2011年3月31日木曜日

カズダンス

29日の日本代表対Jリーグ選抜のチャリティマッチ。
この日は仕事の関係で外にいて、深夜帰宅してから一人でビデオ録画観戦となった。

最近は節電生活が身についてしまったので照明を落とした中で静かに観ていた。そんな状況も含め60年代から長きにわたってサッカーを見続けてきたが、中でも最も印象的な試合の一つになったと思う。

アジアカップを制したザックジャパンの進化に確かな手ごたえもある。遠藤のフリーキック、岡崎の“らしい”飛び出しからの得点も素晴らしかったが、まして両チームの選手一人ひとりがフレンドリーマッチということで手を抜くこともなく、一生懸命全力を尽くす姿に胸が打たれた。

東北出身の小笠原や今野、仙台所属の関口や梁、決していい出来ではなかったけど魂を感じさせる。
そして44歳のキングカズ=三浦知良のGOAL! なんて絵にかいたような、なんて出来すぎな、素晴らしい結末。

震災の現実の前ではなどんなきれいごとも色あせてしまうが、避難所生活を強いられる中、普通の日々の到来を待ちわびる被災地区の少年少女たちにすくなくとも一瞬の笑顔をもたらせることが出来たとしたら、彼らの精一杯の“仕事”はむくわれたのではないだろうか?

2011年3月25日金曜日

リズもいなくなってしまった


震災、原発事故と日本中が揺れるさなかの3月23日、世紀の美女と謳われたエリザベス・テイラーがロサンゼルスでうっ血性心不全のため亡くなった。
享年79歳。

こんな事故が無ければ、日本でもその死を悼む報道があふれたはず。

晩年の全身整形やマイケル・ジャクソンとのゴシップのイメージも強いが、1950~60年代半ばまでの息をのむような美しさは忘れ難い。
個人的には『熱いトタン屋根の上の猫』『バターフィールド8』の下着姿に悩殺されたのを思い出す。

2011年3月14日月曜日

その日の事、そしてこれから


3月11日午後2時46分、東北を中心とする日本列島を強襲した大地震は、戦後日本最悪の惨事となった。

当日は会社に居たが地震発生時その衝撃に正直生きた心地がしなかった。一瞬、ついに東京大震災が起こったのかと思って机の下に潜り込んでいたがなんとか揺れが収まって外に避難していると、さらに何度も余震が襲う。
近所の立ち飲み屋のマスターや、ラーメン屋のお兄さん、向いの会社のスタッフたち、そういつもの人たちがいる。神保町のご近所さんたちと顔を合わせるとようやくなんとなく落ち着いた。
一段落して事務所に戻ると高いところにあった物はすべて落下、PCは倒れ、デスクの上の書類は散乱、本棚とかよく倒れなかったものだ。
家人や友人へ安否をたずね電話をかけるもなかなかつながらない。
不思議とツイッタ―だけは生きていて、様々なメッセージが伝わりだす。
かなり大きな被害が出ているらしい。

やれやれと部屋を片付けていたが、そのころはまだ事態の重大さを理解できていなかった。夕方になってテレビで観たのは東北地区の目を覆うような津波の惨状である。刻々と伝わってくる被害の大きさに慄然とする。
まるで映画のように嘘くさい映像がまぎれもない現実であることに寒気がする。福島の原発が破損して深刻な事態になっている事にも不安が募る。

この日の東京は帰宅難民であふれたが、幸いにも深夜になって電車が復旧し帰宅することはできた。妹とも連絡が取れ実家も無事である。居住するマンションもワイングラスがいくつか落下して割れたくらいで大きなダメージはなかった。
メールも復旧し、あの津波の映像をNWESでみたのだろう台湾や海外にいる友人から安否を確認する連絡が多く入っていて、とりあえずの無事を報告する。1999年の台湾大震災を現地で被災した時のことを思い出す。あのときは日本から多くの問い合わせがあったが、今回は台湾からである。
気遣ってくれたすべての人たちに心から感謝したい。

東北の人たちのことを思うと心が張り裂けそうになるし、福島の原発の不安も大きくなるばかりだ。
今回の震災における津波の被害は戦時下の空襲に匹敵するのではなかろうか、復興までの長い時間と膨大な労苦を考えるとただただ茫然とする。
われわれは未曾有の国難に直面しているのである。
一夜たって、電力不足につき節電の要請が公告される。台湾の時も震災後ずいぶん長く停電で苦労したことを思い出す。
被災地のための支援で何が出来るのか、ということで当面せめてもの節電で協力するくらいしかできないが、
個人としてはやれることをやっていくしかない。ひとり一人は無力だがせめて前だけは向いていくこと、いつも被災した人たちのことを心に宿し、精いっぱい暮らしていくだけだ。

世界中からこの国難に立ち向かう日本に支援の輪が広がりだしたのも涙が出るほど嬉しいし、日本人の高潔さとモラルの高さを賞賛される度に誇らしい気分にもなる。
必ずやこの国家的な危機から立ち上がれる、海外からの心温まる支援の声はそう信じさせてくれる。

明日から、また。歩きださなければ。


謝謝!台湾


ありがとうレアル


ありがとうセビージャ、バルサ


ありがとうチェゼ―ナ


ありがとうクロアチア

2011年3月9日水曜日

週間呑みアルキスト2.14~3.6


●2月15日
A新聞社KS氏主宰のジャーナリストの「日本サッカーを語る会」に参加。会場は青山一丁目のもつ鍋屋『青山元気』。ここの店長さんは元フットサル日本代表選手でサッカーファンの集まる店で有名な場所。この日のゲストスピーカーははワールドカップの招致のロビー活動に従事しこのほど帰国した電通のHG氏。残念ながらカタールに決まってしまった2022年招致の基調報告を聞く。カタールのFIFA役員に対する一人あたりの接待費が日本の総予算と同等と、まさに国家をあげての招致活動のすさまじさをなまなましく語ってもらったが、今後五輪、ワールドカップはほぼ100年は日本招致は無理なのではというのがHG氏の実感だそうだ。それは日本がアジアで先んじて様々な国家イベントを成功させ、今後は“豊かになった”中国なり湾岸諸国なりが開催を希望するのもいたしかたないのだろう。幸いサッカーに関してはこのたびのアジアカップの優勝に見られるごとくアジアでの輝ける地位をようやく手にしたわけなので、今後はこのサッカーを通じたアジアのハブを目指すべきなのではと言うHG氏の論点に納得させられる。

●2月16日
もとW誌の編集長を歴任した女性編集者のSGさんと打ち合わせ方々、神保町の居酒屋『平蔵』で会食。SGさんとは90年のW誌創刊以来のつき合いだが、現在はフリーになってしばらく休養されていた。今後の仕事でのアライアンスを含め、このあっという間の20年を振り返りながらしみじみ語りあう。

●2月18日
かねてからサッカーアジアカップの優勝を祝して飲み会をやろうと、わが社の近所の焼き鳥ダイニング『ぼんちゃん』で宴席を設ける。集まったのはサッカー好きのデザイン会社BN社の面々と編集者のKJ氏、HZ嬢、SM嬢と総勢6名で夜遅くまで大騒ぎ、勢いで深夜まで営業しているBAR『シャルルボイル』に流れ、解散になったのは深夜3時、一行はそれぞれタクシー帰宅。こちらはケチって会社に戻って始発が出るまで仮眠。

●2月23日
FK誌の仕事で菅平高原に1泊2日の出張取材。スキーシーズン真っただ中で車での雪道走行に気を使ったがスキー場周辺は積雪もなく、気候も日中は春スキーのように暖かいが、飲みに出かける夜になるとさすがに氷点下。凍結して滑る道に気をつけながら菅平の居酒屋『永吉』で暖を取る。聞けばこの店、夏はラグビーの有名選手たちでにぎわうそうだ。このあたりは水も美味しく当然酒もすすむ。こういう出張もなかなかいいもんおである。

●2月25日
FK誌の取材で、編集部の近くの新宿富久町『和風ダイニング 然』で少年サッカーの指導者HD監督と食事をしながらインタビュー。少年サッカークラブの経営的な問題とNPO化に向けた取り組みを熱く語ってもらう。こういう熱心な草の根の指導者たちの取り組みが、日本サッカーの底上げにつながるのだろう。

●3月2日
FK誌の取材が続く、この日は甲府の山梨学院大学まで日帰り出張。山梨学院サッカー部の名物監督塚田雄二氏のインタビューである。塚田氏はJ2甲府、セレッソ大阪、さらにはU20日本代表監督も務めた経験もあるJFAを代表する指導者でもあるが、自身で実家のブドウ園をつぶしてサッカー場を造り子供たちを日々教えているという、まさに「フィールド・オブ・ドリームス」を実践しているほどのいわゆるサッカー馬鹿である。
こういうサッカー馬鹿の情熱が、今回のアジアカップの戴冠につながっていると改めて認識させられた。帰りには山梨学院特製のワインをお土産に頂き恐縮する。せっかく甲州路であるのでとっぷりと日が暮れた帰路、中央道のインターに乗る前に『雲亭』という店で名物ほうとう鍋と馬刺しに舌鼓を打つ。

●3月4日
元編集者のKJ氏が来社、この日も寒い一日だったのでそのシメということで神保町は専大通りの『侘助』という蕎麦屋にて鍋焼きうどんで一杯。『明治屋2nd』に流れる。

●3月5日
EAGLESの東京ドーム公演の初日。5時からのコンサート開始は終了後余韻に浸る時間の余裕があるのが良い。同行のディランフリークのKN氏も、EAGLESの時代を作った数多い名曲の素晴らしさには異論もあろうはずがない。終了後は神保町の『東京アチコーコー』でワインを飲みながら80年代の良き時代を語り合う。

●3月6日
EAGLES東京公演の2日目。この日もツイ友さんのBB氏が同行。ことEAGLESに限ってはやはりオヤジのロックフリークと行くのが楽しいのだ。終了後は日曜も営業する新宿三丁目の居酒屋『かり屋』に。ここで偶然にもやはり共通のツイ友の広告マンTDご夫妻が居合わせ合流。EAGLESの余韻に浸るにはBGMが昭和歌謡なのが気にかかるがまあ、EAGLESもある意味昭和歌謡であるというBB氏の説にいたく納得。

2011年3月7日月曜日

EAGLES 過去の自分に会いに行く時間


週末の土日、2日連続でイーグルスの東京ドーム公演に行く。

過去5度のコンサートで4回目。なんだかんだいいながらこんなに付き合っているアーチストはイーグルスだけである。70~80年代という自分の同時代の象徴的なミュージシャンということで、単に音楽を聞くという行為以外に過去の自分に会いに行く時間という意味合いもあるような気もする。

いつもこれが最後の来日?というあおりでついつい高額チケットを買ってしまうのだが、きっと数年後にも“最後の”コンサートを観に行っているであろう事を信じてやまない。


今回のコンサートも東京ドームという、音響的にも視覚的にもとてもベストとはいえない器だが、衰えなんか微塵も見られない、80年代当時のまんまの演奏に酔いしれることができた。
こんなに格好のいいおっさん達も他に類を見ない。


以下セットリスト

Seven Bridges Road
How Long
I Don't Want to Hear Anymore
Hotel California
Peaceful Easy Feeling
I Can't Tell You Why
Witchy Woman
Lyin' Eyes
The Boys of Summer
In The City
The Long Run


No More Walks in the Wood
Waiting in the Weeds
No More Cloudy Days
Love Will Keep Us Alive
Best of My Love
Take it to the Limit
Long Road Out Of Eden
Walk Away Play Video
One of These Nights
Life's Been Good
Dirty Laundry
Funk #49
Heartache Tonight
Life in the Fast Lane

(Encore)
Take It Easy
Rocky Mountain Way
Desperado

2011年3月6日日曜日

フィールド・オブ・ドリームス


“そこに作ると彼らがやってくる”
映画『フィールド・オブ・ドリームス』では「ブラックソックス事件」で追放された選手たちを呼び寄せるためにトウモロコシ畑を切り拓いたが、山梨学院大学サッカー部監督・塚田雄二氏は次代を担う子供たちを呼ぶためにブドウ畑を切り拓いた。

塚田監督はサッカー界では知る人ぞ知る指導者である。自身は韮崎高校から日体大を経て社会人チームの甲府クラブ(ヴァンフォーレ甲府の前身)で活躍。引退後は後進の指導に当たりJリーグ創設で甲府が加入した後は監督に就任、セレッソ大阪の監督、ユース年代の日本代表監督を経て現在は山梨学院大学の監督を務めているほか、協会の指導者養成のコーチ等の要職にもついている。
先週、『FOOTBALL KALTE』誌の取材で、この塚田監督のインタビューをしてきて深い感銘を受けた。
塚田氏は大学を指導する傍らUスポーツクラブという少年サッカークラブを主宰していて、もうすでに20年近く子供たちのサッカー指導にもかかわってきた。いわば歩き出した子供からプロのトップチームまで、さらにはプロから監督になる指導者にいたるまで教え続けるサッカー界でも稀有な人でもある。


驚いたのはUスポーツクラブの夜間照明設備の整った人工芝のグラウンドが、塚田監督が実家のぶどう園をつぶして作られているということだ。まさに映画を地でいくような話である。大学や日本協会での激務の傍ら子供たちを連れて他県だけでなく海外への遠征も体験させたり、その情熱には頭が下がる。この日も教室が始まる時間になると大勢の父兄が車で続々と子供たちを送りに来ていた。まさに映画のラストシーンのようだ。
“山梨の地から世界で活躍できる選手の育成を”という信念に基づいて私財をなげうって作られたこのグラウンドから、すでに山梨学院大付属高校で選手権で優勝した選手も輩出している。塚田氏のフィールド・オブ・ドリームスが現実のことになるのもそう遠い将来ではないようである。

昨年の南アフリカでのワールドカップ以来の日本代表チームの目覚しい活躍には、実はサッカー界の裾野で陽になり陰になって支えている塚田監督のようなサッカー馬鹿の功績が大きい。