2008年12月31日水曜日

週間呑みアルキスト12.15~12.31


●12月15日
新潟佐渡の酒蔵の入り婿社長H氏が上京、彼と仲の良い印刷会社A氏とともに神保町の中華料理『鐘楼』で食事会。H氏もA氏もかつては雑誌編集者だったが、現在は違った道を歩んでいるもののやはり会えば昔話から始まり雑誌の世界の話題になってしまう。2次会は『明治屋2nd』、新潟出身の常連さんがたまたま来ていてH氏の地元の“酒”の話で盛り上がる。

●12月17日
編集者かつ詩人のO氏が来社。以前O氏が主宰するオヤジロックの雑誌「40/60」の出版にちょっと協力したことのお礼ということで、お言葉に甘えて神保町の比内鶏の料理がおいしい『蘭奢待』でご馳走になる。創刊号の特集はニール・ヤング。なかなか渋い大人のロック雑誌だが2号目の発刊は創刊号の売れ行きしだいなのだとか。雑誌が元気のない時代だけに何とかがんばって次の雑誌を出して欲しいものである。

●12月18日
クラブワールドカップ準決勝の「マンU×ガンバ」戦を観戦しに横浜日産スタジアムへ。同行のaskさんと試合終了後に混雑を避けるべく早足で新横浜まで戻り、焼き鳥屋『もへじ』に陣取って試合評。ここの店はすっかり日産スタジアムに来たときの定番となってしまった。

●12月19日
K書店のハウスエージェンシーであるKM社のKB社長と編集プロダクションF社のY社長と神保町で忘年会。界隈はすでに忘年会シーズンでどこも混んでいたがすずらん通りの蕎麦屋『静邨』になんとか空席を見つける。KB社長とY氏とはかつての衛星ラジオ放送立ち上げ時の同志。厳しい時代だがかつてのような「熱」でもう一度面白い仕事を一緒やろうと盛り上がる。超満員の『明治屋2nd』で場所を空けてもらいハシゴ。

●12月21日
クラブワールドカップ決勝を、熱狂的CロナウドファンのS嬢とともに再び横浜日産スタジアムへ。気温はそれほどでもなかったが風が強く結構身体は冷えてきってしまったので、試合終了後やはり表彰式をパスして大急ぎでお約束の新横浜『もへじ』へ直行し暖を取る。毎年恒例だったこの大会だが来年から2年間はUAEへ開催が移管するのでこの試合後のパターンもしばし中断かもしれない。

●12月22日
スポーツカメラマンK氏と四谷の中華料理『こうや』で会食。スポーツの世界も不況の影響をもろにくらって仕事が激減したそうだ。そうはいうもののスポーツが金まみれのビジネス優先イベント化していたわけだから本来の姿に立ち戻るチャンスかもしれない。真剣勝負のスポーツ報道は廃れはしないと思うのだが。四谷でK氏のいきつけのBar『スリーサークル』にハシゴ。

●12月23日
わがサッカーチームの草創期のメンバーで早逝してしまったH君の没後10年ということでかつての仲間たちと西多磨霊園に墓参。帰りに昔試合のあとによくやったように車を連ねて立川駅近くの『ロイヤルホスト』に立ち寄って法事の会食。電車組の4名はさらに立川駅南口の『ジョン万次郎』へ移動して故人へ献杯することに。

●12月24日
某旅行会社のパンフレットデザインのプレゼンがあって、終了後デザイン会社M社のOG社長とデザイナーのN嬢とお疲れ様会を日比谷国際ビル地下のスペインバル『BAR ESPANOL LA BODEGA』へ。さすがにクリスマスイブということで店内はカップルや女性客でいっぱい。タパスをつまみながら仕事の成功を祈念してサルー!

●12月25日
お世話になっている漫画家のOKさんの紹介で仕事の相談をしているIT制作会社のSC社と忘年会。先方の会社に近い自由が丘の居酒屋『和旬』へ。若いスタッフの会社なので皆さんの食いっぷりが気持ちよい。この日は急な忘年会がダブルブッキングとなってしまいSC社の方々に途中抜けをあやまりつつ神保町へとんぼ返り。かつての同僚で退社後農業をやっていたSS氏が特別ゲストということでT出版O社長、デザイナーAkiさんのと合流しBar『クラインブルー』へ。

●12月26日
いつも立ち寄る『明治屋2nd』の常連さんによる忘年会が27日に行われるということだったが、27日は仕事がらみのライブ観賞の予定が入ったので個人的に1日早く忘年会ということにしてもらう。この日もけっこう常連の人たちが来ていたので結構店の忘年会っぽい気分であった。新宿の『T's Bar』にも年末の挨拶かたがた覗いてみるとaskさん、DONJUANさんが合流。終電ぎりぎりで帰宅。

●12月27日
広告会社D社のSM氏と恵比寿の『アート・カフェ・フレンズ』にフュージョンユニット和泉宏隆+鳥山雄司のライブに行く。お店はアートを名乗るだけに洋画のエッチングとかが多数掲げられたレストランだが、音響やライティングも装備されていて毎日のようにJAZZのライブが行われているとか。ライブ終了後帰り道が同方向なのでSM氏の地元の落合南長崎のBar『Eurasian』で遅い夕食をかねて飲むことに。

●12月28日
雑誌「40/60」を制作するO氏のZ社の忘年会に参加。場所は原宿キャットストリートのこじんまりしたBar『LoiteR』。大学生の頃はよく来ていたがとんとご無沙汰の原宿で飲むのはいったい何年ぶりだろうか。初めて会う人ばかりだったがそこは業界人の集まりだけに知り合いの知り合いみたいな人も多く、思わぬ人の名前が出てきたりで驚く。ゲストで関係者の友人の台湾青年がいたりしたので最後は英語、中国語が乱れ飛んでわけがわからない状態に。

●12月29日
今年レギュラーで仕事していたものの突然休刊になってしまったK誌のKN編集長と飲み会。世の中はもうすっかり休みモードなのでKN編集長の地元・東久留米の居酒屋『おちゃのこ菜々』でおでんをつつきながら来年の再出発のプランやアイデアを話し合う。お互いお先真っ暗な状況だが来年がいい年であるように頑張りましょう。

●12月30日
S新聞社のH嬢、デザイナーのF嬢と今年最後の仕事の打ち合わせをやった後食事へ。神保町界隈の店もすっかり休みに入っていて閑散としていたがたまたま開いていた中華料理屋の『酔仙飯店』へ。F嬢はこの日が初対面だったが、よく知っている出版社の仕事をしているので共通の知人も多いので驚く。暮れの暮れまで仕事の打ち合わせだったのでなんだか年末という感覚がしないが、この日でやっと仕事納めとなった。

●12月31日
妹と両親の墓参りをした後、石神井公園の蕎麦屋『稲田屋』で年越しそばを賞味。一年の呑みアルキの締めくくりは地元だったが振り返れば今年もよく呑んだ。100年に一度の不況で仕事的には暗くなる話ばかりだったが、こんな時期だからこそかえって憂さ晴らしも必要と割り切ることにしている。新しい年も懐はさびしくとも挫けず元気に笑って杯を重ねるべし。今年一年お付き合いいただいた皆様来年もよろしくお願いいたします。

2008年12月28日日曜日

今年最後のライブ

昨夜は仕事納めのあとお誘いがあって、恵比寿の「アート・カフェ・フレンズ」に和泉宏隆と鳥山雄司のジョイントライブを観に行ってきた。
会場は90人ほどのキャパのギャラリー・レストランなのだが天井が高く音がいいので、最近ではJAZZやシャンソン系のライブスポットとして人気のなかなか良い雰囲気のお店。年の瀬も押し迫った土曜の夜にもかかわらずほぼ満員の盛況で開演まじかに到着したわれわれだったが、なんとか補助の椅子で席を作ってもらう。

和泉宏隆(p)と鳥山雄司(g)は、高校・大学時代(慶応)の仲間元カシオペアの神保彰(dr)とともに「ピラミッド」というユニットを組んでいたのだが、神保は同じ時間に「スウィートベイジル」でやはりライブをやっているとかでこの日は和泉と鳥山にサポートベースが加わったメンバー構成。
フュージョンプレイヤーの第一人者であるお二人ゆえに曲も多彩で、もちろん和泉のオリジナルやピラミッド時代の曲もやるのだが、ミルトン・ナッシュメント、パット・メセニー、チック・コリヤあたりのカヴァーにはじまりエンニオ・モリコーネ、ミッシェル・ルグランといった大御所系から、はたまたドビュッシー、アース・ウインド&ファイアやスティービー・ワンダーまで、幅広い演奏を披露してくれた。
気がつけば休憩を挟んで2時間半を超えるロングライブだったがあっというまの楽しいひと時だった。

ライブを誘ってくれた広告会社のS氏が慶応の1級先輩にあたるので、終了後お二人に紹介していただいたが白髪の和泉氏が自分より二つ三つ若いので妙に自分が年食ったみたいな感覚になった。まあ、逆に歳の近い彼らがエネルギッシュな演奏を続けているわけだから、まだまだ大丈夫と無理やり自分を納得させたのだが。

2008年12月24日水曜日

東京タワーのお土産


東京タワーが出来て50周年なんだそうである。昨夜は様々なイベントが行われた由報道されていたが、確かに多くの人々がタワーに寄せる感慨、思い出があることだろう。
わが身に置き換えてみてもタワーが出来た当初(おそらく昭和35年頃だった)に一家で出かけた覚えがあり、展望台にのぼりその高さに身がすくむ思いをしたのを覚えている。一昨年亡くなった叔母がまだ20代で、ハイヒールをはいて幼児だった妹を抱きかかえ何百段も階段を下りたとその日のことを生前よく述懐していた。

20年ほど前に九州の田舎から中学生になった従兄弟が初めて一人で上京した際、東京見物に連れて行きお約束の東京タワーにも上ったことがある。彼が買った初めての東京のお土産は売店での東京タワーの置物だった。陳列されたケースを食い入るように見つめて両手いっぱいに大人から見ればガラクタにしか思えないお土産を抱えた坊主頭の田舎まるだしの中学生を見て、売店の売り子のオバさんが思わず売り物の紙袋を“これに入れなさい”と渡してくれて、つきそいとしてはすっかり恐縮してしまった。
その帰り路、東京タワーからつけ待ちのタクシーに乗って新宿まで都心を横断した。銀座や皇居、官庁街を窓の中からあれこれ教えてあげていると、今度は年配の運転手さんが“東京見物ですか。いやあ、自分が集団就職で上京したときのこと思い出しますなあ”とメーターをとめて、色々と遠回りをしてくれて思いつく名所に寄ってくれて更に恐縮した。
本当に口が重たい純朴な少年だったので、彼を見ているうちに売店のオバさんもタクシーの運転手さんも自身の「昭和」を投影させてしまったのかもしれない。
おそらく、幾千、幾万のこんな小さな思い出話が東京タワー50年の歴史にはあるのだろう。そんなことをニュース映像を見ながら思い出していた。

その中学生もその後、地元の大学を出て半導体輸出の会社の駐在員として現在イタリアに赴任しているそうである。彼もそのときの東京タワーの思い出をまだ覚えているだろうか?

2008年12月22日月曜日

マンU世界制覇


クラブワールドカップファイナルは結局<順当に>マンチェスターユナイテッドが1-0で南米代表のリガ・デ・キトを下した。
序盤から圧倒的に早いパス回しで試合の主導権を握ったマンUだったが、リガ・デ・キトのDF陣の“堅さ”とGKセバジョスの攻守もあってなかなか決定機をモノにできない。キト側もMFのアルゼンチン人プレイヤー、マンソがゲームをつくりカウンターを狙うもののいかんせん守備に費やす時間が長すぎる。なんとか0-0で折り返したが、後半に入ってすぐビディッチがもつれ合った後相手をひじで打ち一発退場になり、ゲームの流れが急に変わってしまう。マンソを起点にキトも攻勢に転じなんどか決定機を演出するが、これまたガンバ戦に3失点したGKのファンデルサールがファインセーブを連発しゴールを許さない。試合はなかなか見ごたえのある好ゲームへとなった。
しかし後半24分、ワントップに入っていたCロナウドがボールをキープし相手DFを二人ひきつけて左から走りこんだルーニーへ渡し、ルーニーは落ち着いてゴール右隅に狙い済ましたシュートを決め均衡を破った。まさに千両役者同士が演出した見事な得点だった。これを見るだけでも高い入場料を払ったかいがあったというものだ。
結局終わってみればマンUが手こずりはしたが順当に貫録勝ちしたということだろう。大陸別の代表戦というものの大陸に跨る多国籍スター軍団ゆえ勝つのが当たり前と言われればそれまでだが、南米代表も元々この大会にかけるモチベーションはより高いものがあるので、今回も根性は見せてくれたように思う。

特筆すべきは3位決定戦でメキシコのパチューカを破ったガンバ大阪の健闘ぶりだ。
おたがいすばやいパス回しの攻撃的なチームでガチで面白い試合を見せてくれた。日本の単独チームで世界の強豪相手にここまでやれるということを実証してくれたことに感慨深いものがあった。


さて来年から2年間、この大会はUAEへと会場を移すことになるのだが、3年後に再び日本に戻ってきたときトヨタがスポンサーをこのまま続けることが出来るのか、そんな事態になっていないことを願うばかりなのだが。

2008年12月19日金曜日

健闘は称えられるが


クラブワールドカップ準々決勝に“赤い悪魔”マンチェスターユナイテッド登場ということで、横浜国際競技場へ観に行く。この欧州チャンピオンに挑むのはACLを制したガンバ大阪。
実際レベルの差があるのは当然のこととして、どこまでくらいつけるかが焦点。昨年はレッズがミランに0-1で健闘したが、Cロナウド、ルーニー、テベス、ギグスといった破壊力はシャレにならないし、プレミアリーグは現在世界最高峰のリーグだ。さすがにどう考えてもガンバに勝ち目は無い。

ところが長旅の疲れもあるのか、立ち上がりマンUは意外とプレスをかけてこない。そこにボランチに入った遠藤を起点にサイドの安田が果敢に攻め上がり、また播戸の裏への飛出し動き出しも冴え、何度かチャンスをつかみ、惜しいシュートもあった。しかし、前半20分を過ぎだし徐々にエンジンがかかったマンU、Cロナウド、テベスが前を向いてボールを持つとガンバDF陣はあっという間に置いていかれてしまう。そしてセットプレーからあっという間に2点を献上してしまった。
“やっぱりねえ”
“虐殺開始か?”
スタジアム全体に諦めにも似たため息が漏れる。

しかしガンバは押されながらも反撃の機会を狙い続けた。後半29分、遠藤のスルーパスから橋本の折り返しを山崎がGKファンデルサールの壁を破った。
“お見事!”大会がトーナメント制になって以来初めて、準決で欧州のチームに失点させたのだ。
湧き上がるガンバサポーター席。
これに対して、試合を流しながら軽くプレーしていたマンUについに火がついた。ガンバの得点の余韻も冷めないうちにテベスに変わった真打ちルーニーがすぐさま驚異的なスピードで背後からのボールを胸で受けあっさり突き放すゴール。こうなるともう止まらない。その後、5分もしないうちにフレッチャー、ルーニーがガンバ守備陣を粉砕し加点してしまった。

これほどまでに差がつくとはと呆然とするガンバイレブンだったが、ここから彼らは「根性」を見せる。安田の切れ込みがネビルのハンドを誘いPKが与えられる。PK職人・遠藤がファンデルサールの指先を掠めて確実に決める。そしてロスタイムには橋本のミドルが飛び出し3点目をゲット。本気のマンUに対してひるむことなく2点差まで粘ったガンバの戦いぶりには正直よくやったと褒めていいだろう。観客も派手な点取り合戦にみな満足して帰路に着くことができた。

しかし5失点のすべての局面はいかんともしがたい失点で、まあ、このレベル差はどうしようもない。Cロナウド、テベス、ルーニーあたりがスピードに乗り出すとマーカーはついていけないし、枠にきっちり決めてくるシュートにGK藤ヶ谷は反応すら出来ない。セットプレーの高さ含めどれもこれもため息が出るような失点だった。試合後のファーガソン監督の賛辞に西野が社交辞令だろうと言ったのもよくわかる。現場としては完膚なきまでにやられたという意識の方が強いのだろう。

結果的にアジア代表としてまあ恥ずかしくない試合は出来たと言えるかもしれないが、この2点差を埋めるにはまだまだ遥かなる時間がかかる事を思い知らされた。
さて、決勝は日曜日。この日の戦いぶりを見る限りマンUの世界一は疑う余地は無いと思うのだが、ガンバよりははるかにレベルの高いディフェンス力を持つリガ・デ・キトがどこまで耐えられるか、今度は南米の誇りを見せてもらいたいものだ。

2008年12月15日月曜日

週間呑みアルキスト12.1~12.14


●12月2日
夕方打ち合わせのあと広告代理店D社のS氏、プランニング会社N氏と中野のJAZZバー『ZAZIE』で飲み会。早稲田通りに程近い路地にあるこの店はS氏の行きつけなのだが、お客さんたちも地元の常連さんが多くわきあいあいと飲んでいる。マスターが台湾の淡江大学に留学していたということで台湾にいた者同士盛り上り、よくよく話を聞いてみるとその後シンガポールで働いていたということで、まったく自分と同じルートをたどっていたのでさらにびっくり。しかもどうやら同じ頃に在住していたらしいということで日本人のよくたまっているお店の話題を振ってみるとなんと共通の知人が多く、お互い縁は異なものと驚いていた。そのやり取りを聞いていたお客さんの一人が、自分も会社でアジア担当だよと話に加わってきたので勤務先を聞くとN新聞社だという。“自分の兄が同じ会社だよ”と、またまたちょっとした偶然に笑って名刺交換すると、なんとなんと兄の直属の部下だということが判明!以後、深夜まで大騒ぎとあいなった。S氏と一緒じゃなければ絶対来ないであろう店でこんなにも偶然が重なる奇妙な夜であった。

●12月4日
編集制作会社FY社のY社長が打つあわせで来社、夕食を共にする。街はそろそろ忘年会も始まりつつあるのだろうか結構込んでいたので、会社のそばの和風ダイニングの大型店『鶏・旬菜・お酒 てけてけ神保町店』に入りなんとかカウンター席を確保。博多風の水炊きが店の自慢料理ということらしかったので注文してみたが、どうもしょっぱすぎて期待はずれ。店のデザイン等はけっこうこっているのに他の料理もおしなべてイマイチ。早々に切り上げる。

●12月6日
土曜出勤だったがある単行本企画のブレーンストーミングがあり大手町のS新聞社へ。S新聞発行のテレビ雑誌の編集長I氏はかつてライバル関係にあった雑誌の編集長だったこともありよく知っていたが、10年ぶりくらいの再会である。会議終了後I氏と部下のH嬢、TエージェンシーのY氏と大手町の地下鉄に連結したフードコートにある『ビストロ リヨン』で親睦をかねて軽く一杯。ここのシェフはフレンチの名店『三国』出身でなかなか料理もおいしいということで平日のランチタイムは行列ができるそうである。土曜のしかも午後遅い時間だったのでゆったりできたのだが、軽く一杯のつもりが結局ビールからワインへ変わって2本ほどボトルが空いてしまう。しかもせっかく料理に定評のある店だったにもかかわらず軽いつまみのみでひたすら飲んでいたのですっかり酔いが回ってしまい仕事にならず。『いもや 専大前店』で夕食。

●12月8日
編集プロダクションB社のY社長が来社。ここのところの出版不況に加えて景気の後退で先行き不透明なのは紙を主体にした会社ではどこも同じで愚痴のこぼしあいになる。以前Y社長のところの仕事をちょっと手伝ったのでお礼に夕食をおごってくれるということで、景気が悪い話の後で恐縮したが会社の近所のレストラン『SOUP DERI』でゴチになる。

●12月9日
T出版O社長が来社、食事に誘われ雨の中水道橋にほど近い路地にある知る人ぞ知る中華料理屋『大興』へ。安くてうまくて飲めるということで遠くからもわざわざ客が探してやってくるひそかに人気のある店である。
雨にもかかわらず店は込んでいたがなんとか空いていた2人席に座った。ところが隣が数人の大学生で酒が入って大騒ぎしているは煙草のけむりはもうもうと立ち込めているはで閉口する。安くてうまいを味わうにはそれなりの代償もあるが、安くてうまいに勝るものはないので多少のことは仕方がないか。

●12月11日
お世話になっているデザイン会社M社のOG社長と忘年会ということで、M社の女性デザイナー3名とT出版O社長が加わり四谷荒木町のスペイン料理『ラ・タペリア』へ。それにしてもアラフォー(失礼!)のデザイナー嬢たちは実によく食べ飲み、すっかり彼女たちのペースにはまってしまい次々とワインのボトルが空いていく。なかなか楽しく盛り上がった会だったがOG社長にはすっかり散在させてしまった。ごちそうさまでした。

2008年12月14日日曜日

牛のげっぷが問題といわれても


ポーランドのポズナニで開催されていたCOP14(気候変動枠組み条約締約国会議)が約2週間の協議をほぼ終了したが、京都議定書に続く地球温暖化対策の国際枠組み作りにほとんど進展はなかった。ほとんどの国が2020年までに25~40%の削減が必要との認識を持ちながらも途上国と先進国の溝は埋まることはないということのようだ。
今回特に事務局の報告書から明らかになったことのひとつが、農畜産業関連分野は工業や運輸部門に比べ削減対策が遅れており対策強化の急務が訴えられたこと。水田や畑などからは微生物の働きでCO2の20倍もの温室効果を持つメタンが発生することと、家畜の消化管で発生するガス=いわゆる牛のげっぷにも同様のメタンが含まれていて、さらには窒素肥料の利用でCO2の300倍の温室効果がある一酸化二窒素が発生するのだとか。驚くのは現在の農畜産分野での温室効果ガスの排出量は全体の10%相当に達していて、ここ十年で17%あまり増加しているという事実である。

当然この分野の排出は途上国がメイン(約75%)で、人口の増加、肉食の増加で排出は今後も増え続けてしまうのである。経済発展の途上にある国が先にその恩恵を甘受してきた先進国と同等の排出規制は不公平という理屈が国際的な枠組みを阻害しているのだが、途上国は今後の経済発展の工業部門の伸張ということだけではなく、すでに農業部門でも排出の増加が垂れ流されているわけだ。しかも先進国の食糧供給のためには途上国の農畜産業は前提でもあるゆえ、一概に対立の図式だけでは計れない。

以前民放の番組で、松村邦洋が牛のげっぷを吸い取るというオバカな企画をやっていたが、あながち的外れとはいえないところがかえって空恐ろしくなる。たかが牛のげっぷと笑い飛ばせない、事実、このニュースを伝えるロイター電の写真でメタンを集めるタンクを背負わされたアルゼンチンの牛の写真が掲載されていてびっくりした。
昨今のBSE問題で食の安全が問われたが、単に飼育されているだけで環境に悪影響を与えていると決め付けられては牛だって心外だろう。肥料の適正使用や、農地や飼料の改良で改善の道を探るしかないようだが、報告書では特に途上国への技術支援や排出量取引等の政策措置が重要と指摘しているそうである。

来年は丑年。
100年に一度の不況の嵐に見舞われている現在、少しは節制と環境問題も考え高い牛肉を控えてみるのも悪くないかもしれない。それでもお寒い懐具合のときは安くて早くてうまい吉野家は止めようがないけど。

2008年12月8日月曜日

現代史を描いた2本のドラマを観て感じたこと

週末2本のテレビドラマを観た。両方とも戦争をテーマに取って現代史を描いた長時間スペシャルドラマである。

一本目は6日土曜日にテレビ朝日で放送された『男装の麗人~川島芳子の生涯』。清朝の粛親王の王女として生を受け、日本人の大陸浪人・川島浪速の養女となり満州国建国の影で暗躍し、戦後漢奸として処刑された女スパイの一生を描いたもの。
原作は村松友視の同名著作で、村松の祖父にあたる作家・村松梢風が当時川島芳子との交友を通してしたためた実録風小説を題材にとり、彼女の数奇な運命をたどっていくという内容。主演は芳子役に黒木メイサ(晩年は真矢みき)。掘北真希(李香蘭)、仲村トオル(甘粕正彦)、中村雅敏、平幹二郎、高島政伸、吹越満といった豪華な配役である。現代史ものを制作する場合はオープンセット等に金がかかると聞いたことがあるが、日本、満州、上海と舞台が点々とするだけに、テレ朝もかなりの力を入れたのだろう。ただし、内容の方はなんだか駆け足で芳子の生涯を説明的にたどるのみで深みが全然感じられない。時代に翻弄される悲劇の女性の内面を描こうとするのだが、肝心の時代の描き方、雰囲気がちゃっちいので女性像自体も浅薄なものになってしまった感がある。
よもや会社の企業的な姿勢ということもないのだろうが、日本及び傀儡国家・満州国と中国との歴史認識が単純に一元化されてしまい、女真に端を発する清朝と漢民族国家としての中国の相克を日本対中国というようにごっちゃにしていて、川島の存在の意味が全く判然としない。まあ、民放のエンタテイメントにそこまで求めるのも酷かもしれないが、かつて民放でもテレビマンユニオンが手がけたように製作者としての理念、歴史の真相をできるだけ極めたいという熱みたいなものが無いと、現代史ものなんかやめておいたほうがいいだろう。まあ、黒木メイサのチャイナドレス姿は結構「萌え」るものがあったので、それなりにお楽しみはあったんだけどね。

もう一本は7日日曜のNHKスペシャル枠で放送された『最後の戦犯』。これは実際にBC級裁判の横浜法廷で最後の戦犯として裁かれた油山事件の被告・左田野修氏の手記を基にした小林弘忠著『逃亡<油山事件>戦犯告白録』をドラマ化したもの。戦犯ものは現在中居クンのリメイク映画『私は貝になりたい』の大宣伝で変な脚光の浴び方をしているが、個人的にはつい最近、帚木蓬生の長編小説『逃亡』を読んで圧倒されてしまっていたので、そういう意味では戦後の戦犯容疑者の潜伏事例にすごく関心がありタイムリーなものとなった。
主人公に最近の日本映画界で独特の存在感を放ち人気上昇中のARATAを起用したのだが、逃亡下のスリリングな緊迫感や焦燥感、心理的な葛藤や懊悩をよく演じきっていたように思う。超縦割りの日本の軍の命令系統で捕虜虐待の実行為者となった現場の兵を、勝った側が非人道行為を理由に一方的に裁くことができるのか?また、戦争に積極的に加担した日本の警察機構や一般の庶民が、戦犯とされた人間に対して手のひらを返す資格があるのか?ドラマは全編を通して常に問いかけ続けていく。東京裁判史観を右へ習え的なムードで批判する昨今の風潮の中でNHKの看板で正面から戦犯問題を取り組むにはなかなか根性が必要だっただろう。
さらには巣鴨プリズンの同房に朝鮮人戦犯を登場させ国家の狭間で浮かび上がった矛盾を提起するなど、製作者サイドの意欲的な取り組みは大いに評価できる。制作はNHK名古屋だが、ここの局は『中学生日記』や『ながらえば』とか、昔から社会派もので頑張っていたよなあ。

別に民放だからNHKだからと見方を変えるわけではないが、戦争に翻弄される人間像というテーマで見比べたときの質的な差は大きい。戦争の記憶が風化していく時間の経緯のなかでどれだけ現代史の実相に迫れるのか?作り手側の世代がぐっと若くなっていくなか、セットや配役に金を賭けるだけでは歴史が持つ意味まで表現はできない。膨大な資料、情報をこつこつとあたり、原作者やモデルとなった人間にどれだけ近づけるかという熱意、志というものが大前提なのだ。