと。私は、旧姓山鹿といい、鈴鹿市三宅町の出身です。(亀山の隣)九州の山鹿や、山鹿素行と何かつながりがあるのではと、最近マニアックに調べ物をしている次第です。
 
 おじいさんが細かい家系図を書かれていたとのこと。見せていただくことはできないのでしょうか?

秋山光次 さんのコメント...

yamagaさま、書きこみありがとうございました。ちょっと驚きましたw
鈴鹿市のご出身とのこと、祖父の書いたものに(素人郷土史家なのであてになるかどうか)よると山鹿秀遠は壇ノ浦の敗戦後は熊野に落ちたということのようですから三重だと、その血筋かもしれませんね。


メールでご連絡先を教えていただけるなら、コピーを送るなりしますが。
akiyama@mersey.co.jp

yamaga さんのコメント...

さっそくのお返事ありがとうございます。
メールしますので、どうぞよろしくお願いします。

Unknown さんのコメント...

こんばんは福岡県遠賀郡芦屋町の山口です。以前山鹿秀遠のことでメールしたものです。この度やっと芦屋町歴史資料館で山鹿素行展を行っています。
下記のアドレスで調べて見てください。
http://www.town.ashiya.lg.jp/navigate/public/mu1/bin/view.rbz?nd=306&ik=1&pnp=116&pnp=300&pnp=306&cd=2344
芦屋町の公式ホームページの中です。

秋山光次 さんのコメント...

山口様

貴重な情報をお寄せいただきありがとうございました。
5月までと長い会期のようなので、ちょっと観にいければいいなあと思っております。

Unknown さんのコメント...

本日、山鹿素行展に行ってきましたのでご報告しますと、主に展示品は山鹿流兵法と平戸藩の事などでした。面白い内容としては今大河ドラマの吉田松陰が山鹿流入門祈願書や依頼書の展示がありました写真もとってきましたのでもしよければメールで送りますが・・・アドレスはどこにすればよいかわかりません。教えていただければ送ります。

秋山光次 さんのコメント...

ありがとうございます!
アドレスは
akiyama@mersey.co.jp
です。

何卒よろしくお願いいたします。

さんのコメント...

波多野と申します。
うちの家には古いお位牌があり、それを調査していく内、九州芦屋の波多野氏にたどり着きました。亀甲紋の家紋なこともあり神官系なのかなと思いつつ、松浦党の波多氏のことも気になって、その筋で調べていた所、本サイトにたどり着きました。
どこかで親戚なのかもしれませんね。

秋山光次 さんのコメント...

波多野様

レスポンスいただきありがとうございました。

祖母の実家が波多野で、家は代々神官だったようです。一説によると藤原一門につながる由緒を持ち、祖父と結婚する際もつりあわないという反対する声もあったと、聞いたことがあります。
北九州の岡田神社、春日神社、一宮神社、富山神社などの歴史のある神社の宮司さんも皆、波多野という名のようです。現職の芦屋町長・波多野茂丸氏も狩尾神社の宮司から転じた人だとか。

おっしゃるようにどこかで血脈は繋がっているのでしょうね。なんだか不思議な縁を感じます。

さんのコメント...

レスありがとうございます。
なるほど、北九州の遠賀郡あたりの複数の神社が波多野氏というわけですね。
 藤原氏→波多野氏の説としては、藤原北家魚名流を名乗った平安時代の押領使、藤原秀郷(平将門を討ち取ったとされる人物で、藤原姓はちょっと怪しい)の子孫が現在の神奈川県秦野市あたりに住んだ際に波多野を名乗ったとされる説があります。
 ただ、九州地方の波多野氏、とりわけ先祖に関しては、我が家の家紋及び、なんとなく「そうじゃない感」勘といえば良いのでしょうか、違う気がしておりまして、先祖の出自候補地を調べ、目星をつけておりました。
 最近になって謄本等から先祖を調べる方法を知り、第一候補地であった芦屋町に出自があることがわかって、やや興奮しているという感じです。
 実は、九州の岡の県主に熊鰐という人物があり、岡田神社の家系の先祖として伝わっているようです。この人物については謎も多いですし、どうして氏族名称が「波多野」になったのか、また散在する神社と、私の家系の繋がりが有るのか無いのかも、今後調査していこうと思っております。
 私も不思議なご縁を感じます。九州芦屋周辺の「波多野氏」について何かわかりましたら、よろしければメールさせていただきたいと思います。

秋山光次 さんのコメント...

なんだかワクワクしてきますね。何かわかりましたら是非教えていただけますでしょうか。

Hara さんのコメント...

初めまして、山鹿秀遠で検索してきました。
去年の夏折尾からバスで山鹿城へ行き城址の写真は撮りましたが御祖父の秋山光清氏の歌碑は省略してしまいましたがWikiにリンクを張らせてもらいました此方のサイトにはあります

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/c/44aa941587f9da576e719d6dd5b94787/1

Hara さんのコメント...

で此方のサイトもWikiの外部リンクに貼らせて頂けないでしょうか
https://ja.wikipedia.org/wiki/山鹿秀遠

山鹿秀遠公が壇ノ浦の後熊野に落ち延びたとかここでしか確認できなかったので
秋山光清氏の本は検索で2,3の大学に所蔵されているようですが訪問は難しいので
単純に山鹿公が何故落日の平家に味方したのか興味はあります
糸島の原田種直公の方は大宰少弐に任ぜられたり一門の姫を嫁にとか恩義が分かるのですが
大分の緒方惟義公の様に平家に追い打ちをかけても裏切りともいえないような

近所の早稲田弁天町には山鹿素行の墓所もありますが本当に子孫なのかは何とも言えませんが
相州波多野氏の源実朝の菩提をともらった金剛寺も文京区小日向に分祀され
更に丸ノ内線の建設で中野上高田に移転とか

福岡の芦屋もトラトラトラの映画撮影に使われたり朝鮮戦争のB29の基地だったり歴史があったようですが安徳天皇の行宮跡地とかもう一度行ってみたいところですが
マンション管理・サッカー観戦とか御忙しい所宜しくお願いします
Hara

秋山光次 さんのコメント...

コメントありがとうございました。

リンクの件はこんなものでよければどうぞよろしくお願いいたします。
最近複数のSNSとかに追われて、こちらのブログの方はあまり熱心ではなくて、その後のフォローもなくすみません。

祖父の著作の中に、なぜに山鹿公が平氏方に組したのか書いてあったかどうか記憶にないので、ちょっと確認してみます。


Hara さんのコメント...

御忙しい中コメントありがとうございました
此方のブログも10年の歴史があり
サッカー日本代表が確実にステップアップしていく半面
出版不況は深刻なようですね

秋山光次 さんのコメント...

祖父の著書に寄れば、落ち目の平氏に組したのは、ざっくり言うと保元平治以来の源平の混乱は、皇位や政治を巡る「私闘」であり、秀遠は平氏の家人であったこともあるのですが高倉天皇(→安徳天皇)への忠義を貫いた。というふうに解釈していますね。鹿子木員信のような右翼思想家たちが秀遠を持ち上げるのもこういう天皇への忠節心みたいなことも背景にあるのかもしれませんね。

Hara さんのコメント...

詳しい返信ありがとうございました。
鹿子木員信、検索するとA級戦犯、え~と思うと捕虜を虐待とかそういう方ではなかったようですが
壇ノ浦前に九州の原田氏や菊池氏は既に降参、本州の大内氏や厚東氏は消極的にでも源氏支持、松浦党は半分内応
安徳天皇も後鳥羽天皇の即位で実質廃帝状態の中で
地方豪族は勝ちそうな方に味方する事は武士道や尊王思想と離れた時代なので何の問題もないと思うのですが
山鹿秀遠公は水巻町の八剱神社に戦勝祈願の狛犬を奉納し最後まで戦ったのは理屈でない部分があったのでしょう
地元の人達も可能な範囲で海のものを献じたりした伝承が残っています
勿論最後の方で裏切った阿波重能公のように返り忠が認められず火あぶり(別の伝承あり)の場合もあり厳しいですが
山鹿素行墓所近くには有島武郎旧居跡もあり、歌舞伎町には島崎藤村旧宅跡碑もありますが、まだまだ寒い中体調に気を付けて仕事頑張ってください、失礼しました。

秋山光次 さんのコメント...

ご丁寧なお返事いただき恐縮です。ずいぶん前に書いた日記だったのですっかり忘れていましたが、また自分の出自が気にかかるようになりました。ありがとうございました。

Unknown さんのコメント...

突然失礼します。私は福岡在住の山鹿姓の者です。
最近、筑前に山鹿氏という豪族がいたことを知りました。
私の先祖の15代前迄なら分かるのですが、それ以前のことは分かりません。(寺にある家系図を見たら分かるかもしれませんが)
その本には山鹿秀遠公の子孫のことについて何らかの情報はあるのですか?
私も山鹿秀遠公と一族の繋がりに興味があり、色々調べていこう思いました。

秋山光次 さんのコメント...

山鹿様

ご訪問ありがとうございました。
15代前までたどれるのは凄いですね。
山鹿一族は、平氏滅亡の後、関東藤原氏の宇都宮氏が山鹿姓を継いでいたそうで、いくつかの流れがあるみたいです。なにせ平安・鎌倉時代のことなので定かでないことが多いと思います。
祖父の著書にも秀遠公の子孫のことも若干書かれていますが、歴史的にそれが正確かどうかはどうなんでしょうか。
でも、だからこそルーツ探しはロマンが掻き立てられますよね。

はじめ さんのコメント...

ビックリです!私は、山鹿光世の弟の孫に当たります!子どもの頃、平戸の本家で、兜を被った写真を持っています!

秋山光次 さんのコメント...

おお!ということはお祖父様は光材さん、光民さんでしょうか?

お父様の代までは親戚づきあいもあったので、私の従兄弟たち(お父様も)のことも多分識っておりますよ。
ただ、そんなに行き来があったわけではないので、その後はすっかりご無沙汰してしまってました。

私も例に漏れず歳を重ねるとルーツが気になり、こんなことを書き連ねましたが、読んで頂けて嬉しく思います。
よければまた連絡いただければと思います。

はじめ さんのコメント...

祖父は「くらすけ」といいます。平戸で写真館をしていました。

秋山光次 さんのコメント...

平戸ということは、高清さんのご親戚かしら。
いずれにせよ母型筋の血筋もあるので定かではあるませんがルーツが繋がってますね。

はじめ さんのコメント...

平戸市発行だったか「山鹿素行」という冊子を中学生の時に読んだことがあります。私は現在61歳です。夏休みのときに平戸島で買ったのでしょうね。「鞍掛」家はご存知でしょうか?今はもう本家はなくなってしまったようですが。そこで兜をかぶらせてもらったと記憶しています。小学生の時です。高清さんですか。調べてみます。「おにいさんが光世と言って平戸市長だったとどこかで知ったのですが。くらすけさんの葬式には地元の衆議院議員から供花が届いていました。私が高校生の時だったと思います。「普通の写真屋さんなのに」と思ったものでした。

秋山光次 さんのコメント...

光世伯父は福岡県の芦屋の秋山家からの入り婿だったので、鞍掛家は元々の平戸の山鹿、松浦の直系なのでしょうね。
高清さんは光世伯父のご長男で、現在は確か本家を継がれ積徳堂跡・平戸観光資料館を管理されているように聞いています。

私は現在67歳です、なにかの、というか確かな縁ですね、今後ともよろしくお願いいたします。