先日、仕事の合間に時間が出来たので伊勢神宮に参拝にすることにした。私自身が来年に古稀を迎えるので、おかげ参りをするにはいいタイミングじゃないかと思っていたのと、その足で亡き父親が青春の一時期を過ごしたという津市香良洲町にあった三重海軍航空隊の地を一度訪れてみたいという理由もあった。伊勢神宮で国家の安寧を祈った翌日、宇治山田駅から久居駅までローカル線で移動し、久居駅から一時間に一本の間隔で運行している三重交通バスで香良洲公園を目指す。ただなかなか時間に合わせた乗車がうまく行かず、猛暑の中バスの待ち時間がかなり生じてしまったのには閉口した。久居駅周辺は何もない田舎の駅で立派なタクシー乗り場はあるのだがそのタクシーの影もない。待つこと40分余りようやく到着したバスに揺られること約50分、人気の全くない海辺の香良洲町に着き大汗をかきながら現在は歴史資料館になっている三重海軍航空隊跡へと歩を進めた。バス停から10分ほどで3階建ての比較的新しい歴史資料館の敷地に立つ当時の三重海軍航空隊の大きな門柱(移築したそうである)に迎えられた。
三重海軍航空隊は海軍の飛行機搭乗員を育成するために、霞ケ浦に続き当時中学生年代の予科練の少年たちの基礎訓練をするために昭和17年に開隊した施設で、翌年には学徒動員により徴集された予備学生や予備生徒といった士官候補生らも入隊することになる。私の父は昭和19年の2月に第一期飛行専修予備生徒(大学予科、高等専門学校出身者)としてこの門をくぐったはずである。ここで飛行適性や座学、そして軍人としての精神を徹底的に叩き込まれ、半年後に飛行実地訓練で台湾の虎尾航空隊へ配属されていく。
歴史資料館は戦後関係者によって若桜会館という名で建てられ平成10年に市に寄贈され、隊員たちの遺品、戦争遺構に加え戦時下の中部地方の戦災の記録や生活の様子などの資料も展示し平和歴史教育の施設として整備されたそうである。3階建ての資料館の玄関を入ると、平日の午前中ということもあり閑散としており、私の訪問に気づいた館員の年配女性が慌てて出迎えてくれた。館内の参観手順を聴いた後、1階には航空隊の概要や年表、戦後伊勢湾で引き揚げられた零戦のエンジンなど、2階は一般的な戦時下の歴史を物語る写真や資料、そして3階で航空隊の隊員たちの遺品や遺書、などの展示を見て回った。たったひとりで割と広い静寂に包まれた館内を回るのもちょっと淋しい感じがしたが、何十人もの戦死者の遺影と向き合っていると一人ひとりから語りかけられているようで、なんとも心が苦しくなる。あらためて彼らの鎮魂への思いと平和への思いを新たにした。
1階のフロアに戻ると館員の女性から資料館のあらましや床に貼られた当時と現在の位置関係がわかる地図の解説を受ける。来館の目的を尋ねられ、父親が在隊していたことを告げると事務室の奥の方から分厚い在籍者名簿(戦後関係者によって編纂されたもの)を持ってきてくれた。予科練と違い予備学生は比較的少ないのときちんとア行から名前順に整理されているので、すぐに父親の名前を見つけることが出来た。戦後80年近い時間が経過しながらも確かにこの地に居た父の存在の証が遺されていることに感じ入るものがある。見れば名簿には多くの付箋が張られており、ここに訪れた多くの元隊員や遺族の思いも伝わってきた。すでにほとんどの在隊者は鬼籍に入り、これからは兄弟子供たち遺族も段々と減っていくのだろう。記憶の風化は止めることはできないのかもしれない。ただ、願わくばこの資料館がさらに存続し歴史の一端を後世に伝え続けていって欲しい。
親切に対応していただいた臨時雇いだという館員の女性に挨拶をし、外に出ると照り付けるような日差しとともに秋の気配も少し感じる広い広い青空が広がっていた。
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