2010年3月13日土曜日
父親が飛んだ空へ
日航の経営危機にともない、国内線赤字路線の撤退が相次ぐなか開港を迎えた茨城空港のニュースが、このままアシアナ便、スカイマーク神戸便だけで経営は大丈夫か?という心配や、従来の航空行政の批判と相まって大きく取り上げられていた。
確かに、東京在住者からしてみたらアクセスは悪いは、使い勝手は悪いはでいいところは何もない。おそらくよっぽどのことがない限りこの空港を利用することはなさそうな気がする。
ただ、個人的には実はこの空港は一度“行ってみるべき”“行かなければならない”空港なのだと思っている。
茨城空港=百里空港はその地名のとおり、航空自衛隊百里基地との共用空港で、もとをただせば旧海軍百里原航空隊がそのルーツである。
百里原空は九九艦爆や九七陸攻の基地(写真)ということで、昭和19年には人間爆弾として悪名の高い桜花の七ニ一空(神雷部隊)が創設されていることでも知られている。戦争末期には菊水作戦の特攻隊正気隊が編成され85名の予備学生や予科練の若い命が散っていった。戦後は航空自衛隊が引き継ぎファントム基地として名をはせたし、基地の滑走路増設阻止のため百里訴訟の舞台としても物議をかもしてきた歴史を持つ。
私の父親はこの百里原艦爆隊の予備学生(飛行専修一期生徒)として、この地で昭和20年の終戦の日を迎えた。悪化する戦局で飛ばす飛行機にも事欠き、なんとか生き延びたのではあるが、特攻出撃・本土決戦を待つ焦燥の日々を過ごしていたそうである。
最近、実家の父親の遺品や蔵書を整理していくうちに、いままであまり父親も語らなかったし自分も興味がなかったので知らないままだった父親の戦争体験が徐々に判ってきた。自分が歳をとってきたこともあってなんとなく父親がたどった半生をなぞってみてみたくなったこともある。百里原空に転ずる前に所属していた台湾の虎尾空の跡地にもいつか行きたいとかねてから思っていたが、茨城空港開港のニュースでこの空港に行ってみるのも供養になるのかななんて少し想い出した。
この飛行場から離陸した後見る光景は若き父親が空の上から観たのと同じ光景なのかもしれない。そう思うと俄然観てみたくなってくるというものだ。
とはいうものの、どういう利用の仕方があるのだろう。韓国に旅行するか、はたまたうまくチャーター便とかで台湾とか行ける機会があるのだろうか?
ニュースの論調としては“こんなところに空港作っても”という無用論や利権行政の悪しき実例と、否定的な取り上げられ方が圧倒的である。
ただ、悲しい過去を持つ空港が、軍民共用とはいえ平和の翼として利用できることには時代の変遷を感じるとともに素晴らしい意味のあることなのではないかとも思っている。聞けば、空港側はアジアの格安航空会社のエアーアジアX(マレーシア)などの誘致を目指して今後も営業努力を続けていくそうである。とすれば韓国旅行以外にも選択肢が広がり、父親の飛んだ空を追体験するという試みも、あながち遠い先のことではないような気もしてくる。
関係者の努力が実ることを祈りたい。
この65年前の百里の光景はいまどう見えるのだろう?
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