映画『終戦のエンペラー』(ピーター・ウェーバー監督)を期待半分で見に行ったのだが、やはりまあこんなもんだろうという感想だった。
期待していたのはハリウッド的な撮影による焦土東京の再現、もしくはGHQ本部となった第一生命ビルや荻外荘(近衛邸)、厚木飛行場といったセットがどう組まれているのかということ。焼け跡時代を舞台にする映画はとかくセットに金がかかると聞いたことがあるので、邦画に比べて製作費的には潤沢であろうハリウッドのスケール感みたいなものには興味があった。当然SFXを多用しての1945年の東京を映しだしたわけだが、確かにこんなかんじだったのだろうかというイメージ作りにはある程度成功だったのかもしれない。またプロデューサーの奈良橋陽子さんの存在が大きかったのだろうが、現在の米国人が日本の占領時代に目を向けること自体が珍しいし、その時代の自国の評価をめぐっては、ニューディーラーたちの実験とその後の右旋回をたどる複雑な政治潮流を思えば、必ずしも制作するには面白い時代でもなかったかもしれない。
本国の公開時の反応を読むと、野心的な取り組みという評価とともに、侵略国の罪状を描かず日本に対して同情的すぎるという論評も当然のように起きたそうであるが、近衛文麿にアジアの侵略は近代の欧米に学んだと言わせたりするあたりに、奈良橋さんの気概も感じられる。泥縄式だった報復としての戦犯狩りへの疑問も盛り込まれたあたりは、まったく正義の味方という米国の価値観一辺倒ではない表現に好感はもてた。
でも、やっぱり全く架空のロマンスを話のメインに置くのもなあ・・・、ましてや主人公のボナー・フェラーズ准将が恋人の身を案じて爆撃目標を操作したなんてありえない設定はいかがなものだろうか?しかもフェラーズはじめ天皇を戦犯指定にせずに占領政策を円滑に進める施策に当たっては、戦後日本を共産主義の浸透に抗するのを一義にしてのイデオローグであったわけで、あたかもフェラーズが恋人も日本人で親日的な人だったからなどという表層的な描き方はちょっと納得しかねる。
外交官だった寺崎英成やクエーカー教徒の河井道さんなどの個人的人脈はあったものの、バターンボーイズのフェラーズが対日戦略上の知日派であったとしても必ずしも“愛する日本”のために奔走したわけではあるまい。
だとするならば、戦後の日本を民主主義の理想の実験場にすべく憲法草案や財閥解体をはじめ、明治以来の日本の旧弊に敢然と立ち向かい、その後赤狩りの前にパージされることになったニューディーラーたちの業績へもっと光を当ててほしい。ましてや、憲法改正が声高に語られるようになった現在ではなおさらである。
しかしいつになく映画館も中高年の観客も目立ち、そこそこ動員されているのはなぜなんだろう。中国韓国の歴史認識批判にうんざりする昨今の日本人のいらいらの反動というわけでもないと思うが。
配役的にはトミー・リー・ジョーンズのマッカーサーもなかなか雰囲気はあった。日本側では 近衛役の中村雅俊もよかったが、枢密顧問官・関屋貞三郎役の故夏八木勲の演技はみもの。奈良橋さんは関谷顧問官のお孫さんだけあって、フェラーズが宮中に会いに行くくだりはなかなか迫力をもって描かれているのは、この映画の見どころの一つ。
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