東京国際映画祭4本目と5本目の作品は、「アジアの風」から離れて欧州のコンペティション作品2本。
まずは英国のノワール作品『ブライトン・ロック』(ローワン・ジョフィ監督)。グレアム・グリーンの原作の2度目の映画化で、前作は主人公のヤクザ者ピンキーをリチャード・アッテンボローが演じた。小説が発表されたのが1938年だったが、今回のリメイクでは舞台設定を時計の針を25年ほど進めて1960年代に変えている。ただしストーリー自体は原作を忠実に追っていて、単なるノワール物ではなくグリーンのバックボーンとなっているカトリシズムに一歩踏み込んだ内容でなかなか重厚感のあるものに仕上がっている。
60年代のブライトンを舞台にというとザ・フーの「Quadrophenia」をベースにした『さらば青春の光』(1979)を思い出すが、まさにこの映画で描かれていたモッズ族とロッカー族の抗争が、『ブライトン・ロック』本編のストーリーとは別個に時代性を浮かび上がらせる背景として再現された。あたかも『さらば青春の光』のジミーやステフ、スティングが演じたエースの青春群像と時間進行が交差しているようで、ドラマのモブシーンのどこかに彼らが跋扈しているかのような感覚にとらわれてしまう。上映後のティーチインで当然のようにこの作品からのインスパイアに関して質問が飛んだが、監督自身はそれほど思い入れて60年代に設定を動かしたわけではなく、単に<怒れる若者>の象徴として時代を選んだと淡々と語っていたのだが、観る側のイメージ効果を相当意識したのは確かだと思う。
主演のピンキー役のサム・ライリーはディカプリオを強面にした感じでなかなかとんがった感じがよく出ていたし、事件に巻き込まれピンキーを愛してしまう野暮ったいウェイトレス、ローズ役のアンドレア・ライズボローがまた素晴らしい。おどおどしたイケてない少女が<女>へと変貌していく様を実によく表現していた。わきを固めているヘレン・ミレンの存在感も特筆すべきだろう。
ストーリー展開も前半のヤクザの縄張り争いを巡る犯罪と、後半の目撃者の口をふさぐためのサスペンスがスリリングに迫ってきて、ラストのカトリック的な奇蹟による「救済」に思わずため息をつかされてしまった。また60年代のブライトンの再現はなかなか苦労したようだが、現在は1本焼け落ちてしまっているブライトンの象徴である桟橋をCGで生き返らせた手の込んだ美術も良かった。英国映画史ベスト100に選ばれている前作に負けず劣らない力作と言ってもいいだろう。
2本目はイタリアの作品で『そして、地に平和を』(マッテオ・ポトルーニョ、ダニエレ・コルッチーニ共同監督)。タイトルはヴィヴァルディの重厚な宗教音楽からそのまま命名されたものだが映画でも全編で効果的に使用されている。
舞台となっているのはローマ郊外の不況を絵にかいたようなさびれた町で、映画の象徴となっている廃墟のような巨大な団地の建物がその寒々しさを強調する。登場人物の男たちはカフェのオヤジを除けば見事に全員職についていない。少年たちはすることもなく真昼間からぶらつき、もう少し大人たちもヤクの売人くらいしか仕事が無いのだ。これがある面、観光地ではないイタリア社会が現実的に直面する病理的な姿なのだろう。主人公はムショ帰りだが女房に見捨てられ、仕事もなくただただ、ベンチに座ってコカインの受け渡しをする生きながらも死んでいるような孤独な男である。一方で見せかけの友情でつながる3人組のチンピラ。貧しいながらバイトしながら大学に通う女子学生。彼らのドラマ性のない日常が延々と映し出されながら、徐々に最悪の運命にむかって話が集約されていく。そしてラストの逃げ場のない救い難い悲劇。後味の悪さを引きずる意味で同じ殺人犯罪を描いた『ブライトン・ロック』と対極にあるようなラストであった。作品自体の評価に関しては意見が分かれるところだが、一見陽気なイタリア人の持つ裏の顔というか、根の暗い情念というものを感じさせるに充分な重い作品であった。
他にも各国の意欲的な力作が多いコンペ部門でこの2本がどう評価されるか気になるが、対照的ながらも制作サイドの意欲や熱意がひしひしと伝わってくるという意味で、なかなか収穫多き作品と出会えた気がする。
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